2話 クレタの子孫
ご感想、誤字報告、ありがとうございます。
「初めての遠征はどうだったか、聞かせてくれないだろうか。」
妻のエウメリアが風呂場で言う。
今は二人でお風呂に入っている。暖かくて気持ちいい。
奴隷たちが真冬でもお風呂に入れるように薪を焚いているので、快適に湯に浸かることができるのである。奴隷と言っても別に何か酷いことをすることはない。普段は日向ぼっことかしていて、食事とか掃除とか、こんな風に薪を焚いたりとか。
農場の奴隷はそこそこ重労働だが、農場で重労働をしている連中は殆ど全員が先にここに侵略してきて返り討ちに遭った遊牧民である。
「訓練の成果を確かめることができたんだ。戦場の空気も知ることができた。」
「あなたのことだ、きっと勇敢に戦っていたのだろう。」
しな垂れかかってくるエウメリアを抱き寄せる。
「最前列にいたんだ。」
支配階級と言ってもただの若造、青二才に過ぎない奴がスパルタの風習を真っ向から否定し、自分の意見を通したのだ。対価としては妥当と言えよう。
「だがあなたは正しいことを言った。お腹の中の子もきっと安心するだろう。」
「ありがとう。」
「ほかの国の人間は来なかったか?」
「アテナイが武器の手入れを無償でしてくれると鍛冶屋を三十人ほど派遣してくれた。」
「ケチなイオニア人らしいな。」
「そう言うな、イオニア人以外は顔も出していないんだ。」
「クレタの子孫が舐められたものだと思わないか?」
「ああ、俺もそう思うよ。」
ギリシャ人は自らをギリシャ人とは言わない。スパルタ人ですらも自らをクレタの子孫と言う。歴史の時間に学ぶことだ。
昔はここら一帯は地域としてはミケーネと呼ばれ、ミケーネ全域を統治しているのがミノアと言う巨大な王国であった。そう、ミノタウロスと言う怪物が住んでいたあの迷宮で有名なミノア王国。
かの有名なトロイア戦争を起こしたのもミノア王国である。紀元前1400年ごろの話だ。
しかし栄華を極めていたそのミノア王国だが、ある日突然ミノア王国の首都であったテラと言う島の中心部にある火山が噴火し、島の半分以上が水没。
一晩で滅びてしまった。
嘘のような話だけど、本当のことである。神の怒りと言っても過言ではないのでは。
続く気候変動により海岸沿いの地形も水没してしまい、その中でもクレタ島で住んでいた住民たちは北のペロポネソス半島に移住することになった。
そして彼らはスパルタ地方、ラケダイモンに向かった。
元々そこに住んでいた原住民は平民となり、移住してきたクレタ人は支配階級となった。
アナトリア半島に住んでいた商売に長けているイオニア人たちはアテナイへ移住して国を建てたが、この時代の商人と言うのは基本的に海賊を相手に自衛することを基本としていたため、個々人が武装を持っていたし集団では強力な船団も所有していたのである。
他にもテーベ王国、キュレネ王国、クノッソス王国等、いくつもの勢力がいて、いつからか彼らはミノア王国の精神的、物質的遺産を共有している勢力たちは同じ言葉を使うことから自分たちをヘレニア連邦と呼ぶようになった。
亡国のミノア人たちは離れ離れになった。再び輝かしかったミノア王国を取り戻すなんてことを言っている奴は誰もいない。神の怒りを買って滅びたとみなして信じている。
だからここら一帯の連中は例外なく基本的に冷めているのである。誰もが王国を再び引き起こそうなんて考えること自体が危険であると。また神の鉄槌が落とされると。
そのせいかは知らんが、それまでミノア王国の中で地方を統治していた領主たちは王を名乗っていて基本的に保身に走っている。
納得できなくもない。巨大な王国が神の怒りを買って滅びたことを皆が知っているとする。誰が積極的に動こうというのか。
積極的に何かを成そうとしている気骨のある王は一人もいない。
結局アテナイとスパルタが中心となって混乱を収束させることに。
混乱の時代が終わって地中海全域で再び黄金時代を迎えようとしていた時期に俺は生まれたのである。
ちなみにラケダイモン地方はエウロタスと言う川が流れていて、ギリシャ全土でも農作物の生産量が一番多い。
ミノア王国の中でのクレタ地方は軍事の要で、ミノア王国が地中海の覇権を握るための精鋭中の精鋭たちが集まっていたという。
証拠なんてないのでただの眉唾物と受け取ることもできるが。
まあ、気にするだけ無駄と言う話である。神話も半ば信じている時代だ。どこからどこまで本当のことなのか考えるなんて答えなんて出るわけがない。
余談だがドリア人と言う民族がミノア王国が健在していた時期に侵攻して来たことがある。
奴らはミノア王国の北側を占領し、のちにマケドニア人と名乗ることに。
本人たちが遊牧民としての起源を持っているためか他のギリシャ諸国とは最小限の関わりだけを持とうとしていた。少なくない騎兵も持っていたが、ギリシャの南部は山岳地帯なため騎兵を運用するような条件ではないのもあるだろう、だから彼らは自分たちが住む都市しか防御せず、南に向かう遊牧民は素通りさせていた。
「奴らに期待をする分だけ痛い目を見る。」
我らの王の一人がそう言っていた。俺も全く持って同感である。結局南下してくる遊牧民たちはスパルタかアテナイで迎え撃つしかない。
と言うか、だからマケドニアはこのある意味徹底的に冷めたヘレニア連邦の雰囲気と一歩離れていたため、最終的にはヘレニア連邦を統一してはまた滅びたのか。
ギリシャには統一をしたらいけないという呪いでもかかっているか疑いたくなる。
そして呪いをかけているのは滅びたトロイアの住民たちとか。
なんだこれは。地球はいつから異世界になった。
ここはローマを見習って地中海統一とかではなく北の方へ目を向けたらどうかと俺は思うのだが…。
まあいい。
それでだ。
遊牧民が来るのは防げない。万里の長城でも止められなかったんだ、遊牧民が来るのは誰にも止められない。
奴らは時と場所を選ばずに来る。なぜ来るのか。
それはユーラシア大陸全体で起きていた。
遊牧民は何かしらのきっかけでまとまっては台風のように定住している文明に向かって襲ってくる。
だが相手を間違ったな。スパルタはミノア王国時代からの戦士の集団が住んでいる場所なんだ。
重装歩兵、ホプリテスはドリア人の槍を握る。それが一番使い勝手がいいからだ。だからその槍はドリアと呼ばれる。短いのは2.5メートル、長いのは3メートルほど。
アスピスと呼ばれる円形の盾を手に四百ほどがファランクス陣形を組んで、百人がファランクスを側面から防御した。
遊牧民の連中は山岳地帯へ来ては馬から降りて斧や剣、投擲槍や弓、はたまた紐で括り付けた投石器なんぞも使うが。
アスピスは分厚く、重い。粗雑であっても鉄器なので頑丈、この時代の飛び道具ではアスピスを貫通するなんて出来やしない。
通じないとみるやゆっくり前進してくる。当然だ、こっちは槍衾、それに突っ込むなんて自殺行為でしかない。
だがそれは考えてある。
奴らも盾とか持ってる場合があるが、例外なく木の盾である。皮をかぶせたりする場合もあるが、強度なんて知れたものだ。
要するにドリアを投げたら簡単に貫通するということである。
「開け!」
指揮官の言葉に最前列が槍が投擲できるような隙間を作ると。
「投げ!」
綺麗なフォームで二列目のホプリテスたちが一斉に投げる。これで百の槍で百の人間がくし刺しに。二列目が投げを終わると三列目と交代。後方には槍を十本ほど背中に背負った軽装の平民たちが立っている。ファランクスの真後ろ。
これは対遊牧人陣形で、相手がアスピスなんて鉄の盾を持ってないからこんなことをしている。ちなみに槍は結構高い。高いのに投げまくっていいのか。よくないから捕まった連中は全員奴隷にして採算をとるようにしているのである。
結局三列目が槍を投げてまた百の人間がくし刺しになったところでなりふり構わず突っ込んでくるのである。叫びながら。もう自分たちに残ったのは突っ込んで突破口を作ることしかないから。
だが、ここからが本番だ。
一見片手でしか盾を持ってないため、勢いで押したら何とかなるんじゃないかと思われるが。
ぶつかった瞬間に二列目が槍を突っ込む。最前列は襲い来る勢いは考えず一つの点に向かい槍を一回後ろへ引いてから突く。
くし刺しである。鎧を貫通し、衣服を貫通し、肌を貫通し、生々しく刺し貫く感触が手に伝わる。
恐怖より高揚感が先走る。俺は国を守っている。ラケダイモンを守っている。自分のこの手で、歴史を作っている。
罪悪感が入る余地なんぞない。この瞬間のために辛い訓練を耐えてきた。この瞬間のために今まで自分をどこまでも鍛えぬこうと考えた。
俺の隣には、俺の後ろには、同じくこの瞬間のために辛い訓練を耐えてきた戦友が、同胞がいる。
槍を貫いた体から引き抜く瞬間もペースを合わせる。隙ができたら崩れるのはあっという間だ。向かってくる敵だって必死なんだから。
手を引っ張るのにはこのように号令がかける。と言ってもタイミングは二列目の奴らと何となく心で通じ合い、各々のタイミングを合わせているのでバラバラだけど。ファランクス陣形の訓練をなぜ毎日しているか、これのためである。
「引っ張れ!」
すると同時に三列目が二列目から交代。
「貫け!」
ファランクス陣形はただの槍衾に非ず。
隙を作らないよう、流れるように連携をすることに意義がある。
引っ張る、貫く、引っ張る、貫く。手が痺れるなんてことはない。まだまだ三十回しかやってない。必要なら百回も千回も繰り返す。我々こそがクレタの子孫!
そう、これが、
これこそが、
スパルタだ!
数えきれない死体を作ったころ、敵は戦意を喪失して逃げ始めた。
「追撃!」
ファランクス陣形が崩れない限り剣は抜かない。カイポスと言う名の刃渡り60センチほどの両刃の片手剣だ。
逃げる敵を追撃するのには走るとかさばる槍を使うより剣の方が適切である。背を向けて逃げる奴に向けて槍を投げる。数えきれないほどの回数を投げてきた。今更当たらないなんてことはない。背中に命中して貫く。
剣を抜いて連中が逃げる方角へと走る。伏兵や罠などは接敵する前に偵察部隊が確認してある。百戦錬磨のスパルタに抜かりはない。
重装状態だが重さなんて感じない。片手剣だけど俺のは両手で握れるようグリップを改造してある。すれ違いざまに首を切り落とし、そのまま勢いに乗って回転してすぐ近くの奴の足を切り落とす。
一人、また一人。
なぜ殺すのか、見せしめにするためだ。逃げたら許されると調子に乗るなんぞ許さない。自ら死地に乗り込んできた。身の程も知らず我らの土地を己のものにするために侵略してきた。負けそうだから今更逃亡なんぞ、クレタの子孫たる我らが許せると?
追撃は奴らが簡易的に作った野営場にたどり着くまで続いた。野営場には女と子供、老人や身体を一部欠損したもの等、殆どが戦力外。それでも一部の若い男性は念のためか残っていたか。言葉は通じないので身振り手振りでお前たちが負けた、こっちに従ってもらうと伝える。
若い男の何人かが、ふざけんな!みたいな感じで突っかかってきたので見せしめに殺す。俺も一人殺した。今更殺した数が一人や二人増えたところで大差ない。
ちなみにだけど。
スパルタ人の動きはみんなして常人離れして早い。当然だ、子供のころから常在戦場。目にも見えない速度で振るわれた剣であっさり殺されたのを見てからやっと連中は自体を把握して怖気づく。
だがもう遅いのである。
たかがこの程度の実力と兵数で侵略してきた時点で奴らの運命は決まっていたのだ。
縄に括り平民たちに任せると奴らが引っ張ってくる。俺たちは来た時と同じく戻る時も手には盾と槍を握って、歌を歌いながら戻るだけ。
そう、歌である。
スパルタ人は脳筋というイメージがあるが、普通に詩歌とかも学んで、歌も歌って、楽器の演奏もする。骨で作ったフルートとかね。
話を終えるとエウメリアは感動していた。
「やはり我らクレタの子孫は強いんだな。」
「ああ、そうとも。」
「しかしファランクス陣形が崩れなかったなら剣をぶつけることはできなかったんだろう?消化不良ではないか?どうだ?私と剣を交わってみないか?」
エウメリアの提案に口元が自然とほころぶ。
「ああ、それもいいかもしれない。」
風呂場から出た俺はそのままエウメリアと木剣を握ってぶつかり合った。彼女も中々の実力である。
さすがスパルタでも精鋭に入る王の近衛を務めるカリュポスさんの娘だ。
そして、まあ。
剣を交わらせてからは肌が交わる時間で。
この日の夜も冬ながら暑かったのである。
調べてみたんですけど、ギリシャではなくヘレニアでした。