マリーエレンのリハビリ
マリーエレンは考えていた。
どう生きたいか?
何をしたいか?
その問いに即答できるほど、何かを考えたり望んだりできる環境で生きては来ませんでした。
復讐以外で、と言われましたが、そもそも、復讐する相手も理由も思いつかないです。
両親と兄夫婦のお墓参りをしたい。
そう思いつきましたが、罪人として死んだ者は王国法で廃棄され、そもそもお墓は存在しないのでした。
やり直しの人生。
あの頃何を望んでいましたっけ?
殿下の婚約者候補として、いつか妃になる事?
文官として仕える事?
本当は違っていた気がします。
昔の事過ぎて思い出せません。
庭先で、日の光にあたりながら考えていると暖かく、なんだかぼんやりしてきます。
暗闇で過ごす時間が長く続いたので、明るい日差しはそれだけで幸せです。
生涯目にするはずの無かった景色はどれだけ観ても飽きる事はありません。
夜の庭も月の光に魔素が反射して綺麗です。
生涯ここにいたい。
ここは本当に安心できる場所です。
けれど、あの方はそれを許しては下さらないでしょう。
独り立ちすることが前提で、ひとときここに置いてくださっているのはわかっています。
独り立ちとはどうすれば良いのでしょうか?
私は何が出来るのでしょう?
したい事を思いつきません。
では、したくない事は?
暗く閉ざされた世界に戻るのは嫌。
本があるのに読めない、読む気力も体力も無いのは嫌。
そういえば本を読むことが好きでした。
物語や紀行文や、知らない人や国の事が書かれたものをドキドキしながら読んだものでしたね。
この庭先にある畑に植えてある植物は、育ちが早いです。
植物が伸びて成長するのを見るのは楽しい。
本来ならもっと時間がかかるはずですけれど、あの方の畑が普通でないのは驚くほどの事では無いです。
最初の驚きが大きすぎたせいか、なんでもありと思う私です。
一人で考える時間が必要だろうと、数日放置していたが、それが間違いだった。
庭先で倒れていたマリーエレンに回復をかけつつ、つい、ため息が出る。
この人、生活能力が無いわ。
放置していると食事もしない。
買い置きしてあるものが減っていない。
飲まず食わず睡眠も取らずにひたすら考えにふけっていたらしい。
考えてみれば、当たり前か。
お世話する人に囲まれて育ち、下働きになってからはお世話係はいなかったものの、少なくとも食事は支給され、指示された事だけやる、指示されない事をやってはいけないって環境で生きて来た人だ。
はあぁ。そこからか。
「規則正しい生活、これ大事。」
マリーエレンに申し渡す。
朝起きたら部屋の掃除。
朝食の後、洗濯などの家事。
昼食の後は畑仕事。
畑仕事の後はお風呂。
お風呂の後は夕食。
考え事は合間にすること。
家事や畑仕事のやり方は一通り教える。
畑仕事をさせるのは、畑の植物を飽きもせず楽しそうに眺めていたから。
身体を動かすのは、心にも良いし。
元来、物覚えは良いらしく、何度か教えればなんとか出来る様になった。
指示を待っても指示する人はいないのだから、向上心と創意工夫が必要だと本人が気付いてからは、目に見えて効率が良くなった。
やれやれ。
「色々な人や景色を観たり、知りたいと思います。」
目覚めてから数週間後、マリーエレンはそう言った。
「特別な技量はありませんが、手作業が好きなので、何か作る仕事を出来るようになれればと思います。」
ふむ。
まあ、この辺りが限界でしょう。
「○○になりたい」と具体的に言われたらきっと驚くわ。
色々な事を経験して色々な人と関わって変わって行ければいい。
何かを作る仕事か。
畑仕事が気に入っているみたいだから農業とか?
いや、それは無いわ。
趣味レベルならともかく仕事としては無理でしょ。
体力的に。
職人になる?
魔道具は作れるだろうけど、それほど物作りのセンスがあるとは思えない。
しかも物作りに没頭して寝食忘れて倒れる姿が浮かぶよ。
回復魔法が使えるからそれを活かして何かする?
回復魔法で治療院とかは無理だしねー。
後先考えずホイホイ回復かけて魔素切れで倒れるか、お偉いさんに目をつけられて良い様に使い潰される未来しか浮かばない。
うーん。
回復薬?
回復魔法込めた水薬はギルドで買い取りしてるはず。
となると薬師?
ギルドに納めるだけなら店やるよりハードル低いよね。
地頭は良いんだし、暫く助手にして教えてみようか。
手仕事が好き、か。
刺繍とか?
貴族令嬢として淑女教育を受けてたんだし出来るんじゃないかな?
陣を刺繍して回復魔法のエンチャントをかけてギルドに売るとか?
需要あるのか?
うーん、まあ、色々やらせてみよう。
でも、その前に。
平民としての一般常識、生活能力の向上を身につけないと独り立ちどころか生活自体が成り立たないよね。
何せお店で買い物一つした事のない人だから。
金貨と銀貨は見た事がある。
でも自分で使った事は無い。
欲しい物が有れば商人を呼びつけて選んで支払いは家の者がしていた。
銅貨と鉄貨に至っては存在は知っていても見た事すらないって、どんなお嬢様だよっ…て、お嬢様だった。
このところデフォになりつつある軽い頭痛に、また一つため息をついた。
拠点の結界の中では私以外魔法を使えない。
マリーエレンには魔法を使わずに生活する術をまずは覚えてもらった。
とは言っても、火と水の魔石は使っているが。
魔法も魔石も使わずに竃で料理とか、私だってやった事は無い。
自分が出来ない事を教えられるはずもなく。
生活に魔石使ってる平民だって多いんだから不自然では無いはず。
まずマリーエレンに簡単な料理を教える事にした。
食事は外食でもいいがスープ位作れないと困る事もあるだろう。
台所に入ったマリーエレンは物珍しそうに辺りを見ている。
まな板と包丁を見て首を傾げる。
「これはなんですか?」
「これは食材を切る為の道具。」
スープの具材を切って見せる。
「ほら、やってみて。」
恐る恐る人参を切り始めた。
力加減が分からずまな板にドンっと切りつけたり、人参が転がったり飛んでったり、指を落としそうになったり、手から包丁がすっぽ抜けて飛んで来たり。
どうにか数種類の具材を不揃いながら切り終わったマリーエレンはやりきった感で笑顔を見せた。
「じゃあ、全部このお鍋に入れて水も入れる。」
「はい。」
「竃に鍋をのせて火を付けて」
「最初は強火、沸騰したら火を弱める。」
「沸騰?」
「ほら、グツグツ空気の泡が出て来たでしょう?こういう状態を沸騰したって言うの。灰汁が出るから取りながら煮ていく。灰汁はこの灰色っぽいやつ。丁寧に取った方が美味しくなる。」
「はい。」
「火を弱めて蓋をして暫く放置。その間に洗い物したり他の料理を作ったりするの。時々灰汁取りしながら。」
「具材が煮えたら味付け。塩を小さじ半分位入れて一混ぜしたら味をみる。最初から入れすぎない様に。最初は薄味位がいいのよ。煮詰まったら濃くなるから。食べる前にもう一度味見をして物足りない時に少しずつ足していくように。」
基本のスープを教えて、後は調味料や食材で色々試行錯誤していく様に伝える。
洗濯の仕方、干し方。畳み方。
ギルドなどの社会の仕組み。
物の値段やお金の使い方。
必要そうな知識を一通り教える。
地頭は良いから覚えるのは早かった。
異界から来た私がこの世界の常識をこの世界の人に教える事になるとは。
色々話しあった結果、マリーエレンは王都で暮らす事になった。
商業ギルドに登録して代筆や計算代行などのの依頼を受けながら、今後のことを模索していく。
幸い代筆などの依頼は常時何かしらある。
貴族院の文官コース卒業間近だったとはいえ50年経てば忘れていたり変わっている事が多くて何が出来るか本人もわからない。
商業ギルドで斡旋する代筆の仕事は銅貨20枚〜銀貨1枚。
計算代行は一日仕事で銅貨40〜80枚。
代筆専門で生活する人は月に銀貨6枚位普通に稼ぐという。
王都のギルド職員の初任給が銀貨3枚銅貨50枚だというから、自活に十分な収入を得られる筈だ。
商業ギルドで仕事の依頼を受けるにあたって、ちょっとした試験があった。
商人が顧客の貴族に出す礼状を見本通りに書くというもの。
新規登録者にどの程度の力量があるのかを把握する為のものだ。
「送り先はどの様な方ですか?」
「貴族様です。」
「ええ、ですから、どの様な貴族でしょうか?上級貴族に宛てる場合と下級貴族に宛てる場合は文字の飾りが変わりますよね?」
「え?」
「例えば、下級貴族宛だとこの様に文末だけ飾り文字を入れます。中級貴族宛だと最初の挨拶と文末に飾りをつけ、上級貴族宛だと全ての文字に飾り文字を使いますし、紙自体もっと薄く上質な物に変えなければ失礼に当たります。」
サラサラと流れる様な筆跡で文字を書き、装飾を施していく。
一般の平民にとって下級貴族も上級貴族もあくまで貴族様で礼を尽くすべき対象だ。
上級か下級かで適切な文字が変わるとは知られていないし、貴族側も平民の無知を問題にはしない。
最初から平民は無知、という前提があるのだ。
平民落ちした元貴族は少なからず存在するが、彼らが積極的に貴族の習慣や細かい作法を平民に教える事は極めて少ない。
平民落ちした彼等は貴族の家や役所などで住み込みの使用人となるのが一般的で、平民街で暮らす者は少ない。
平民落ちしても貴族の家族の後ろ盾がある為平民に積極的に関わる事は無いし、その次の世代は最初から平民である為、貴族の細かい習慣などを知る筈もない。
そんなわけで、マリーエレンが指摘した貴族の常識は貴族と商売上付き合いのある商業ギルドでも知られていない事だった。
実際にはマリーエレンの指摘した作法は50年の間に大分廃れ、若い世代の貴族間では、飾り文字自体簡略化されていたのだが、格式を重んじる貴族は大勢いたし、礼を尽くした礼状や案内状を送った商人は貴族との面会が叶ったり、商談の機会を得たり、と、これまでにない商機を得る事が出来た。
そんなわけで、マリーエレンは代筆業を始めて数ヶ月で月に銀貨10枚以上の収入を得られるようになった。
最初は食事付きの宿に滞在していたマリーエレンだが、商業ギルドの職員の紹介でギルドにほど近い建物の3階に部屋を借り、一人暮らしを始めた。
料理は相変わらず壊滅的な腕前だが、ギルドの食事処や食堂街、市場も近い立地の為、困る事は無い。
ギルド関係や良く利用するお店などで知り合いも増えて、少しずつ平民の暮らしに馴染んでいった。




