閑話 メデゥーサの呪い
スパルタの人間はあまり外に出て行かない引きこもりのようなことをしているが。
遠征に行くにも奴隷の反乱が恐ろしくてできないとか、そんなしょうもない理由で。
ただまあ、今の時代はそんなに奴隷の数が多いわけではなく、人口もそれほど減ってない。ペルシア戦争を境に急激に減るという印象だが…。とにかく余裕のある状態。
丁度エウメリアとベルニケの二人が産後の体調管理で会いに行くことも出来ず。
なので一人で旅に出ることにした。と言っても一か月ほどで終わる予定だが。
俺がいなくても何とかなるだろう、剣士部隊を動かさなくともファランクスは強いので。
ギリシャでも辺境へ行くと地方の特色が違ってくる。
今回行くことになったコルキラと言う都市は特にそれが強い。
立地的にはペロポネソス半島から海を渡っての北に位置する中央ギリシャの西側の最果て。
なぜコルキラへ行くことになったのかと言うと、こいつらはギリシャでありながらヘレニア連邦固有の神話体系を半分ほどしか受け入れていないので、何がどうなっているのかとオリンピア祭典の討論会で話題になったから。
俺はオリンピア祭典には行ってないのだが…。結構近くにある都市なんだけどな、オリンピア。
徒歩で半日もかからない。
ちなみにスパルタの人間はオリンピア祭典へ参加すると、スポーツ分野でほぼ全種目トップを取るという。
それはもはや慣例となっていて、スポーツ分野での優勝はスパルタに決まってるとして、二位争いが激しいんだと。
ただオリンピア祭典は討論会、詩の朗読会、肉体美を自慢するポーズ大会…、みたいなのもあって。
そこはまあ、イオニア人とか、エーゲ海の島から来ている人たちとかが優勝する場合も少なくないようだが。
ポーズ大会でもスパルタ人が優勝しそうではあるが。
優勝することがないんだよな、これが。
なぜって、別に格闘技選手やプロの軍人がボディービルダー大会に出て優勝すると決まったわけじゃないだろう。それと同じ。
全体的に筋肉量も多く、筋肉が出せるパワーも半端ないが、別に見せるための筋肉を育ててるわけじゃない。
それに比べて彫刻文化が発達しているアテナイを含む地域では、専門のモデルたちが見せるための筋肉を筋トレで育てているらしい。
俺はオリンピア祭典には行ったことないのでわからないが、それはもう美しいんだと。
自慢しなくていいから。俺は行かないぞ。多種多様な人種が集まって面白い話がたくさん聞けると言うことには、確かに興味をそそられるが。
都合よくオリンピア祭典の時に妻とベルニケが妊娠しているとか、そんなの狙えるわけないだろう。
と言うか、お前たちも妻をほったらかしにして訓練に明け暮れないで、もっと妻といちゃつけばどうだ。
俺にくれるって、そんな俺がハーレム作ってるみたいに…。
実際問題、同じ父から生まれた子が増えすぎると遺伝子疾患になる確率上がるぞ。
それでいいのか。
まあ、俺も実はせっかく古代世界に生まれたんだから色々見て回りたいとは思っていた。
カラマイを腰にして、スパルタ特有の不味い保存食と革製の水筒。
カラマイとはダマスカス鋼のように波打つ鉄の、日本刀と似たようなデザインの剣のことである。
ヘレニア連邦でこれはスパルタ剣と呼ばれてて、俺たちの間ではただの刃物を意味するカラマイと呼んでいる。
カラマイだけちょっと目立つ、ぶらり旅である。
ヘレニア連邦の中には様々な島があって、典型的な地中海付近に住む南ヨーロッパ人のような人種だけではなく、黒人や褐色肌の人たちも多く住んでいる。
それだけじゃない。
都市国家であるポリスごとに主神が違ったり、神に対する解釈が違ったりして。
ただ神話体系だけは共有する。
これはヘレニア連邦の一員としていられるための条件の一つ。
なのにコルキラでは、土着の神も未だに信じているという。立地的にそうなるのも納得ではある。とにかく隅っこにあるので。
けどコルキラって、どっかで聞いたことある気がするんだが。
女神信仰自体は、そんなに珍しくもなんともない。
アテナイだって女神アテナを信じているので。男が主神だからと威張ることもない。
ただ奴らは聞いたことのない女神を信じている。
ちなみにアフロディーテ信仰が強い都市の神官たちは全員見目のいい女性で、ヘレニア連邦の市民権を持つ男性なら誰であれ望まれた場合は性行為を提供するという…。
行かないから。
誰か転生して興味があるなら行ってみるといいんじゃないかな。
単純に市民権を持つ男性は、スパルタ以外ならヘレニア連邦のどの都市に行っても女性を口説いて一晩を共にするのは簡単だと思うが。
そういう文化である。これは夫を持つ女性にも該当することなので、権力者の妻じゃなければ人妻を口説いても、むしろ男性側がどうぞどうぞと、俺はちょっと友達と遊びたいので、みたいなことが割りとよくあるらしい。
これはもう、おおらかなんて通り越してる気がする。まあ、今の時代になる以前の時代、つまりミノア王国の時代では家母長制だったらしく、その影響かも知れないが。
そう、女性優位社会。
信じられるか、人類の歴史の中で実際にあったんだとよ。
それも地中海の大半を支配していたあの巨大なミノア王国が、家母長制。この時代の服装とか、女性があえて胸を露出して自分の女性性を強調していたと。
なんだ、どこのエロ漫画だ。
このように女性優位の社会だと性におおらか。
ただまあ、ミノア王国が滅亡してからはスパルタ以外の殆どの国々では女性は男性に従属的になっていて。
王国が滅亡すると小さい勢力同士で戦争が頻繁に行われたからだろう、どうしても男性だけ従軍をすると男性側に権力が傾きやすい。
それでもミノア王国時代の雰囲気はそのまま多く残っていると。
俺は別にオデュッセウスじゃないので、順調にいくつかのポリスを通って、コルキラへ到着した。
ここに来る間に色々あったが。
山賊を一人で壊滅させたり、王政を取る国の王様に捕まって息子の剣術師匠をさせられそうになったり、アフロディーテ信仰の強い国で女性たちに追っかけられたり。
ちなみにこの時の話が英雄の物語の一つとして劇になって、ヘレニア連邦で流行ることになるのだが、俺がそれを知るのは大分後のことである。
コルキラにたどり着いたのは一か月ほど経ってからだった。そんな長い距離ではなかったはずだが…。
休まず歩けば一週間くらいでたどり着けそうな距離を一か月って。
コルキラはまあ、おおらかと言うか、こいつら…。ミノア王国の遺産をしっかり受け継いでいる…。
女性の服装が…、胸を強調する…。
上下ではなく横で開いているんだよね、これが。例えるなら、裸でピッチピッチなワイシャツを着るとする。ボタンを開けっ放しにしたらどうなるか。胸とお腹は丸見え。
コルキラの女性、まさにその恰好だったのである。
男性もかなり際どいが。
言葉は一応通じてる。ヘレニア連邦の一員だという自覚があるのかどうかもわからない。
信じてる神の名前は…、メデゥーサ。
ああ、なるほどね。
近くに小さな島があって、そこに祠と石像があるんだと。
と言うかお前ら、ミノア王国はとっくの昔に滅びているんだぞ。戦争の時代にそんなおおらかでいいのか。
結婚制度もない。女性は気に入った男性をその時その時選んで、男性がそれを承諾すればひと時を楽しむんだと。
こんなことを喋っている相手は女性だった。神官も全員女性らしく、ポリスの権力者はほぼ女性で固められているという。
「戦火が襲ってきたらどうする。北の蛮族がどれほど残虐なのか知らないのか。」
権力者らしき女性にそういう俺だったが…、どこを触ろうとしている。そんなことをしている場合か、大事な話をしているだろう。
ラケダイモンの戦士が来ていると宴会まで開かれてる。月明かりが照らす夜、上半身裸の女性に囲まれ…、何だこれは、今から俺が主人公のエロ同人誌でも始まるのか。
「こんな田舎町を誰が欲しがると言うのかしら?」
「蛮族は君たちが田舎の人間かそうでないかは気にしない。ほぼ漁業だけで生計を立てていると言っても、そこに富があるなら盗むものもあるだろう。富だけではない。女性は強姦され、男性は奴隷にされるから殺されるだろう。だというのになんだこの体たらくは。軍を組織するのはしないのか。」
「あなたのような逞しい戦士が守ってくれるわよね。」
「それにも限界と言うものがあるだろう、ラケダイモンからここまで一体どれほど離れているか知っているか。そもそもラケダイモンはそんなに簡単に兵を動かしたりしない。」
「なら我々がヘレニア連邦を追い出すのかしら?」
うん、だめだこりゃ。
「君は奪われる痛みを知らないだろう。他のヘレニア連邦のポリスだって何らかの理由でここを占領しようとするかもしれない。となれば今の生活も出来なくなるだろう。奴隷当然の扱いをされるかもしれない。君たちの蛇神も否定されるかもしれない。昔のようには行かないものなんだ。それとも滅びる日まで呑気に過ごす気か。」
「なんて逞しいのかしら…。今のは迫力がありましてよ。」
せっかく人が心配してあげたというのに…。ちょっと強引に行くか。
「なら俺が今からその見本を見せてやろう。それでも気が変わらず束の間の平穏に安住したいのならそうするがいいさ。」
腰から下げていたカラマイを抜いて、装身具を切り裂き、髪の毛を切り落とし、持っている土器を奪って壊す。
「何を…。」
呆気に取られている女性たち。侍従をしている男性たちもしどろもどろ。筋トレはしているのか適度に筋肉もついているのになんだその情けない様は。
「今のはほんの一部に過ぎない。落とされるのは髪ではなく首となる。想像できないか?」
やっと自分たちがどれほど危ういのか少しは考えが及んだのか、幾人かが気まずそうな顔をしているが。
「歓迎をした対価がこれでは、ラケダイモンの戦士とはこんなに野蛮なのですか。」
今まで話した女性とは違う、もっと落ち着きのある女性、それでも胸は開いた服を着ているが…、その女性がそう言ってきて。
俺は怒りが湧き上がってきたのである。胸が見れるからなんだというのか。そんなので俺の心は揺さぶられない。スパルタの女性は運動をするとすぐに裸になるので、それも良く見てきた。
それにエウメリアとベルニケがいる。
彼女たち以上に愛らしい女性なんて見たことない。だから…。
「今のは撤回しろ。俺はどう言われてもいい。だが、ラケダイモンを侮辱するか。」
心の中でメラメラと燃える殺気を四方八方にぶつける。
すると息をのむ音。
「そ、れは…。」
女性は何も言えずにいる。
「今のはコルキラの総意とは関係ない私見として受け取る。いいな?」
それにこくこくと頷く。
「そんなに平和に生きたいなら、文明と離れたどこかの無人島にでも見つけて行けばいいだろう。それともそんな時代になるまでどこかで隠れて暮らすか。少なくともそうなるまで戦争の時代は二千年以上は続くだろうがな。」
最後に木製テーブルの足を切り飛ばし、その場を後にした。
ちょっとやりすぎな気はするけど、こうでもしないと納得できないだろう。
俺も戦争なんてしないことに越したことはないとは思うが…。
寝首を搔かれるかも知れないので、近くの山にこもって適当な木の上でマントにくるまって寝た。これはもう、スパルタ人からしたら日常の一部である。
翌朝起きて様子を見にコルキラ付近を隠密しながら見ていたら。
町中がしんとした雰囲気で、老若男女の誰もが何かを探しているように動いていた。
「グレゴリウス様、どこにおられますか。」
なんて声が聞こえてきて。なんだ、捕まって処刑でもするつもりか。
「グレゴリウス様、あなた様が必要なのです、どうか姿を現してください。」
俺が必要って…。
後ろに気配がないことを確認してから、昨日ラケダイモンを侮辱した発言をした女性の前に現れる。
昨日と同じくもう一度侮辱をする発言をするようなものならこの場で殺す…、なんて。
さすがに俺もそこまで鬼じゃないんだよな。
カラマイで丸坊主にはするかもしれないが。
するとどうだろう、彼女は俺の前に跪いてから土下座を…。いや、そこまでしなくてもいいと思うが…。俺もちょっと見本を見せると言って器物破損してるし。
「ああ、グレゴリウス様…。あなた様は寛大にも誰もその手にかけることなく我々に暴力の恐ろしさを教えてくださいました。そんなあなたに無礼なことをしたことを謝ります。おこがましいとは思います。どうか、どうか我々にあなた様が知っておられる戦のことを教えていただきたく…。あなた様が望むのは何でも致しますので。」
なんでも、なんて言われても別に欲しいものはないんだよな。
結局何か対価を貰うことなく、俺はファランクスを含む戦術、誰でもできる槍の握り方、弓術と城壁の築き方などを二週間ほどかけて教えた。
別に俺は世直しのたびとかがしたかったわけじゃないのだが…。
ま、まあ、終わり良ければ総て良しと言うことで。戻ってから一年ほど経ったころ、メデゥーサから呪いを取り除いて人の姿に戻した英雄の叙事詩が歌われるようになった。
上半身裸のおおらかな女性たちが統べるポリスなんて、ヘレニア連邦の男性が足を運んだらそれにハマって動けなくなったんだろうね。
ヘレニア連邦での生活は、戦争を前提にしているためかどうしても堅苦しいところがあるのに。あれはもう地上の楽園か何かだろ、みたいな。
それでメデゥーサに捕まって戻らなくなるという神話に変形したのかな…。
だがそのメデゥーサへの呪いも解けたということで。
いやまあ…、俺は別にそんな英雄みたいなことを自覚はないのだが…。
「いいではないか、グレゴリウスよ。夫が歌われるなんて嬉しい限りだ。」
「ありがとう、エウメリア。」
劇を見て戻る途中、エウメリアにそう言われて。
ちょっとだけ気分が軽くなったのである。