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春秋  作者: South.K.Mackenzie
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春の陽気を感じさせる、暖かな日だった。

田畠や農村などを、馬をゆっくりと歩かせながら過ぎて行く。

そこここで出会う農夫に、

「ああ、新太郎どの。今日もいい天気ですな」

とか、

「楠の若殿。ご機嫌はいかがですか」

などと声をかけられるたびに、馬上の若者、楠新太郎は柔和な笑顔でその愛情に酬いた。

やがて民家も人影も絶え、行く先に緑が増え始めたころ、新太郎は街道を逸れ、脇道に入っていった。

小半刻も行くと、緩やかな坂が見えた。地面に向かって斜面を伸ばす小丘であった。馬の足をいくらか速めながら、新太郎は頂上を目指した。

頂上に着くと、馬を自由にし、草を食ませた。自身は丘の展望のよいところに立ち、眼下の景色に眼をやった。

風に靡きながら鮮やかな濃淡を生む草原の向こうに、人の手でつくられた城郭があった。堆く積もれた城壁の中には、人家がひしめいている。新太郎の住まいも、その中の情景のひとつである。

雲ひとつない晴天のもと、こうして遠くの景色を眺めるのが、新太郎はとても好きだった。十日ほど執務に忙殺され、屋敷から一歩も外に出られなくなると、とても耐えられなくなって、こっそり屋敷を抜け出しては、こうして丘の上からの景色を愉しみ、それから屋敷に戻り、近習にひととおり小言を言われるのだった。

人込みに揉まれて市井にいるのは、ちょうど池の中の魚のようで、魚はその池の大きさを測ることはできない。閉じこもってばかりいると、政事を執り行う上で大事なものに、霞がかかって眼を塞いでしまうのだ、というのがいつもの新太郎の言い分だった。

国の太守の、その息子である新太郎にそう言われてしまうと、それまで唾を飛ばしていた家臣が閉口してしまうのも、いつものことだった。もっとも、家臣や近習の言いたいことや心情も、新太郎にはわからないわけではない。

「また、こちらにいらしてたのですか」

背後から声がしたので、振り返ると、男がそこに立っていた。

「あ、庄作か。叔父上がやって来たらどうしようか、と思ってしまったよ」

庄作は、新太郎がこどものころから一緒にいる男で、主従の関係ではあるが、兄弟のような間柄だった。

「兵衛どのは屋敷で、あなたのお帰りをお待ちしておりますよ」

「そうか……叔父上にどう説明すれば、無断で街を出たことを赦してくれるだろうか」

新太郎は困惑の表情を浮かべたが、庄作は無言でかぶりをふった。

「また、高所からの景観をご覧になっていたのですね」

「うむ。他国で起こった出来事を知ると、その度にこうして穏やかな風景を見て落ち着きたくなるのだ」

「存じております」

「臆病なのかな、わたしは」

「失礼ながら、昔からそういう性格でしたよ。それに、こういった物言いはお怒りを買うかもしれませんが、臆病なくらいが、人の上に立つ人間としては、資質としては優れていると思いますが」

「いつもながら、おまえの直言は、聞いていていっそ清々しいな」

平和という現象が、日本の国土全体に浸透し、この大地に住まうすべての人間がその言葉を享受していたのは、いまから五百年も昔のことになる。

その日本を統治していた組織が腐敗し、堕落し、成すべき行政能力が甚だしく低下。天下の権威の行方は市井の庶民でさえも問うようになった。

時代とは、月日の循環するように、古い体制秩序を破壊し得る優秀な指導者、英雄の出現を寂然と待ち続けているものである。

にわかに反抗者が国の腐敗を阻止せんと擡頭し始め、腐りきった役人をことごとく排斥した。実力で天下の覇権を奪い取ってからは、次々に各地の豪族が蹶起を開始。各々独断で国を切り取り、朝廷の支配の及ばぬ独立した国家をつくりあげ、力を蓄えていった。

それはちょうど、日本の統治体制が瓦解する五百年ほど前の、戦国時代という時期の出来事と共通する部分が多い。国家そのものと、それに付随する権力という無形の力の頽廃が、武家と公卿という黴にまみれた様式を眼醒めさせ、天下に争乱の種を撒いたのだ。

で、武蔵野と呼ばれる州の、いち地方の統治を任された父を持つ新太郎の憂慮は、この不安定な世情の中で、なんとか平和を保っているわが国がどうすればその戦禍を免れ得るのだろうか、ということであり、民草に安息と幸福をもたらす治世を提供すべき立場の者から発せられる憂いとしては、疑いの挟む余地のないことだった。

前方に拡がった平野の向こうに、街が見えている。その街から右に視線をずっと移すと、連なった山稜が眼に飛び込んでくる。山と山の間から、朱に染まった日輪が顔を覗かせている。その夕陽が注ぐ光を浴びて、べつのもののように山の斜面が染まった。

その景色を眺めながら、新太郎はふと表現しようのない寂寥感を覚えた。眼下に拡がる原風景が、新太郎の心のどこかにある虚空に触れ、感情を湧き立たせたに違いあるまい。

突如、弓が弾けたように駈け出し、樹に繋いだ馬のところまで行くと、その背中に飛び乗り、

「あの山の麓まで駈けるぞ。ついて来い」

と庄作に向かって言ったのだった。

寝起きに冷や水をかけられたような、呆気にとられた表情の庄作をよそに、新太郎は後ろを振り向くことなく馬を走らせた。

風のように駈けると、景色のすべてがめまぐるしく流れていき、自分の悩みや不安もどこかに置いていけそうな気がした。

山の麓まで行くと、すっかり陽は舂いており、新太郎の足元も馬の足元も、等しく影を長く伸ばしていた。

作が、息をきらしながら、馬にしがみつく恰好でのそのそとやってきた。

「情けない。そんな態では、わたしの従者は務まらんな」

夕陽を浴びながら浮かべる笑顔を、従者の庄作は疲労に満ちた表情で見ていた。その眸には、普段は物静かで冷静なわがあるじにも、こういう突発的な一面もあるのだ、という未知のものに相対した際の、なんともいえぬ驚愕の色を湛えていた。

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