1話 妻を攫いに行った夜
色々あって、スパルタ人に転生してから18年。記憶を取り戻したのは六歳のころで、それからの日々は楽しくも残酷であったのだと実感する。この時代は冬になったら地中海に接しているのに雪が降る。雪が降る道を歩きながら今までの人生を振り返ってみた。
赤子ジェノサイドを議会での勝手な発言ながら防いだ。これで歴史がどう変わるかは知らんが、俺は俺がやりたいことをやったまで。後悔はしていない。
鎧を着ている体は少しの疲れが残っていた。遠征を終えて戻る道。本来ファランクスの訓練がまだ途中であるはずの18歳のスパルタ人が戦に参加するなど滅多にあることではない。しかも俺は長子だ。妹が二人いるが、彼女たちが家を継ぐのは現実的ではない。
ここスパルタはほかのギリシャ諸国とは違って女性の発言権も、権利も大きい。他の国では女性が時に外出することすらも許されない場合がある。それと同じギリシャの市民が旅をして家に寄ると妻を提供するとか、意味不明なことをしている。スパルタではそれはあり得ない。
ギリシャの市民は基本的に性に奔放である。そもそもそんなに飢えているわけではない。不自由しないのである。ディオニュソス祭りとか、ただの乱交パーティ。
ただスパルタは何というか。男同士でくんずほぐれつやっているわけだから、青春時代は男の宿舎で過ごして、二十歳を超えてからもファランクス訓練で男同士で過ごす日々が多くて、それで結構やってる連中はいる。
俺はやらないが。見た目は結構いいのだ、実は転生する前までは男同士の同性愛には偏見があったんだけど、見目のいい男性同士で口づけを交わすのはそこまで目に毒ということでもなかった。
だが俺は参加しない。家に妻がいる。彼女にも友人がたくさんいる。槍投げとか得意で、女子同士で集まってやってる。やや物騒なスポーツだとは思うが、それがスパルタ人女性の嗜みだ。スパルタは最後の一人になるまで戦い抜く。それは女性でも例外ではない。
彼女、エウメリアは童顔なことにコンプレックスを持っていて、自分が結婚するのは友人グループの中でも最後だと思っていたようだが。
最初に彼女を攫いに行った時のことを思い出す。
「誰だ。」
夜に彼女の家、部屋に忍び込んだら彼女が目を覚ましてこっちを見て言った。夜這いではなく、攫いに行くのが結婚風習なのでそうしたまで。ただ女性も本気で抵抗できて、そうしたらいくら屈強なスパルタ人男性でも同じく身体能力に恵まれた暴れるスパルタ人女性を攫ってくるなんて至難の業なのでできない。
俺の顔は角度的に陰で見られなかったんだと思う。
「グレゴリウスと言う。聞いたことあるか。」
「もしや貴公があの剣術に秀でたグレゴリウス殿というのか。」
スパルタ人女性の口調は男性と同じ。淡泊で直線的である。
「そうだ。」
「私のような女に何ようだ。もしやからかいにでも来たか。好きに童顔に生まれたわけじゃない。よしてくれないか。貴公は成人したばかりだと伺っている。ならファランクスの訓練で忙しいだろう。こんな女に時間をかけずに戻って睡眠をとったほうがいい。」
「それはできない相談だ。」
「なぜだ?」
「目的がある。君を攫いに来た。」
「な…。」
俺は彼女に近づく。スパルタでは強い男性がモテる。馬鹿げた風習のおかげでみんなして見目はいいので、強さが基準になるのである。強ければ戦場で生き残れる確率も上がるし、現実的に考えても間違ってはない。が、普通にそういう文化なのだ。名誉を重んじるだけあって、女性も男性の強さをリスペクトする。
俺は成人になる前から剣術で百戦錬磨な教官とも対等に戦えることで名が知れていた。槍術はまあ、やや上手と言ったところだが。
訓練中の成績とかの話は割と女性にも聞かれる。見学に来ることもあるのだ。手合わせをする時もある。ほぼ裸で。
そういう文化だ。仕方ない。別に欲情なんてしていない。というか、同性同士での繋がりが異性との繋がりより重要視される傾向があるので、逆に俺たちの輪の中に女性が入るなんて言語道断などと言っている連中までいる始末。
胸元がはだけて丸見えだけど、自分の股間を見せたくないとかそういうことしか考えてない意味不明な連中である。
ほかのギリシャの国と違って本番はしないだけいいというべきか。濃密な口づけを交わす連中とかは結構いるが。俺はやらないぞ。
「嫌か?」
「いやというか。なぜ自分なのかわからない。貴公がとても強いのは皆が知っている。あのデメトリアやベルニケだって貴公なら落とせるだろう。」
俺ももちろん知ってる。女にはあまり興味ないぞなどと言っている連中と違って俺は同年代のスパルタ人女性をしっかりと調べてあるのだ。
スパルタ人女性にとって美人の基準は…。まあ、あれだ。逞しさ。デメトリアとベルニケは男と体格的にあまり変わらない、高身長で肩幅も広い。それもそれで嫌いじゃないというか、全くモテなかった前世の俺からしたら全員して基本的に美人なので、そんな美人たちを自分から選り好みをするなんぞ何様だという話だが。
彼女、エウメリアは平均より少し小柄だ。それでいて童顔。つまりスパルタ人からしたら魅力のない女性ということになる。
「俺はエウメリア、君がいい。君と結婚したい。」
月明かりに照らされた彼女の顔はほんのり赤くなっていた。可愛い。やはり彼女がいい。
「しかし急ではないか。話したこともないだろう。」
「なら今から話そう。何か俺に聞きたいことでもあるか?」
「この年齢で結婚するのは早いと思うが、何か理由でもあるのか?」
ただ女を抱きたいというべきか。体が疼いて仕方がない。基本的に宿舎生活で、自分で慰めようとするものなら誰かが来て、手伝おうか?なんて言っているので。勝手にそういうのが好きな連中同士でやってろという話だが。
厳しい訓練だけど夜にはそれなりに盛んなのだ。ただ絶対に本番はやってないという暗黙の了解というか。それはなにか。他のギリシャ諸国と同じ扱いをされたくない自尊心なのか。アテナイと犬猿の仲だからなのか。
俺もなぜかアテナイの連中とは関わりたくないという謎の感情がある。嫌いというより、こいつらとは話が通じないんだろうという直感。こっちには論争をする文化がない。それに比べアテナイは何でも論争で解決しようとする。こっちは祖国のためならみんな死ねる。名誉のために生きると言っても過言ではない。だがアテナイは自由のために生きる。祖国が滅んだら別の国に逃げることも辞さない連中も少なくない。とにかく価値観が合わない。
少し前にアテナイから来た使節団の連中が二人の王様の前で論争をしていたのを見かけたことがある。自分たちで意見が割れていて、それを同盟国の王の前で堂々と論争をおっぱじめて。なんだこいつらは、失礼にも程があるだろうと憤慨した。それは俺だけじゃなくて、それを遠くから眺めるほかの貴族たちの雰囲気もかなり険悪なものになっていたけど、本人たちは気にもせず互いの主張にだけ意識が集中してて。
まあ、アテナイで生まれたなら何か違ったかもしれないが。あいにくスパルタで生まれてしまったもので。というかアテナイで生まれたなら前の童貞よりかなりの高確率で後ろの童貞を無くすことになるはずで…。しかも相手は中年男性が一般的で…。これ以上考えるのはやめておこう。
「理由か…。」
「それは言えないものなのか?」
いや、言える。俺の人生を決める瞬間だ。これまで乗り越えてきた厳しい訓練に比べたらこんなもの…。こんなもの…。だが、俺は…。改めて見ると彼女は前世で写真でしか見たことのない西洋人のモデルのように美しい。それだけでなく童顔で、大きな両目とふっくらとした唇、かすかに香る彼女の香。頭がクラクラしてしまいそうだ。
だめだ。言わなきゃ。なんていう?うそのことなんて言っていいのか。これから一生を一緒に過ごす間柄となるのだ。中途半端に決めていいのか。せっかく生まれ変わったんだ。あの陰鬱な人生から、やっと自分が自分のままでいられる人生に生まれ変わることができたんだ。
なのにこんなところで怖気づいてどうする。嘘をついてどうする。だから俺は言った。
「君に惚れて、君のことしか考えられない。これ以上君のことに夢中になったら訓練に身が入らなくなる。この理由ではだめか?」
ほんのり赤かった彼女の顔が真っ赤に染まる。俺も自分の顔を見なくても顔に血が集まるのを感じた。
「わ、わかった。だがまだ互いに成人の年齢ではないだろう?貴公は例外と聞くが。」
俺はまだ18歳で彼女も俺と同じ18歳である。
一般的に成人となる年齢は二十歳となっているが、それは法律ではなくあくまで成人と認められる強さとリーダーシップは二十歳になるまでは持つことができないからだ。早かったら18歳でも行ける。前例もある。
「ああ、例外的に俺は君のような女性に惚れてしまった。こんな俺でも受け入れてくれるなら、このまま攫って行く。」
エウメリアは何も言わずにいて、俺は近づいて彼女を抱き上げた。軽い。いや、鍛錬を重ねてきた俺の体が彼女の重さを物ともしないだけか。
エウメリアはそのまま俺の首の後ろに腕を回した。目を合わせるとはにかみながら見ている。可愛い。
「行くぞ。」
「ああ。」
俺の言葉に答えるエウメリア。
彼女はずっと大人しく俺に抱き着いていた。互いの鼓動が聞こえるほど密着していた。ギリシャ人の服装なんてあってないものだから色んな感触がダイレクトに伝わってくる。互いの匂いが交わって気を抜くとすぐにでも押し倒してしまいそうだ。
家に戻るとそれはもう大騒ぎになっていた。
「お前、まだヒーボーンテスも終わってないじゃないか。もう結婚するのか。」
庭で仁王立ちで父のエピデウスが呆れた目で俺を見て言う。ヒーボーンテスとは二十歳から二九歳までの期間で、この時期は主に男だけの宿舎で寝泊まりしながらファランクス訓練に勤しむ。
いや、少年期も宿舎に寝泊まりはするけど、ファランクス訓練が始まるとみんなはしゃぐので家には戻りたくないとみんな訓練に夢中になってる。
こいつらただ楽しんでるだけじゃ…。まあ、気持ちは俺もわかる。毎日訓練するのはなんだかんだ言って楽しい。徐々に強くなる自分を実感できるし、ファランクス訓練は一体感が味わえるし。
だけど、それでは遅い。三十歳になるまで結婚もせずに訓練に明け暮れるとか、どうかしてる。女性の年齢もその分上がるのに、それでやっと結婚して子供を産んだら子の骨格に少しゆがみがあるとかで廃棄処分とか、馬鹿か。そんなんやってたら人口が激減して最後には滅ぶよ。実際に歴史上でもそうなってるし。
「ああ、俺は彼女と結婚したまま訓練に参加する。」
「名前は何という?」
「エウメリアである、貴公がエピデウスか。」
「ああ、バカ息子が世話になった。無理してないか。」
「大丈夫だ。」
「うむ…。しかし、幼い顔立ちだな。小柄で。」
「何か不満でもあるのか。」
俺は父親を睨みながら言った。
「エウメリアって、アーギュロス家の子だぞ。知らなかったのか。王の近衛兵をしているところだ。アーギュロスの奴、まだ二十歳もなってない娘が家からなくなることを知ったら激昂するだろう。」
「何とかする。」
「カリュポスのところの娘さんとかどうだ。お前の強さなら先方も断らないと思うが。」
カリュポスのおっちゃんは教官をやっているのでよく知っている。彼の娘さんの名前は確かベルニケだったか。
「俺が決めたものだ。俺は成人なのだろう。決める権利は俺にある。」
「二十歳になるまで成人するのを待つべきだったか。」
「訓練で教官を倒せる人間をヒーボーンテスにしない方がどうかしてる。」
「自惚れるな小僧。」
「上等だ。試してみるか?」
「いや、やめておこう。エウメリア、こんなバカ息子だが…。よろしく頼む。今夜は…。」
「これは何の騒ぎだ。」
母のエルピナが現れた。もう40になろうとしているのに鍛えられた体の曲線は美しいままだ。いや、別に惚れたりはしないが。実の母親だし。
「ああ、エルピナ、丁度いいところに。グレゴリウスがアーギュロスのところの娘さんを攫ってきた。」
「それは誠か。」
「エウメリアと言う。」エウメリアが会釈する。
「小柄だな。」
「エウメリアに惚れたんだ。このままでは訓練にも集中できん。」
「なら仕方ない。友人たちに知らせなくちゃ。アーギュロスのところには明日にでも人を向かわせるか。」
母はあっさりと許可してしまった。スパルタ人女性の感覚からしたら訓練と鍛錬しか考えない男が女を連れてくる意味がどういうことか理解しているということなのだろう。
父は何か釈然としない感じだったが、しぶしぶ納得してから部屋に戻った。まだ幼い妹たちは窓越しでこっちを見ていたが、俺たちの輪の中に入ることはなく父が部屋に戻るのを見てからフェードアウトした。
そして石畳の庭には俺たち二人だけとなった。
「口づけをしていいか。」
「その前に言うものがあると思うが。」
「そうだったな。君のことが好きだ、エウメリア。結婚しよう。」
「ああ、いいだろう。結婚しようじゃないか。」
その日の夜は激しかった。
忘れられない夜となったのである。