第一章 取るに足らない物語
それは沼の周りに住んでいた。水の集合に付着した僅かな微生物が形を成し、留め、一定の条件で分裂するようになっていた。それは乾燥した場所ではすぐに干上がってしまうため、湿度の高いところでの生活を余儀なくされていた。
それは生物としてはあまりに下等の存在だったが、高い知性と理性を持っていた。そのおかげで今日まで生きながらえることができていた。時に強きに従い、寄生することで身を守ってきた、そんな奴隷のような種族の一つの物語。
雨風をしのぐために四方の木々に張られた布の下で一つの家族が生活していた。
「外で遊んできていい?」
一つがそう聞くと、
「いいわよ。でも水の中には絶対に入ってはダメだからね」
「はーい」
そう会話が続いた。
大量の水の中に入ると、それらは自身の形を維持できなかった。雨程度の水なら体に入った水を外に出せば済んでいたが、それが間に合わないような量になると広がりすぎた体積の中で意識を形成している微生物同士のリンクが切れるようだった。
それらは群を成し、林の中に入っていった。遊ぶといっても特にすることはなかった。勢いよく岩にぶつかって張り付いたり、個体同士がくっついて分裂したり、じゃれ合いながら過ごしていた。そんな退屈な日々でも幸せだった。
それらはカラカラと笑いながら林の中を駆けていた。
「ちょっと待って」
一つが声をかけると、一斉に動きを止めた。一つが止まりきれずに飛び散ると、後ろにいたものたちは笑いを堪えていた。
シッ、と一つは強い口調で言った。その表情を見て他のものはすぐに緊張感を持った。飛び散った一つものそのそと水滴をかき集めて形を成した。
嫌な影が三つ視界に入ってきた。ゆっくりと姿を現したそれはイノシシが二足歩行をし、人間から奪い取った武具を身にまとっている姿だった。
奴らは鼻が利きすぎる。鼻を一嗅ぎすれば数キロ先まで嗅ぎ分けると言われていた。
どうかこのまま気付かずに通り過ぎてください。一同はそう願うばかりだった。
スンスン
一つが鼻を動かすと、目線がこちらに向いた。もう逃げられない。そう思うと一同は石のように固まった。
「おい、スライムじゃないか。相変わらず泥臭いな」
奴らはケタケタ笑いながら歩いてきた。
「今から林に入った人間を倒しに行くから、お前たちも来い」
「いや、僕たちは……」
言い終わるよりも前に一つが持っていた石斧を地面ごと抉りとった。スライムたちは土とともに飛散した。バラバラになった水滴は土に吸収され、元の形に戻れなくなった。
光の粒子が空に還っていった。
それは黒い風が吹いてから見られるようになった現象だった。生物が死ぬとき、魂を形作るような光の粒子が空へ向かって昇っていった。残された生物に別れを告げるように、二度と生き返ることがないと示す様に昇っては消えていった。
残ったのはたったの二体だけだった。先ほどまでじゃれ合っていた家族が一瞬で消えるのを見て、ただ言葉を失うだけだった。
「誰が意見を聞いた? 奴隷は奴隷らしく言う通りにしていろ」
「まったくだ」
奴らは何事もなかったかのように歩き始めた。スライムたちは見えない鎖でも付けられたかのように、ただ後をついて行くしかなかった。
slave(奴隷)という言葉が訛ってスライムになったと昔父のもとにやってきたフクロウから聞かされたことがあった。力の弱いものは強いものに従うことで生き長らえることができるのだと。そのための知性なんだと。
それを聞いた時はそんなことは間違っていると意気込んでいた。そんな自分が薄っぺらに感じた。
僕たちは一瞬で土に還される。そう思うと体を引きづってでもついて行くしかなかった。
しばらく歩くと少し開けた場所が見えた。人間たちはそこで休息をとっているようだった。手ごろな石に腰かけた数は三つ。こちらと同じ数だとイノシシたちは笑った。非力な人間など楽勝だと声を押し殺すように笑っていた。その姿はあまりに無防備だった。
真ん中に腰かけていた男は突然深くため息をついた。その些細な仕草にスライムは警戒心を高めた。
「化け物が不愉快だな」
真ん中に腰かけていた男が射るようにこちらを睨み付けると、イノシシの目を矢が貫いた。
三人は腰を掛けたままだった。
何が起こったかわからずに呆然としていると、もう一本の矢が同じイノシシの喉元に突き刺さった。しかし、これは纏っていた鎖帷子のおかげで体に届くことはなかった。
敵からの攻撃。少し遅れて状況を把握したイノシシたちは大きく声を上げて人間たちに襲い掛かった。
「人間の防具まで身に着けて、まったく不愉快だ」
真ん中の男が立ち上がると右の男と左の女は数歩後ろに引いた。女は少し怯えた表情をしていた。巻き込まれたくない、そんな顔だった。
「案ずるな、アリス。少し剣を抜くだけだ」
男は見透かすように声をかけると、腰に携えた剣の柄を握った。
″光速の抜刀″
一瞬だけ男の手元が光ったように思えた。そして、次には剣を抜いた形になっていた。
「何を……?」
イノシシたちは慌てて急停止をしたが、勢い余って前方に転がった。その体はいずれも上半身と下半身に分かれていた。また簡単に命が奪われていく。その事実を短時間で二度も経験したスライムはやり場のない気持ちで一杯だった。
「まさか国王はあんなものを処分させるために、俺をこんなところまで来させたわけではないだろうな」
男は剣を鞘に戻すと、一瞥もせずに歩き始めた。弓を持った一人が木から降りてくると、それに続いて三人は歩いていった。
(助かった?)
人間たちが奥の方へ姿を消していくのを見て、絶望の淵にいた二匹のスライムは顔を見合わせて安堵した。しかし、その束の間、辺り木々がメキメキと音を立てて倒れ始めた。
二匹は必死に逃げた。かき分ける手がないためにその都度草に体をひっかけながら、小石を大きく飛びよけながら懸命に逃げた。
一本の大きな木が倒れてきた。それに押しつぶされそうになった一匹を助けようと体当たりをしてみるも無様にその体を通り抜けてしまった。
一匹は木の下敷きとなり地面に飛散した。そして、その水滴は動くことがなかった。
「何でこうも無力なのだろう」
光の粒子を目で追いながら、残されたスライムは空を仰いだ。その気持ちを表すかのように、あるいは水を差すかのように一つ、また一つと空から静かに雨が降り始めた。
雨の水分を含んで元の形にならないだろうかと淡い期待をもってその場でしばらく眺めていた。しかし、そんな気配は微塵もなかった。それどころか、次第に強くなる雨に体を膨らませたスライムは命の危険に晒されていた。雨の量によっては致命傷になりかねなかった。雨が生み出す水たまりでさえスライムにとっては天敵となりえた。
散っていった家族を思い、家に残っている家族を思い出した。
スライムは雨で溜まった水を体の外に出しながら家に急いだ。
急いで家族に伝えないと。みんなでここから逃げなければ……
ぬかるんだ地面に足元を取られながらようやく林を抜けた。しかし、目の当たりにしたのは家族と人間たちの姿だった。
「君たちからしたら取るに足らない存在だろう。見逃してくれないか」
「お願いします、せめてこの子たちだけでも」
大きな声が響いた。両親が残った小さな子供たちを後ろに隠していた。それを見ていた中央の男はみるみる顔を強張らせた。
「どいつもこいつも不愉快だな。人間の家族愛でも真似ているつもりか? 今日はつくづく不愉快だ。おい、ブルーノ。散らせ」
「ああ」
一人の大男は背中に携えた、人ひとり分くらいありそうな剣に手を伸ばした。
「魔者は等しく悪だ。すべて処分する」
大男は肩を支点にして勢いよく剣を振り下ろした。
空から岩でも落ちて来たかのような巨大な音がすると、家のあった痕跡は跡形もなく消えていた。
「リュトス、他に魔者の気配は?」
「特に感じないよ、ベル」
中央の男が尋ねると、弓を持った者は早く帰りたいと言わんばかりに首を横に振った。途中で一度目が合った気がしたが、すかした態度のその男は何も言うことはなかった。
「まったくつまらない仕事だったな」
草むしりでも終えたような口ぶりを吐き捨てると、男たちは先ほどまで家があったところを気にせず踏み通って行った。
「どうか安らかに」
唯一、女だけがそこで祈り、手向けの花を添えた。その瞳は涙を溜めているようにも見えた。
スライムはいつの間にか走っていた。逃げるためではない。家族を殺し、その場を踏みにじる男たちに向かってだった。
許さない、せめて一撃。
スライムは女の横を通り抜けた。
手向けに添えられた花が空に舞い、同時に一つの塊が飛び上がった。
「ベル、危ない」
女が声を上げると、中央の男が振り返った。
スライムは捨て身で体当たりをくらわせた。しかし、それは水風船が顔に当たったような些末な攻撃だった。
ベルはスライムを鷲掴みすると、大きく息をついた。
「危ない? これがか?」
ベルは大きくため息をつくと、スライムを近くにある沼へ向かって投げた。そして、剣先を向け、目の追い付かないスピードで切って見せた。
「つくづく不愉快だよ。もはや跡形も残すまい」
切った先から微量ながら電気が走った。そして、次の瞬間狙いすましたようにスライムの元へ雷が落ちた。
そこにスライムの姿はなかった。雷と一緒に沼に落ちたのか、分解、蒸発されたのか、兎にも角にも宣言通り跡形も残らなかった。
「危ないなぁ、こんな近くで感電したらどうするのさ」
「ふん、風で壁を作っていたくせに何を言う。それよりもお前、わざとあれを見逃したな?」
「だって、面倒じゃないか。あんなの一匹のためにいちいち……」
ベルは一度リュトスを睨み付けるとまだ怒りが収まらない様子で、足早に歩いて行った。
残された三人は顔を見合わせ、息をつくとその後に続いて行った。
勇者ベル、大剣のブルーノ、弓風のリュトス、治癒のアリア。彼らの冒険譚はその後世界に響き渡ることになる。
英雄譚としてみれば実に取るに足らない、序章としても扱われないような物語。
しかし、スライムの復讐譚としてはあまりに大きな出来事だった。