におい
引っ越しをして一年が過ぎた。
引っ越しした日、私を襲ったのは、強烈な前住人の、残り香。
何のブランドかはわからないが、クローゼットの下段のざらつく板に香水がこぼれた後があり、そこから強烈な香りを発していたのである。
もともと香水が苦手な私、必死で無香料消臭剤をぶちまけてみたり天日に干してみたり、いろいろとやってみた。初めの二ヶ月ほどはどうにもにおいが消えず半泣きになっていたものの、だんだん自分の生活臭に紛れて気にならなくなっていた。
のだが。
梅雨の時期、湿気が出るようになって、再び前住人臭が漂うようになってきたのである。
何これ、いったいなんののろいですか、マジ勘弁してください。
「そもそもクローゼットの中のにおいなのに、なんで玄関がにおうのかね…。」
原因のクローゼットの中は、いわゆる防虫剤のにおいで充満していて、まったく前住人臭はしないのである。原因の部屋に入っても、臭わない。しかし、玄関ドアを開けて玄関たたきを上がった時、ふわりと香る、自分の家じゃないにおい。なんなんだ、何がどういう理屈でこんなことになっている!!
「いつまでたっても自分の家感が湧いてこない…。人んちみたいだ。」
ボヤいたところでにおいは消えない、仕方がないのであきらめるしかない。
「ねえねえ、遊びに行っていい?」
旧知の友人が我が家に来たいというので、招くことにした。
朝からごちそうづくりに余念のない私。
なにげに引っ越ししてから、初のお友達ご招待だったりする。
お稲荷さんに肉じゃが、スペアリブに卵サラダ、小鯵の南蛮にマカロニグラタン、フルーツゼリーにフルーツズコット。うん、作り過ぎた。
ピ―――――ンポン!
「お邪魔します…。あれ。」
「はいいらっしゃい。」
玄関を開けてすぐ横の、ごちそうの並ぶ私の部屋のドアを開けて友人を待つ…おや、どうした、全然来ないぞ。
「あれ、どうしたの、入ってよ。ごちそうあるよ。」
「ねえねえ、このにおいさあ。」
「ああ、ごめん、なんか全然におい取れなくて。前住人臭なのさ。」
友人は何やら訝しげな顔をしているが…。
「…ねえ、黒い人も呼んでいい?」
「ん?いいよ、いっぱいごちそうあるし。」
友人はごちそうの並ぶ私の部屋の片隅に、持参の風呂敷を広げた。
「やあやあ、いい匂いだ、ご相伴にあずかってもよろしいのかな。」
風呂敷の中から黒い人が出てきた。
いつ見てもまあ…スマートな出で立ちとスマートな物言いだよ。
「ねえねえ、ちょっとこっち見てよ、こっちこっち。」
友人が黒い人の手を取って…玄関に行ったぞ。…ちょっと!ごちそう冷めちゃうじゃん!ああ、冷めた方がいいのか。
「これはいただいてった方がよさそうですね。」
「持ってったげてよ、ごちそうあるし、良いでしょ。」
「ねえねえ、なんかいるの、住人にも教えてよ…。」
これは絶対なんかいた案件だ。くそう、やはり事故物件は侮れないな…。
「この物件、すごいにおいしますけど、それにおいのふりした意識ですね。ちょっとめんどくさそうだから、私持っていきますよ。」
黒い人は何やらペットボトルとストローを使って採取している。みるみるペットボトルが黄色く染まっていくぞ!!なんだい、これは。
「魂とか霊体だったらさあ、うちでもよかったんだけど、ちょっと難しそうだから呼んじゃったんだ、ごめん、ガールズトークできなくなっちゃって。」
なんだそれは。全然分かんなかったぞ…。つかガールズトークって。あんた雌だったんかい。
「このにおいさあ、こっちのクローゼットの中の香水の匂いが飛んでるんだと思ってた。ちょっと待って、クローゼットの中に本体とかいるんじゃないの…。」
バタン!
クローゼットを開けて、問題のざらつく棚板を…。
「うわ!!何この防虫剤のにおい!!ここまで?!閉めてよ!!…コンコン、咳出ちゃうじゃん!!」
「クローゼットには何もいませんよ。ここにこぼれたにおいを拝借して、それに紛れて生気を吸ってた感じですね。…あなた相変わらずとんでもないですね、よく平気で住んでましたねここ。」
そういわれてみれば、最近頭がちょっと痛かったような…。
「うーん、気が付かなかった、ありがとう、全部食べてっていいからさ!!」
「ちょ!!あたしのお稲荷さんはとっちゃやだ!!」
「トランクに詰めれるだけ詰めて帰ります、はい。」
うーん、余ったら晩御飯にしようと思ってたんだけどな。まあいっか、今晩はそうめん茹でて流しそうめんパーティーにしよう。ゴマつゆ、かつおだしつゆ、玉ねぎ白だしつゆ、マヨネーズだしもつくって…美味いんだよねえ…。
「ここ五階でめっちゃ見晴らしいいんだねー!」
「うん、よく空見てると龍が飛んでるよー、たまにへたくそな飛び方のがいてさあ!」
高い位置から見ると結構いろんなものが見えるって初めて知ったよ。今まで一戸建てしか住んだことなくて、意外と空が狭かったんだよね。
「ここからだとよく浮遊霊や魂も見えますねえ…ここは実にいい物件ですなあ。…おや、あんなところに地縛霊が。」
「そんなものは見えなくていい!!!」
ごちそうを一緒に食べ食べ、雑談しつつ、友人の尻尾をブラッシングしたりしてたらあっという間に夕方になった。ああ、夕焼けの色が赤くなる。
「ごちそうさま、お土産もありがとう。」
「ううん、また遊びにいらっしゃい。」
夕焼けに照らされる友人の影には三角耳とおっきなしっぽが九本。
「急にお邪魔しましたね、ごちそう、皆で分けます、ありがとうございます。」
「いえいえ、変なの持ってってくれてありがとう、皆さんによろしく。」
友人の影にすうと入り込んだ黒い人。
「またね。」
友人たちは、ひときわ赤く染まった夕日の中に消えていった。
私は長く伸びた自分の影を踏みつつ自分の部屋に戻って、大量のそうめんをゆで始めた。