第五章 マガサシタ
先の街の近くには魔王の住む城があった。自然と強い魔者も多くなり、人間たちとの争いが絶えなかった。スライムは道中に多くの死体を見かけた。それは供養されることもなく無残な状態で転がっていた。
しかし、街に近づくにつれてそのような光景を目にしなくなった。道路は石畳で整えられ、人間の独立した世界ができていた。
スライムは時折すれ違う甲冑を着た騎士たちの視線から逃れつつ、街に向かった。何度か目が合った気がしたが、彼らは蟻でも見るかのように見下した視線を送り、立ち去って行った。
入口にたどり着くとスライムは信じられない光景を目にした。立てられた数本の杭に魔者が贄のようにして晒されていた。街に入っていく人間は魔者を奴隷のように従え、鎖につながれた魔者はそれらを見ない様に下を向いて歩いていた。
どうやって街に入ろうかと外壁を回ると、入口の反対側には山積みにされた魔者の死体があった。それは皮をはがされた者や拷問を受けたような傷のある者もあった。
(どうかしている)
それが街の第一印象だった。
結局人間の体を借りて街に入ったスライムは、情報を集め始めた。しかし、特別な行動をとらなくても情報は自然と集まってきた。
街には治安を守るため、王国から精鋭の騎士団が送られていた。ベルはすでに街の中で数匹の魔者を殺して従えていた人間とも何度か問題を起こしていたが、騎士団を厄介に思い、あまり突出した行動を起こさないでいた。
スライム途中で何度もベルを殺そうと企む輩の声をいくつも聞いたが、次の日にはその輩の存在自体が消えてなくなっていた。
あのパーティには魔女がいる。そう真しやかに囁かれていた。千の目と耳で街中を見張り、悪い噂は強力な魔法で根元から立つとのことだった。
(あの女の子が……)
アリアと呼ばれていた女の子を思い浮かべていた。家族のために花を添えてくれた女の子。その心が魔に染まったことを思うと胸が痛かった。
スライムがその一行を探している時、また噂を耳にした。噂の絶えない街だった。それだけ人々が疑心暗鬼になっている現れだったかもしれない。魔者が近くにいる。すぐ近くには魔王の住む城がある。それだけで人の心が緊張感を張り巡らせるには十分だった。
(あの町とは随分違う)
スライムは数日前まで暮らしていた港町の様子を思い返していた。同じ人間と魔者が暮らしている街だが、その様子は正反対だった。スライムは皆が笑い合い、助け合っていた素敵な光景を思い出しては、目を潤ませた。
「おい、」
低い声を聞いて慌てて身を隠した。どうやら街を巡回している騎士が話をしているようだった。
「聞いたか? あのベルとかいう田舎者がとうとう団長に剣を向けたらしい」
「ははっ、身の程知らずも甚だしいな。それで?」
「明日の昼に街の噴水広場で決闘だそうだ。まぁ、一方的な戦いになるだろうけれどな」
「違いない。なにせ団長は唯一魔王城で三騎士の一匹を討ち取って帰ってきた遠征軍の英雄だからな」
「ああ、正真正銘勇者に一番近い存在だよ。明日、あの田舎者が吠え面かくのが楽しみだ」
そう会話をしながら、騎士たちは立ち去って行った。
(明日の昼、噴水広場)
スライムは少し顔を出すと、その後姿を眺めていた。
日が暮れるにつれて街には闇が広がっていった。気味の悪い広がり方に家畜たちは途端に怯え始めた。スライムはその陰に紛れて明日行われる決闘場所の下見に向かった。
魔者は一方で活気づいていた。一つの路地裏で奴隷のように首輪につながれた魔者は睨み付けるように主人を見ていた。
「ダメよ。悪い子ね」
主人に向かって一歩踏み出そうとした瞬間、影が赤子をあやす様に声をかけた。すると、沼に沈むように魔者が影に呑まれていった。スライムは目の前で起こった不気味な光景に息を呑んだ。
主人が振り返ると地面にめり込んだ首輪が残っているだけだった。
「どうした?」
聞き覚えのある声にスライムは顔を向けた。そこにはベルとその一行がいた。
「あっ」
小さい声だったが思わず漏れると、アリアと目が合った。アリアもまた声を上げかけると、すぐにローブの裾でスライムを隠した。
「いえ、影が魔者を呑み込んだようなので……」
「またか。面倒な奴だな」
ベルは影の深い場所へ歩いていった。その姿が見えなくなると、アリアはその場でしゃがみこんだ。
「あなたはあの時のスライムさん?」
あの時がどの時かわからなかったが、スライムは言葉を返した。
「王都の近くの沼でお前たちに家族を殺されたスライムだよ」
突き放す様に答えるスライムにアリアは悲しい顔を見せた。悲しいなんて気持ちを持つ資格はない。そう思いながらもアリアは思わず目を伏せた。
「偶然ではないですよね……」
息を吐くような微かな声で話すのは罪悪感からなのか、周りに聞こえない様にするための配慮なのか、しかしながら、言葉を話す目の前の少女は空気に溶け込みそうなほど覇気がなかった。
「無理です。彼には敵いません」
「毒が作れるから?」
「調べているのですね。でも、それだけじゃない。単純に強いんですよ。それと、覚悟があります」
「覚悟?」
「魔を滅ぼす覚悟。それを果たすためなら人だって犠牲にする」
「君も、殺すの」
「……、……、……」
その長い沈黙が答えだった。月明りで表情は陰っていたが、目元に薄い光が感じられた。
「どうして? 確かに魔者は最初のころ多くを奪ったかもしれない。でも、悪い魔者ばかりではない。君も前の町で見ただろう? 人間と魔者が仲良く一緒に暮らすことも可能なんだ」
スライムの言葉にアリアは涙を溢した。スライムは前の町で起こった出来事を知っている。あの町で行った非道を知っている。そう思うと嗚咽しそうなほどつらかった。
「もう手遅れなの。彼が魔者を、人間を殺さないためには魔王を討ち取って平和な世界を取り戻すことが最善策。これ以上の犠牲を減らすための唯一の方法なの」
私は守るためにここにいる、そう自分に言い聞かせるようだった。そう言い聞かせていないと気が狂いそうだった。
アリアは深く息を吐いた。
「明日、彼と街の騎士団長との決闘があります」
突然しっかりとした面持ちで話し始めた。それはあまりにも作った表情だった。
「その後、魔者にとってはきっと大変なことが起こります。そうなる前にあなたは街を出ていってください。できることなら、人のいないところで自分の居場所を探してほしい」
奪った私が言うのもなんだけれど。と付け加えた。
「それはできない。その決闘を見届けたいんだ。非道なことをしようとしているのなら尚更見ておきたい」
わざわざ大変なことを非道なことと言い換えた。それは自分たちのしていることを正当化させないというスライムの意志の表れだった。目の前にいるのは本当に最弱な魔者スライムだろうか、そう思ってしまうほど目の前の最弱生物は堂々としていた。
アリアは困ったように再び息を深く吐くと、小さく頷いた。
「それなら、私の部屋にいらしてください。広場の様子は良く見えますし、術式をかけているので彼にあなたが見つかることはないでしょう。その代わりに決闘が終わり次第、街から出て行ってください」
「……僕を部屋に入れるの?」
「あなたが私の部屋に入れるのならば……」
互いは互いの目を真っ直ぐ見据えた。そして、しばらくした後にスライムは頷いた。
「わかったよ」
「はい。部屋は噴水広場正面の宿屋、二階の角部屋になります。あと……」
アリアは杖をかざすと、インビジブル、と魔法をかけた。
「これでしばらくは他の者から見えなくなります。その間に部屋に向かってくださ……」
「アリア、誰と話している?」
話に気を取られて気が付かなかったアリアは思わず直立した。
「いえ、精霊の気配がしたので探していたのですが、私の勘違いでした」
ごまかす様に答えると、ベルの後ろで影が笑った。その不気味な存在をアリアは訝しげな眼で見つめた。
「ふん、まあいい。さっさとブルーノを迎えに行くぞ」
まったく、こんな時まで酒盛りしやがってと愚痴をこぼしながら、ベルは歩いていった。アリアは振り返ることなく、むしろ早くこの場から離れようとベルの後ろを少し距離を開けて歩いていった。
その後姿は鎖に繋がれた魔者と同じようだった。
「可哀想に」
そう一言漏らすとスライムは路地裏の影の中を進んでいった。
宿はすぐに見つかった。教えられた通り角部屋の中に入ると、窓からは決闘が行われる広場が一望できた。
「居場所を探してほしい、か」
アリアに言われた言葉を反芻した。
『復讐など考えずにこの町で暮らしてはどうだい?』
前の町で長に言われた言葉を思い返した。
「お前たちが奪ったんじゃないか。お前たちが奪い続けるんじゃないか」
憎しみに魔が差すと、体中に激痛が走った。
(しまっ……)
スライムは警戒するように周囲を見渡しながら、その痛みで気を失った。
ガサゴソと物音に目を覚ますと、出かける支度をしているアリアがいた。スライムはすぐに体の状態を確かめたが、特に何かされている様子はなかった。むしろ疲れがなくなり、軽快に感じていた。
アリアはスライムに近づくと、優しく微笑みかけた。
「目が覚めましたか?」
「うん。僕は気を失っていたの?」
「この部屋には悪しき心を持つ者を排除する結界を張ってあります。そこに少し触れてしまったのでしょう」
少しで済んだから気を失う程度で済んだとアリアは笑顔を作った。その笑顔にスライムは忽ち警戒心を抱いた。
「大丈夫ですよ。それより、もうすぐ始まります。昨晩も言いましたが、決闘後は速やかに街を出てください。昨日の魔法を少し強めにかけておきますので」
アリアは杖をかざすと、インビジブル、と唱えた。そして、ドアに向かって歩いていった。
「魔法の効果は二、三時間ですが、おそらく大丈夫でしょう。決闘はすぐに終わります」
ドアノブに手をかけると、薄暗い表情で宣言した。それはこの街で起こることを案じているようだった。そして、何もできない無力な自分を悔やんでいるようでもあった。
スライムはその後姿に自分を重ねていた。昨晩彼女が語った最善策。彼女もまたベルによる被害を最低限に抑えるために行動を共にしているのだろうか。彼女の作った笑顔を思い返しながらそんなことを思っていた。
アリアはそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。スライムは窓から外を眺めると、中央に集まった人々、奴隷のように繋がれた魔者たちの様子を見つめていた。広場中央は甲冑に身を包んだ騎士団によって円状にスペースが作られていた。街はお祭りのように賑わい、どちらが勝つか賭け事まで行われていた。
ベル一行が広場に現れると、空気が途端に張りつめた。その張りつめた空間の中、周囲を見下すような目で進んでいった。
中央には騎士団長が立っていた。周囲の騎士たちとは違い、街の人と同じような服装だった。ベルがその横に並ぶと、一行は散り散りに周囲の騎士の間に入った。
「それではこれより、決闘を開始する」
騎士団長の後方から仲介人が声を上げると、張りつめた空気が爆発するように歓声が上がった。
「双方の力は王が認めている。故にこれは殺し合う場ではない。王の名のもとに互いの主張の是非を通すための戦いだ。くれぐれも行き過ぎない様に」
「はい」
「ああ」
胸に付いた王家の紋章に手を当てて答える騎士団長とため息まじりで受け流すベルの姿に観客たちは応援する立場を固めた。
「それでは双方何か一言」
仲介人が声をかけると、騎士団長が一歩前に出た。
「私は魔者がすべて悪だとは思っていない。ただし、階層組織は大切だ。魔が人に与するならば、その力を人のために役立てることを歓迎したい。よって、事あるごとに街の魔者を殺すこの男に街からの追放を勧告する」
騎士団長の言葉に観客は歓声を上げた。とりわけ、魔者に首輪を繋いでいる者が大きな声を上げていた。
続いて、後ろで聞いていたベルは嘲笑するように笑いながら騎士団長の横に並んだ。
「騎士団長は奴隷制度をご所望らしい。人間でそれを行うのは倫理に反するから魔者で行うそうだ」
「それは違う。私が望むのはあくまで共生だ」
「ならば、なぜ首輪をつける? 無抵抗な者に暴力を振るう?」
「階層組織を構築するためだ。いずれ首輪も必要なくなる。いずれ上下関係がはっきりした中で互いに笑い合える日が来るだろう」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
ベルはさらに一歩前に出た。
「魔はすべて悪だ。一掃することこそが正義。俺はこの街の魔者の排除と魔王討伐のための全面的な支援をこの街に要請する。約束しよう。魔王は俺が討つ。その力があることを今からここで証明して見せる」
ベルの言葉に一瞬静まり返った観客だったが、すぐに大きな歓声を上げた。それはもしかしたら騎士団長へのものよりも大きかったかもしれない。
「前の町で住民を皆殺しにしたそうじゃないか。お前はただ殺したいだけだろう。魔を滅ぼした後、次は悪い人間でも滅ぼすつもりか?」
「必要ならばそうしよう。まずは手始めに貴様だ」
二人は数歩離れるように歩くと、互いに向き合った。
「それでは、双方の是非をかけた決闘を始める」
仲介人は二人の間で声を張った。そして、天に伸ばした手を振り下ろした。
「両者、始め!」
掛け声とともに本日一番の歓声が上がった。
プライドからか、騎士団長は自分から仕掛けることはなかった。雄牛の構えで剣先を向け、ベルが動き出すのを待っていた。そうなることが分かっていたようにベルは呆れ顔で右手に持った剣をぶらつかせた。
「騎士団長、能力はお持ちかな?」
「能力は元を糺せば魔の力。そんなものは必要ない」
「そうか。ちなみに俺は雷を操る。その力も使い方が多様でね」
「何が言いたい?」
「お前が勝つには始まった瞬間にその構え通り、牛のように突っ込んでくるしかなかったということだよ」
ベルは剣を左手に持ち帰ると、短刀を懐より取り出した。その短刀は雷を帯び、時折パリパリと放電していた。
「刃先に触れるだけで体内の細胞を忽ち壊す。気をつけるといい」
「余裕だな」
騎士団長が言うと、ベルは微笑みながら短刀を投げつけた。そして、次の瞬間ベルの姿が消えた。
空気の動きでかろうじて後方に回ったベルの剣撃を受け止めた騎士団長だったが、剣先からの放電の痛みで剣を落とした。そして、コンマ数秒身動きの取れなくなった背中に短刀が突き刺さった。
「余裕だよ。俺はこの力を活かすことで人間の身体能力を全力で引き出せる。一撃を防いだことは称賛に値するが、俺に挑むこと自体片腹痛い」
ベルが止めを刺そうとすると、仲介人が慌てて止めに入った。
その圧倒的な強さに広場に集まっていた人たちは言葉を失った。魔王討伐も夢ではないと期待に目を輝かせるものもいた。
「そこまでだ。言ったであろう。この場は殺し合う場ではない」
静まり返った広場で仲介人の言葉が響いた。すると、ベルは蔑むような眼で広場を見渡した。
どこかで影が笑うのを確認すると、ベルは仲介人に目を向けた。
「気づかないか? こいつはすでに魔に落ちている」
「何を?」
仲介人と騎士団長が声を揃えると、騎士団長の体を激痛が走った。
騎士団長は叫び声を上げた。それは野生の動物が断末魔に上げるような恐ろしい響きだった。
中央広場の頭上に暗雲が立ち込めはじめ、影が騎士団長を包んだ。
アリアは周囲を見渡した。そして、何かに気が付くとベルを止めに中央へ向かった。
影を帯びた騎士団長は二メートル、三メートルと体を大きくしていった。仲介人は腰を抜かし、観客も戸惑っていた。一方で鎖に繋がれた魔者は歓喜の声を上げ、その首輪を引きちぎった。
「さすが団長様。魔に落ちるとここまで強力か」
ベルはその姿を見上げると、素早く剣で影を薙ぎ払った。
「俺はお前と違ってすぐに行動する」
影は真っ二つになると、その場に倒れこんだ。影が晴れると体の所々が変異した姿の騎士団長が現れ、広場には悲鳴が上がった。
ベルは一歩前に出た。
「おそらく、過去魔王討伐に向かった際に魔をもらってきたのだろう。魔に触れるとはこういうことだ。魔を飼うなど笑止。すぐに斬り捨てよ」
ベルの言葉に街の人々は近くの魔者へ目を向けた。一転して魔者は怯え、逃げ出そうとしたが、影に足を取られ、身動きが取れなくなっていた。
「賢明な騎士団諸君、手伝ってやれ」
ベルはそう促すと、広場の中央に移動した。
広場では魔者を街の人々が殺すという残虐光景で溢れていた。それを見下す様に眺めるベルの元へアリアは駆け寄った。
「俺にはすでに街の者も魔者に見えるよ」
「彼らは人間です。私たちが護るべき存在です。あなたはそのために決闘をした。そうでしょう?」
「そうだったな」
ベルは視線を上げると、少し哀しい視線を一つの建物に向けた。それは自分たちが宿泊している宿だった。
「ところで、アリア。お前の部屋から魔の気配がするのは気のせいか?」
思いがけない一言にアリアの表情は青ざめた。ほんの一瞬のことだったが、ベルは見落とさず、しかし、気付かない振りをした。
「見てきます」
アリアは平静を装いながら歩き始めた。悟られない様に、でも急いで部屋に向かった。すでに街を出ているかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱いていた。
部屋のドアを開けると、スライムは影に縛られていた。そこから漂う悪しき心に結界が反応し、感電するようにスライムは気を失っていた。
「スライムさん!」
アリアはすぐに結界を解除すると、床に根を張った影を払った。そして、すぐにスライムに治癒魔法をかけた。
「残念だよ、アリア」
背中から聞こえる声にアリアは身を強張らせた。
「しかし、我々はこれだけ魔に近づいているんだ。一度くらい魔が差すだろう。今すぐそれを始末すれば見なかったことにしてやろう」
幸い、ここにいるのは俺だけだと続けた。街の外では魔者たちが暴れていた。他の仲間たちはそれを排除すべく外に残っていた。
ベルにしてはあまりに寛大な言葉だった。驚きと戸惑いを浮かべながらアリアは振り返った。
「その両手に抱える魔者をこの場でお前が始末しろ」
口調も視線もいつものように冷めていたが、その姿は嘆願する子供のように見えた。
「い、嫌です」
「何?」
「命を奪うのは嫌なんです」
アリアはすぐに結界を張り直した。拒まれたベルの表情からは感情が消えた。
「……そうか」
ベルは静かに剣を抜いた。そして、剣を振るおうとした時、重い足音が近づいてくることに気が付いた。
「次は仲間にも手をかけるか?」
「誰だ?」
奥の暗がりから現れる姿に、ベルは珍しく驚いた顔を浮かべた。
「……ベルジュ」
「騎士団長を魔に落とした影はお前の仲間だな。魔者を一掃すると言っていたお前がなぜ魔者と一緒にいる?」
「あれは他の者と違って使い道があるだけだ。魔王を討ち取ったら首を刎ねる。そういう約束で今は生かしてやっている」
ベルジュは会話をしながら、警戒すらしていないように距離を詰めた。ベルは剣の柄を強く握るといつでも動けるように準備を整えていた。
「やめておけ、狭いところでお前のスピードは不利になるだけだろう。一瞬の隙を見逃すような私ではないよ」
次は躊躇わないとその目は語っていた。ベルジュは諭すように声をかけると、部屋の中に入っていった。
「彼は無事かな?」
「え、ええ」
「心配しなくていい。私は彼の友達でベルの剣の師だ」
ベルジュは透明の瓶にスライムを入れると腰に下げた。そして、エスコートするようにしゃがみこんでいるアリアに手を差し出した。
アリアは手を取り、立ち上がると二人でベルと対峙した。その姿にベルは過去を思い出し俯いた。両親が孤児院に自分を押し付けたときの姿。育った村で自分と対峙する婚約者と師匠の姿。
息を荒げるベルの影が揺らめき始めた。
「ベル」
ベルジュの声にハッとして顔を上げた。
「私は魔者がこの世界にいることを良いとは思っていない。魔者には魔者の住むべき世界があるはずだ。魔王を倒して人間の世界を取り戻したいという気持ちは大義だと思うし、それを叶えようとするお前と闘うつもりはないよ」
ベルジュは親のような優しい口調で語りかけた。
「しかし、お前が人をも傷つけるようなら私は再び闘うことになるだろう」
ベルジュはアリアの肩に手をのせると、静かに目配せをして歩き始めた。
「この子たちはしばらく私が預かる」
すれ違いざま、ベルジュはベルの頭に手をのせた。それは間違えた子供を叱るような軽いげんこつの様で、愛しいわが子を撫でる様な仕草だった。
「終わったら村に帰ろう。今でもあの娘はお前を待っているよ」
廊下を進む二人を影が追おうとしたが、ベルは剣先で静止した。
「ベル、薬が机の上に置いてあります。どうかご無事に」
離れていく背中から声が聞こえると、部屋の結界が解かれた。
ベルはゆっくりと部屋の中に入った。そして、机の上に置かれた大きな箱に目をやると、窓から外を眺めた。
外では魔者が自分の命を守るため、必死に戦っていた。しかし、その命は一つ、また一つと消え、日が暮れる前までにすべてが消えた。
ベルは何事もなかったかのようにその部屋のベッドで横になると、そのまま目を閉じた。
その日、ベルは夢を見た。それはまだ黒い風が吹く前のころ。裕福ではないが平和にあふれた街で起こった話。
子供のころ、父と知らない女性、それと母がテーブルを挟んで座っていた。
『魔が差した』
知らない女性がそう言うと、母はその女性に平手打ちをした。慌てて止める父。そして、それからは喧嘩の日々が続いた。
時折その女性は家にやってきた。そして、ある日少年に向かって話しかけた。
『もうすぐあなたに弟が生まれるわ。仲良くしてあげてね』
母は少年に話しかけないでと怒り狂った。それを必死に抑え込む父親を見て女性はクスクス笑っていた。
ある日、いつものように喧嘩の声がしているのを部屋で聞いていると、突如悲鳴が上がり、その声が止んだ。
少年が恐る恐る覗きに行くと、そこには刃物を持った母の姿があった。
『魔が刺した』
母はそう言うと気が狂ったように笑った。
それからしばらくして少年は父の田舎の孤児院に預けられた。そのすぐ後に両親が身投げしたと知らされた。
少年は自分だけが置いて逝かれたことを悲しんだ。そして、放心状態で日々を過ごす中、父のことを忘れ、母のことを忘れ、自分のことを忘れた。
ただ微かに残っているのは去っていく二人の姿。それと『マガサシタ』の一言。
それは少年の心に唯一残った生きる原動力になった。
魔って何だろう?
許さない、許さない。そう思いながらがむしゃらに剣を振った。
数年後、この平和な時代に傭兵まがいのことをしているという男が孤児院にやってきた。そして、懸命に剣を振るう少年に目を付けた。
『少年、なぜ剣を振るう』
男が尋ねると、少年は答えた。
『魔が人を刺さないために』
そうかそうかと男は大きく笑った。それならばまず鍛えるのは心だと男は教えた。
『お前はいろんな世界を見る必要がある。強くなりたいならついてくると良い』
男が言うと少年は真っ直ぐに頷いた。
男は少年の頭を撫でた。その感触はとても懐かしく、温かだった。
『私の名はベルジュ。少年、名は?』
『そんなものはないよ』
『そうか。ならばベルと名乗りなさい。その名前は私とお前の家族としての絆だ』
ベルジュは目線をベルに合わせるとニッコリ笑った。
ベルが目を覚ますと、足元の影が薄気味悪く笑っていた。ベルはそれにナイフを突き立てると、殺されたいか?と睨み付けた。
影はもう一度だけニンマリ笑うと、動かなくなった。
ベルは立ち上がると昨日までの賑やかさが無くなった街を眺めた。騎士たちは魔者の亡骸の片づけに追われ、至る所に血が飛び散った街を歩く者はほとんどいなかった。