3話 愛は哀より出て藍には届かない
スパルタでの生活を一言で言うなら、祖国の栄光こそ我が栄光。それ以外は些事でしかない。
どれくらい何もかも気にしちゃいないのかと言うと。
お前のものは俺のもの、俺のものはお前のものと言う、ジャイアニズムに見せかけて単に一人がものを所有する感覚がないだけという、ちょっと住んでみないと実感できない感覚で生きている。
所有は堕落を招く。これは拝金主義が酷かったミノア王国に対するアンチテーゼみたいなもので、ミノア王国は何もかもお金で解決する習慣があったらしい。
すべてが取引の対象となっていて、自分の子供すらもお金で売っていたとか。
有名な寓話、ミダース王物語は昔からよく聞かされていた。
平民たちはお金を使うが、それは金でも銀でもない。
鉄である。
重くかさばる鉄こそ大地の骨なり。
その重さと溶かしたら刃と盾になりえるところこそ人の労働の対価として相応しい。
金とか宝石とか、そんなものなんて死んだら終わりだ。死んで持っていくというのか。無限に等しい神々の生に比べれば人生なんて刹那でしかない。刹那だからこそ快楽を求めるか、否、刹那だからこそ華々しく散っていくもの。
そんなことを言ってはいるが…。スパルタの貴族生活はそんな栄光に満ちているだけのものではない。
もっとこう、どうしてこうなったと言いたいところがある。
「君の妻は今身ごもっていると聞いた。強くたくましい君の子が欲しい。」
なんて言っているのは当然ながら我が妻ではない。
カリュポス教官の娘、ベルニケである。
これは浮気の誘いなのか。
違う。
そもそも参政権を持つ貴族同士では浮気と言う概念が存在しない。
これは逆の場合にも提案できる。別に提案されているだけで強制力はない。
そう、強制力はない。しかし俺は俺の妻が他人にそんな提案を受け入れるようなことを好ましいとは思わなかった。あまり美人と思われないエウメリアを選んだんのにはそんな、現代人の感受性を少しは残しているからではの理由もある。
誰に説明出来ようか、その文化はおかしいなんて言えるわけがない。実際にこの生活は結構楽しいし。
頭の中で断る理由…。
妊娠中の妻に悪い。
なぜ?妻が傷つくわけがないだろう、スパルタの慣習であり、常識である。
君一人で子を育てるのは負担になるだろう。
それはない。スパルタでは子が生まれるとすぐに平民の乳母がたくさん集まる託児所に授けられ、幼年期に入ると訓練所のついている寄宿舎へ行く。
ちょっと前までは産んだら赤子が鑑定士とやらに殺される可能性があったけど今はそうでもない。
生まれた赤子は託児所へたびたび見に行って、自分の子かそうではないかを確認するくらいで、特に女性がすることはない。普段通りの生活が送れる。
しかもスパルタ人の貴族女性は身体能力の高さも相まって妊娠と出産にリスクが殆どない。ホモサピエンスが妊娠と出産が大変なことになっているのは直立二足歩行を初めてから骨盤の位置と形が他の哺乳類と違って開きにくい構造になっているから。
だがこれは石器時代には問題にならなかった。ずっと走っていたので。運動をすると骨盤と周りの筋肉が鍛えられる。鍛えられた体は出産を簡単にする。
そして彼女たちの体は鍛えぬいているのだ。痛みなんて殆ど感じないのが一般的らしい。
じゃあ気に入らないという?
意味もなく傷つけることになるだろう。別に気に入らないわけではないのだ。
「どこでする?」
結局そう言ってしまった。ベルニケの凛々しくも整った顔が嬉しさにほころぶ。
「私の部屋でいいだろう。それとも平民の家にでも忍び込むか?屋根の上なんかはどうだ?」
「君の部屋へ行こう。」
全く、やんちゃ坊主か。
「ああ、わかった。今から楽しみだな。ついてこい。」
家の場所はまあ、わかってはいるが…、実は彼女も妻候補として考えてはいたので。
ヤンキーに今から喧嘩に誘われるような言い回しをされたけど素直についていく。
スパルタの貴族が住む家はどこも同じだ。家具は殆どない、ベッドと椅子、食卓があるだけ。
服なんてただの一枚の広い布を適当に巻いているだけでなので服をしまうタンスとかもない。家の中に裸で過ごすことも少なくないし。
そもそも羞恥心がないのである。
肉体こそ宝、見せびらかすことに何のためらいがあろうか。
建物の外側ではなく内側に庭があって、そこに塩漬けにした野菜や肉の入ったツボが置かれてある。
そもそも家なんて持つ必要があるのかと家を持たず宿舎だけで生活する連中も半分以上に及ぶ。
だからお前のものは俺のもの、俺のものはお前のものとなるわけだ。
「口づけはどうする?」
なんで聞いたのかって、スパルタの女性はあれでもロマンスが好きである。愛のある結婚には並々ならぬ思いがある。だって、スパルタ人の男性は渋いのである。筋肉質なのである。妻に優しいのである。
例外はない。そうなるように育てられる。
妻の居場所は我が魂の休まる場所。
宿舎での生活はそれはそれで楽しいが、魂が戻る場所は妻のところだけと定められている。それは祈りの歌である。
心のありかである。
情熱的な愛とは違う。
なので女性は期待をする。スパルタの貴族女性が男性とほぼ同等の権力を持つのは単に男性と渡り合えるほど強いからだけが理由ではない。戦場での死こそが栄光であると生活するクレタの子孫にとって、妻は心の支えとなってくれるからである。
そして口づけは愛し合うという意味を含んでいる。男同士でよくやっているが。女同士でもよくやっているようだが。
そうじゃない、ただ子が欲しいかそれとも俺に恋情も持っているか聞いたのである。何となく察しているけど、念のため。
「せっかくだ。してくれないか?」
そう言われて俺は彼女に口づけを落とした。妻の唇より少し硬かったけど、気にするほどではない。
罪悪感はわかなかった。別に悪いことをしているわけではないのである。
そもそも一般的には夫を通すものなのだからだ。
妻の体は美しい、俺との子が生まれたらきっとその子は強く美しく育つだろう、とかね。
スパルタの貴族はめちゃくちゃ淫乱なのかって話だけどそんなことはない。殆どの男性は性欲より強さへの欲求の方が上回る。
何より名誉への願望は果てしない空へ向かう。夫も夫で、ああ、君の体も美しい、俺の妻との子が今から楽しみだな、なんて答えが返ってきたりするので。所有はしない。妻は所有するものではない。逆もまたしかり。夫も妻に所有されるものではない。
そして名誉の二の次に大事なのは心である。
「ああ、なんて甘美なんだ、君の唇は。」
ベルニケはうっとりとして俺の目を見つめた。なんて答えればいいかわからず黙っていると彼女は続けた。
「君の妻になりたかったんだ。わかるだろう?君は強い。父もよく君のことを話していた。剣がうまいとな。愛しているんだ。」
「ああ、君に愛されて光栄だ。俺も愛している。同じクレタの子孫として。」
「それでいい。君の魂の居場所はエウメリアのものだからな。」
俺はせっかくだからと妻と培ったテクニックで彼女を楽しませた。せっかくだから俺も楽しむ。
浮気だろう、絶対、なんてこの文化には通じない。
何なら俺の妻だって別の奴に言われたらやるのだ、多分そんなことはならないと思うが。嫉妬とは違う気がする。妻の体は妻のものだ、彼女が選ぶことに俺が口出しする権利はない。
ただ妻の時間を他人に使われたくないだけ。
彼女の時間は俺が使う。体ではない、時間である。じゃあ妻も彼女の時間を俺に使いたいのではないかって、エウメリアは出産が近いことから宿舎に行っている。そう、女の子も女子の宿舎で寝泊まりをする。
家に行くこともあるが、身ごもったり、体を動かすのが好きな子は宿舎から殆ど戻って来ない。
彼女とはそれからもたびたび体を重ねるようになってしまったが。後に彼女の夫となったガレノスがほぼ宿舎生活で、妻も何回も妊娠することになったからだ。
三十歳近くになっていたころの話。
ガレノスは爽やかな奴だけど、如何せんファランクス訓練のことしか頭になくて。
彼にベルニケのことを聞くと。
「ああ、まあ、たまに会ってるよ。それより訓練の時、あの動きはよかったんだ。」
腕を突き出して見せるガレノス。隙を狙った一瞬で突きをしていたことか。
「あの突きは体の中に浸み込ませている。なんでも繰り返しが肝心だ。臨機応変も大事だが。」
「君の剣士部隊が戦場を駆け回るのを見てみたいよ。」
うん、こうなる。
こいつには情熱的な愛を求めるベルニケとあまりあってない気がするのだが…。これが割と普通なのである。
「俺との子はよく育っているか?」
質問しても気を悪くしている様子なんて全くない。取り繕うとかそういうレベルじゃなく、本当に全く気にしていない様子である。
「もちろんだよ、俺の子より君との子の方がいいんじゃないか?いつからだったかな。お前に勝てなくなった。」
「子供のころのことか。だが君も強い。槍では互角だと思うが。」
「ああ、だが槍で君に勝つなんて意味がないだろう、君は剣を握ったら人が変わる。それが美しいんだ。君の魂の在り方は人と違うだろう、そう、みんな言っているんだ。そうだろ?みんな!こいつは俺たちとは違う美しさの魂を持ってるんだろう!」
宿舎で大声で言うガレノス。
みんなで食事をしていた。みんなと言うのは。
「ああ、剣士部隊を作るのはいい考えだった。魂の形が同じものでは想像も出来なかったんだろう。君にはきっと我々とは別の神々の加護がついているに違いない。女神デメテル、大神ゼウス…。それとも戦神アレスか。」
スパルタは太陽神アポロを崇拝する。太陽神が大好きなのである。なぜって、太陽による恵みが大地で芽吹き、この肥沃な土地を育てていると思っているからだ。だから太陽神祭りは重要な行事である。
そして俺に違う神の加護がついていると言っていたのは王様である。
そう、王様も宿舎に集まって食事をするのである。
「妻と君との子が君のような強い剣士になるといいんだが。」
そう言っているガレノスの顔には満面の笑みが浮かばれていた。
誰にも言えないことだが、俺は彼女もまたエウメリアとは違った形ではあるけど死ぬまで愛し続けた。
それは同胞だからではない、彼女の目に浮かぶ寂しさをどうにかして紛らわしてやりたかったのである。他人がどう言おうと、一年中にもエウメリアが妊娠も後半にかかった時期にはベルニケのところへずっと通っていた。
それはエウメリアもよく知っていることだった。三度目の出産を終えて家に戻ったエウメリアに聞いたことがある。
「君のいない間に前と同じくベルニケのところへ行っていたんだ。またこうやって君の顔を見て嬉しいよ。しかし俺は彼女の夫ではない。このことに関してどう思っているか聞きたい。」
「強い君の子が増えるのは喜ばしいことだ。神々も喜ぶに違いない。」
エウメリアは至極当然のようにそう答えた。
「嫉妬に心を痛めることはないのか?それなら俺は行かないようにするが。」
「なぜだ?私のことを心配しているのか?優しいあなたのことだ。同胞を愛するのは当たり前だろう。彼女が願い、あなたはそれを受け入れた。私もベルニケは同胞として、友人として愛しているのだ。元々私にあなたは勿体ないと思っていた。強い子が生まれるのはラケダイモンの誉れ。祖国への栄光こそ我々の本願。違うか?」
「そうだが、俺は彼女に口づけをし、その心を慈しんだ。エウメリア、君だけに向けるべきものを…。」
「我が夫ながら面白いことを言う。それは男同士でもするものではないか?」
俺はやってない。ハグはするが口づけはしない。まあ、友情と言うか、互いに通じ合う心とかは結構感じたりするが。
「俺はあまりそういうのはやらないようにしているが。」
「そうだったな…。グレゴリウス、あなたは不思議な人だ。スパルタの慣習を変え、人々の考えを変えた。私はそんなあなたを愛しているのだ。」
いつもこうやって真っすぐぶつけてくる彼女に俺も骨抜きである。
「ああ、俺も、愛している。」
愛しているのだ、エウメリアも、ベルニケも。
あまり理解されない。
俺自身も自分が何を思って、何を感じているのかわからない時がある。
俺は今日もそんな、不思議の国スパルタを生きていくのである。
ちょっと遅くなりましたけど、資料を探してみると面白いネタが多すぎてどれを物語にするか迷っちゃって。それと英国面から意識を戻すのが大変です、はい。