第三章 剣師ベルジュ
スライムが向かったのは林を二つ抜けたの先にある小さな村だった。いつものスライムなら人間が日帰りで済む距離でさえ数日かかった。それゆえに遠出をするときは天候や地面の状態など注意に注意を重ねなければならなかった。しかし、その途方に暮れるような距離も今なら難なく行くことができた。野生の狼に寄生して走るだけ。他の生物はこんなにも便利な体を持っているのかと羨ましく、そして、疎ましかった。
こんな便利な足があったならば、皆上手く逃げ切れたかもしれない。そう思いながら林の中を颯爽と走っていった。
村に近づくと今度は慎重に歩き始めた。納屋の木陰で狼の体から離れると、狼は何が起こったのかわからない様子で後ずさりするように林へ戻っていった。
納屋の近くの家に二人の女が向かっていくのが見えた。手には山菜などの入った籠。その中に見覚えのある花を見つけた。
それはアリアが手向けた花だった。
「今日こそは薬を飲んでもらわないと」
「そうね。折角いいお薬を煎じても飲めないのでは意味がないからね」
女の一人が花を手に取ると、その香りを嗅いだ。香りだけでも癒される、そんな表情を浮かべていた。
「村を救った英雄だもの。何としても良くなってもらわないとね」
そう言うと、二人は一つの家に入っていった。
病気なら都合が良いと、スライムは壁を這い上った。そして、格子状になった窓の隙間から中を覗いた。
薄暗い部屋の中にはベッドに横たわる男がいた。所々に深い傷痕があり、毒でも盛られたかのように肌が変色していた。それは素人が見ても生きているのが不思議な有様だった。
「ベルジュ様、お薬を飲んでください。万毒に効くという花を煎じたものです」
女の一人が薬を水に溶かすと、男の頭を起こして水差しで口に含ませた。しかし、その水は口に含まれることなく零れ落ちた。
「ベルジュ様、どうか……」
嘆願するように声をかけるが何一つ反応がなかった。女は一つ息をつくとゆっくり頭を下し、零れた水を拭いた。
もう一人の女性は扉の横に立ち、その様子を静かに見守っていた。
「母さん……」
「仕方がないのよ」
二言会話が続くと、ベッドの横に座っている女は静かに目を伏せた。
「あの男さえいなければ」
「よしなさい。滅多なことを言うものではないわ」
女は水を拭った布をギュッと握りしめた。その母親は近づくと女の肩をそっと引き寄せると、頭を撫でた。
それからしばらく、二人は押し黙ったままだった。その後姿をスライムは静かに眺めていた。自分だけが哀しい思いをしたわけではない。魔者だけが排他されているわけではない。一人の言った『仕方がないのよ』の言葉が心を強く打った。
日が傾き始めると、二人は家から出て行った。またすぐに来るのか、薬草を机に残したままだった。
スライムは窓から部屋の中に入ると、ベルジュと呼ばれていた男の上に乗った。ベルジュは生きるために必死で呼吸をしているようだった。遠目では気が付かなかったが、全身は分厚い筋肉に覆われていた。体には古くについた刀傷が多数あり、彼が根っからの戦士として育ってきたことを物語っていた。
(体に入ることは可能だろうか)
今まで人の体に入ったことのないスライムにとってこれは好機だった。身動きの取れない屈強な人間、まさに理想といえる条件だった。
スライムは恐る恐る口から体内に入ってみた。そして、すぐにその行動は後悔に変わった。なぜ好条件の人間が横たわっているのか、考えることが浅かった。
体内に入るとすぐに至る所から刺激を感じた。それは体に広がると焼けつくような痛みを伴った。
「しまった、毒が……」
スライムは以前これと同じ苦痛を経験したことがあった。林の魔者に悪戯半分で毒を塗られ、体内の水分が入れ替わるまで激痛に苦しまされた。
「早く出ないと、僕の体まで冒されそうだ」
スライムは慌てて引き返そうとした。しかし、その激痛は持続することなく痛んでは消えて、痛んでは消えてを繰り返した。
「免疫ができている?」
先ほど女が薬を飲ませていたことを思い出したが、ベルジュの体から毒が無くなっているわけではなかった。それはスライムの体内に入った毒素だけが中和されている感じだった。
あの花、万毒に効くという花。
スライムは女が持っていた花を思い出すと、沼での出来事を思い返した。殺された家族に手向けられた同じ花。それはスライムと一緒に宙を舞い、雷とともに沼へ落ちた。
(あの時、薬としての効果が体内に入ったのかもしれない)
スライムは相変わらず瞬間の痛みを感じながら、我慢しながら考えた。そして、引き返すのを止め、それどころか、全身に広がってみせた。
水は瞬く間に全身を駆け巡り、激痛は少し刺激のある程度の痛みに変わっていた。
ベルジュは静かに目を開け、ゆっくりと起き上がった。全身から大量の汗が流れ、全身から毒素が出ていったことがわかった。
その中に入っているスライムは足先から頭のてっぺんまで全身を確かめるように動かした。
「すごい体だ。体中が筋肉で張っていることがわかる」
スライムはゆっくりと立ち上がると正拳突きを一撃繰り出した。その圧力は扉にぶつかり、家を揺らした。病み上がりのその体はすぐに膝をついたが、スライムは確かな可能性を感じていた。この体なら、スライムは拳を強く握った。
コトン
部屋の隅で物音がした。
スライムが目を向けると、薬の入った籠が落ちていた。これを飲めばベルジュの体はきっと良くなる。でも、意識を取り戻したら二度とこの体に入ることはできないだろう。それ程の男であることは身に染みてわかっていた。
スライムは薬を拾うと、躊躇っていた。しかし、看病に来た女のことを思い返した。祈る様に薬を口へ運ぶ姿が尾を引いた。
「仕方がない、わけないよね」
スライムは薬を体内に取り入れ始めた。そして、体内に入った薬草はスライムによって効率よく広がった。
しばらくすると、体内から刺激が無くなった。それと同時に別の強い意志を感じ、次には体の外へ吐き出された。
ゲホゲホ
ベルジュは咳ばらいをしながら、吐き出した液体に目を向けた。スライムはその威圧感にに萎縮し、身動きが取れなかった。イノシシの時とは桁が違う。目を合わせるだけで窒息しそうだった。
殺される、そう覚悟をしたが、ベルジュは随分と穏やかだった。
「君が治療を?」
「う、うん…… でも、薬を用意したのは二人の女の人だよ。僕は体を借りるついでに体内に薬を広げただけ」
「そうか」
ベルジュは扉に目をやった。そして、体の感覚を確かめるように拳を握っては開いてを繰り返した。
「僕を殺さないの?」
スライムが声をかけると、ベルジュはそっと目を向けた。
「私は体が麻痺する毒を打ち込まれた。君が薬を体に入れてくれなかったらいずれ死んでいただろう」
「……そうかもしれないけれど」
「命の恩人に仇を返すことはできないさ。むしろ、礼をしなければならない。何か私でできることがあったら言って欲しい」
スライムの願いはその体を頂くことだが、吐き出されたことを考えると不可能だとすぐにわかった。それならばと、一つの提案を恐る恐る切り出した。
「僕は人の体に入る練習をしているんだ。その練習をさせて欲しい」
ベルジュは眉を潜めた。
「先ほども私の体に入ったと言っていたが、どういうことかな?」
「僕には生物の体に入ってコントロールする力があるんだ。正確に言うと最近偶然に身に付けた。今までは林の動物で試していたけれど、人間でも可能か実験がしたいんだ」
「私の体に入って操る実験をしたいと?」
「うん。でも、安心して。完全に乗っ取ることはできないから。あなたみたいに強い人間の場合、さっきみたいにいつでも吐き出せると思う」
確かに、その気になればすでに体を奪っているか、とベルジュは眉唾物だが考えを巡らせていた。
「その実験が今後人に仇を成す内容なら承知しかねる。力としては非常に危険なものだとさえ思う。場合によっては君をここで倒しておく必要があるほどにね。一つその訳というのを聞かせてもらえないか」
スライムもまた考えを巡らせた。人に仇を成す内容であることから、この場で殺されることも想像できた。しかし、ベルジュの目、その目は一度もスライムを見下すことなく対等に生物として語りかけてくれているように感じた。
スライムは決心した。そして、ここまでの経緯を話した。家族を人間に殺されたこと、その時にこの能力を身に付けたこと、いろんな体で実験しつつ、ここに来た事……
「その男を殺すことが目的か?」
「わからない。でも、その男がこれ以上悲しみを増やすような真似をするならば……」
「悲しみを、か」
ベルジュは手のひらを眺めていた。それはこぼれ落ちようとする何かをただ眺めることしかできない、そんな哀しい目だった。ベルジュもスライムも恐らくは掬い上げられなかった者同士なのだろうと互いに感じていた。
「では、こうしよう。これでも私は剣の腕に覚えがある。男の名と特徴を教えてもらえたならば、話をつけに行こう。今後その者が悲しみを増やさない様に目を配ることを約束する。だから……」
「だから?」
「失礼な申し出かもしれないが、君の身に起こったことは過去のこととして、林に帰って新しい生活を送って欲しい」
復讐などに囚われないで欲しいと付け加えた。
スライムの心は葛藤していた。殺された家族の姿や虫けらを見るようなあの男の目が素直に頷くのを拒んだ。確かに復讐なんて好きでやりたいわけではない。しかし、それで家族は報われるだろうか。自分は後悔しないだろうか。
……
…………
「ベルと呼ばれていた。雷を扱う男だった」
しばらく考えた挙句、スライムは低く沈んだ声で口にした。答えが出たわけではない。ベルジュの強さは実感したが、それでもあの男に対してそれ程のことができるのかも疑問だった。
可能性の一つとして、保険を利かすくらいの気持ちで話すことにした。
「……」
今度はベルジュが静かになった。
スライムは押し黙ったままのベルジュに目を向けた。なぜ黙っているのか気にすると、彼の手が震えていることに気が付いた。
「そうか、それはすまなかった」
ベルジュの態度が変わり、深々と頭を下げた。
「その男は私の息子であり、弟子だ。そして、私に毒を盛ったのも……」
ベルジュは悔しそうに奥歯を噛みしめた。保護者としての不甲斐なさを痛感している様子だった。
「ベルは自分の能力で体の電気系統を破壊する毒を作り、剣の先から流し込んだ。少しでも触れれば動けなくなってしまう。彼の剣をすべてかわすのは不可能だろう」
それはおそらくすべての生物が不可能だろうと加えた。
勇者候補、それは魔王を倒せるかもしれないだけの力を持っている証明だった。
「世間では天才と呼ばれているが、私からみればあれは狂人だよ。それを正そうとした結果こうなったわけだが」
「話をつけに行くっていうのは?」
「……」
「魔者だけでなく、人間にも危害を加えるような奴を放っておくの?」
「それは……」
ベルジュは拳を強く握った。子供のころ、無邪気に遊ぶベルの姿を思い返していた。幸せだったころの光景。世界中で当たり前のように溢れている光景をベルが壊して回っている様子を想像した。
「言葉を覆すことになるが、君が毒を中和してくれれば戦えるかもしれない。私の剣技と君の治癒があれば……」
一度言葉を詰まらせ、止めることができるかもしれないと続けた。
ベルジュはスライムに手を伸ばした。止めることと殺すこと。想いが交わらない関係の中で、ベルジュの手に飛び乗ったスライムは深く頷いた。
それからスライムはしばらくベルジュの家で生活した。初めのうちはまだ体がうまく動かないベルジュの代わりに体を動かし、主観的に殺陣を学んだ。ベルジュの感覚が戻ってくると外から眺め、客観的に筋を覚えた。時折実践を交えては、コテンパンに切り刻まれた。液体であるスライムに痛みはなく、二人は遊んでいる節もあった。
初日に見かけた女たちは翌日からも毎日家を訪ねて来た。おそらくその前からも毎日訪ねて来ていたのであろう。
家に入りベルジュが目を覚ましていることを見ると、彼女はその場で泣き崩れた。その母親はニッコリ頷くと、ベルジュに二言ほど声をかけて外に出て行った。
その生活の中でスライムは事の始まりを知った。
スライムの家族を殺したベルという男は孤児だった。ベルジュが彼を引き取り、この村に移り住んできたそうだ。名も持たない少年にベルジュは頭の二文字をつけ、時折村に降りてくる狼を追い払うための剣技を教えた。
ベルはやがて許嫁を与えられた。それが彼女である。そのまま彼は穏やかな日常を手に入れるはずだった。ところが、ある日風が吹いた。黒い風が日常を変えた。
自分の特殊な力に気が付いたベルは他を侮蔑するようになった。師の教えや恋人の愛を不快に感じた。魔が巣くったようだったとベルジュが語ったように、紙一重で天才と狂人の狭間にいるようだった。
魔者を一掃する。その決意は大いなるものに聞こえるが、その姿は殺戮を楽しむ狂人のようだった。旅に出ようとしたベルをベルジュは強く制止した。特殊な力をつけようとも剣技で大いに上回っていたベルジュは力づくでも抑え込もうとした。しかし、許嫁を盾にした一太刀を受け、体が動かなくなった。
「すまなかった」
ベルジュに何度も何度も謝罪を受けた。その度にスライムは悲しい気持ちになった。ベルジュが悪いわけではない。悪いのはあの男だ。
思えば思うほどにもう一度ベルに会わなくてはならないと決意を強くしていた。
それからさらに数日が経ったある日、一つの知らせが舞い込んだ。魔王の城がある地域でベル一行が目撃されたとのことだった。おそらくは城の近くにある街を目指しているのであろうとのことだった。
その真偽を確かめるべくスライムは一足先にその街へ向かうことにした。
「すまない、もう少し体の感覚が戻ったらすぐに追いかける」
歯痒そうにしているベルジュにスライムはニッコリ笑った。一緒に過ごした数日が実に不思議な関係を築いていた。
「無理はしない様に」
「もちろん。ベルジュもね」
一時の別れを惜しむように、一人と一匹は言葉を交わした。
スライムは村から街の近くまで行く積み荷に隠れた。
ベルジュは荷馬車に隠れるスライムに手を振った。村の人は荷馬車に向かって手を振る男の姿を面白おかしく、奇異な目で見ていた。
数日が過ぎ、ベルジュは体の感覚を取り戻しつつあった。剣を振るうにも違和感はなく、かつて傭兵時代に行っていた訓練を繰り返しながら最善の状態を目指していた。あとは道すがら整えていこうと、旅の仕度を始めた。
トントンとドアを叩く音がすると、静かにドアが開いた。そこにはベルの婚約者だった女が立っていた。
「行くのですか?」
「ああ」
ベルジュがそれだけ答えると、女は悲しそうに目を伏せた。何か言いたげで口をまごつかせるが言葉になることはなかった。
静かな部屋の中、準備を進める音だけが響いていた。
「殺すのですか?」
ようやく出た言葉にベルジュは仕度の手を止めた。ベルジュが振り返ると女は胸元で手を合わせながら泣いていた。ドアの外から光が差し込み、聖母像のようなシルエットだった。
「君もそれを望んでいたように思うが?」
ベルジュが毒のせいで眠っている時に何度か彼女の声が聞こえてきた。それはベルジュの体をねぎらう言葉とベルへの憎しみの言葉だった。
女は自分の言葉を恥じるように俯いた。聞かれているとは露にも思わなかった。
「あの時はそう思っていました。そう思わずにはいられませんでした。優しいあの人を思い出すと涙が溢れて一日が終わってしまいます故、憎しみをもって過ぎしてきました。でも……」
ベルジュはその言葉に穏やかな顔をして微笑んだ。息子を愛してくれてありがとう。そんな気持ちで一杯だった。
「一緒に帰ってこられるように努力するよ。約束はできないが、私も随分と親馬鹿でね」
ベルジュは鞄の紐をきつく結ぶと、ドアに向かって歩き出した。
女は薬瓶を差し出した。その数は一人には多く、彼女の気持ちを感じられた。
「待ってます。お義父様」
ベルジュは婚約者の言葉にニッコリ笑顔を見せると、頭を軽く撫でた。
「さて、愚息の目を覚ましに行くか」
ベルジュは用意していた馬の手綱に手をかけると、力強く跨った。
そして、雲一つない空の下、スライムに追い付こうと駆けていった。