7、溢れ出す
ヒロと明日香に嫌悪感を抱いて、嫌な記憶を思い返した次の日――――
私は寝覚めが最悪な気分で、ひどい顔のまま家を出た。
はー……、気が重い…
私が明日香の話を聞かなければいけないことに暗い気持ちになりかけていたら、事の元凶であるヒロが玄関先で立っていて、更に気分が落ち込んだ。
なんでいるの…
私はヒロの顔なんて見たくもなくて、昨日も晩御飯は一緒に食べなかった。
それだけ徹底的に接触を断とうとしていたのに、ヒロは私の前に立つと怒ったように言った。
「ナツ。昨日のアレはなんだよ?」
「あー…、ごめんね。あれは、ちょっと気が立ってただけなんだよね。忘れてくれていいから。」
私は会話するのも面倒でとりあえず謝罪すると、足をさっさと駅に向けた。
でもヒロは私に追いついて並んでくると、なおも追及してくる。
「気が立ってたって、それ俺が何かやらかしたからなんだろ?何したのか教えてくれよ。」
「ヒロは何もしてないから。私にはね。だから、私が気が立ってたのはヒロには無関係なの。だから気にしないでってば。」
「気になるんだよ!!なんで俺に対してだけそんな冷たいんだよ!!」
冷たいって…
私は怒鳴ってきたヒロに顔を向けると、そう感じさせてしまったのは悪いと素直に謝ることにした。
「ごめん。冷たく接してたつもりはないんだけど、これが私の普通だから。」
「嘘つけ!!元樹には優しいクセに!!」
「元樹って…。それは元樹が人懐っこいから…―――っていうか、ヒロには関係ないよね!?何これ!?前にも似たようなこと言ってた気がするんだけど。」
私はちょっと前にもこうやって言い合ってた気がして、頭を振ると更にスピードを上げて駅に向かった。
するとヒロが私の腕を掴んで引き留めてきて、私はビックリして振り返った。
「今日こそナツの本心聞かせてもらうからな!!」
「ちょっ!?こういうのやめてって言ったのに!!放してよ!!」
「嫌だね!!俺に対して言いたい事あんだろ!?言うまで放さねぇから!」
「~~~~っ!!!!」
私は梃子でも放すつもりのないヒロを見つめて、その横に明日香が浮かんできて昨日の感覚に戻りそうでグッと口を噤んだ。
明日香のことが好きなら、明日香の事だけ気にしてればいいのに!!
もうヤダ!!!
私はまた昨日のように苛立ちが募り我慢ができなくなると、自分の腕を掴むヒロの手を見て、昨日と同じ言葉が口から出た。
「ホントに…無理!!放して!!……っ気持ち悪いから!!!!」
私は心の底からの言葉が出て、それにヒロの表情が固まり掴まれた手が緩むのを感じた。
その瞬間、私はヒロから腕を引き離すと駅まで逃げるように走った。
ひどいことを口にしたと分かっていた…
でも、私は自分が苦しくて仕方なくて、必死に逃げた
ヒロはもう私の知ってるヒロじゃない
私は駅に向かって走りながら、何度も感じてたことを確信に変えて、どうしても嫌悪感を拭えない自分の心に苦しかったのだった。
***
私は学校に着くと、教室には行かずに保健室へと逃げ込んで、妙齢の先生に「気分が悪いので」と告げ休ませてもらうことにした。
少しぽっちゃりした先生は私の顔色が悪いのを見て、色々原因を聞いてきたけど、私は話す気分でもなかったので適当に「寝不足です。」とだけ口にした。
それだけで先生は何かを察してくれたのか、快くベッドを勧めてくれて、気分が良くなったら教室に戻るようにとだけ言われた。
私はそれに頷いて、心地良い空調の効いた保健室のベッドに横になる。
そうするだけで、ふーっと気分がだいぶ楽になり、私はウトウトと目を瞬かせながらヒロの顔を思い返していた。
傷つけた…よね…
でも、ズカズカ私の中に踏み込んでこようとするヒロが悪い…
私は誰にも気持ちを振り回されずに過ごしたいだけなのに
明日香も…ヒロも……、お互いだけ見ててよ…
私はもう二人を見て、腹を立てたりしないから…
初恋が実ったヒロを…笑顔で祝福するから…
私はそう瞼の裏に映るヒロに呟いている内に、気が遠くなって眠りへと落ちていった。
そのとき幼いヒロから「ナツ!!」と呼ばれる声が耳に聞こえた気がして、懐かしさに気持ちが少しだけ温かくなったのだった。
***
キーンコーン………
耳にチャイムの音が鳴っているのが入ってきて、私は眠りから覚めて薄く目を開けた。
そのとき頬を誰かに触られている感触にしっかりと瞼を持ち上げると、目の前に元樹がいて少し心臓が跳ねた。
「あ、目覚めた?」
「………なにやってるの?」
「いや、寝顔が可愛いな~と思って見てただけ。」
「…………、よくそんな恥ずかしい事言えるね。」
私はいつも通りの元樹の社交辞令に少し照れくさくなりながら、身体を起こすと大きく腕を伸ばして背筋を伸ばした。
そして腕を下ろしてから、今が何時間目なのかと元樹に尋ねる。
「元樹、今何時間目の休憩時間?」
「ん?さっき三時間目が始まったけど?」
「…へ?なんて?」
私は元樹がしれっと言ったことに聞き間違いかと再度訊き返す。
でも元樹は悪びれる様子もなく、平然と口にする。
「だから、さっき三時間目が始まったって言ってんだよ。」
「……………、えーっと…、三時間目が始まったって…、なんで元樹はここにいるの?戻らなきゃいけないはずだよね?」
私はどう見ても元気そうな元樹を見て、堂々としたサボりに信じられない。
「俺は二時間も菜摘のいない教室で授業受けたんだぞ!?ちょっとぐらいサボったって許されるね。」
「いやいや、許されないから。私も授業に戻るから、一緒に行こう。」
私はどんな理由だと元樹を怒鳴りたかったけど、保健室だという手前グッと堪えて布団から足を出した。
でもそこに元樹が上から覆いかぶさってきて、足が動かせなくなった。
「行かないでいいって。どうせ体育だし。教室戻っても誰もいねーよ。」
「だったら着替えて早く合流しないと――――っていうか、そこからどいてくれない?」
「ヤダね。俺は昨日から菜摘と話したいこと、すげーあるんだからな。それ聞くまではどかねぇ。」
「話したい事?」
私はふと昨日元樹と帰ったはずなのに、会話の内容を何も覚えていない事に元樹から目を逸らした。
そういえば…、昨日…元樹とどこで別れたっけ?
学校で話をしてたのまでは覚えてるんだけど…、ヒロに会ってから後の記憶が…思い出せない…
私はそこまでヒロと明日香のツーショットに衝撃的だったのか…と、今になって自分の気持ちに複雑な気分で、ヒロのことは自分とは切っても切り離せないのかもしれないと顔をしかめる。
すると、そんな私を見ていた元樹がズイッと私の視界に割り込むように近づいてきて、元樹の不満気な顔が目に入った。
「菜摘、大翔と何があった?」
「え?」
私は元樹にまさに今考えていた事を切り込まれて、声が裏返った。
「昨日、大翔を見てから様子が変だった。大翔と何かあったんだろ?」
「え、あ…別に、何もないよ。ヒロとは昔ほど接点もないし…。」
「隠すなよ。どう見ても菜摘おかしかったし、俺が気づかないとでも思ってるのか?」
元樹はまっすぐ私を見つめてきて、私はその真剣な目に口が滑りそうで視線を逸らすと距離を離そうとお尻を浮かせて後ろに下がった。
「何もないってば。本当にヒロとは、何もない。」
「菜摘。」
元樹は私が話すまで待つ構えのようで、距離を離しても近づいてきて、私は変に動悸がして元樹の顔を両手で押し返した。
「ないから。ヒロのことなんて、私には関係ないし。―――あと、近い。嫌がることしないって約束したばっかだよ?」
元樹はそのあとしばらくじっとしていたけど、急に私の手を掴んで自分の顔から引き離すと、その手を引っ張った。
私は引っ張られたことで身を前に倒して、元樹と顔がくっつくほど近くなって目を剥く。
「あと、これも聞きたかったんだよな…。」
元樹は至近距離で私を見つめたまま、驚くことを聞いてきた。
「菜摘、俺の事…、好きだろ?」
!?!?!
「……好きじゃない。」
私は一瞬息が詰まったけど、黙ってしまうと肯定することになるのですぐ否定した。
でも元樹は何か確信があるのか、少し眉間に皺を寄せて言った。
「こんなときまで意地張るなよ。どう見ても今までと反応ちげーし、俺の事意識してるだろ?」
「してない。あり得ない。」
「菜摘。正直になれよ。」
「ないから!!私に恋愛なんて必要ない!」
私はこういう状況になってる自分が嫌で、元樹に掴まれた手を引き剥がそうと暴れた。
するとそれを元樹の力で押さえつけられて、私がそんな元樹を睨むと元樹が言った。
「そんなの俺がぶち壊してやる。」
「は?」
元樹は怒ったように吐き捨てると、私に顔を近づけてくるのが見えて、私は咄嗟に目を瞑ると下を向いた。
そのときすぐ傍でバンッ激しい音がしたと思ったら、耳に第三者の声が聞こえた。
「保健室で盛ってんじゃねーよ。先生がいないのをいいことに…、外から丸見えだぞ。」
私はその声にビックリして窓の方を見ると、いつ窓が開いたのかヒロが体操服姿でこっちを覗き込んでいて、すぐ前では元樹が頭の片側を押さえて蹲っていた。
「――――っ!!何すんだよ!?お前、これわざとだろ!!!」
元樹は乗り上げていたベッドから下りると、どこからかボールを手に窓際に寄っていって、私はあの音はボールが元樹に当たった音だったのか…と理解した。
「手が滑っただけだっつーの。悪いな、邪魔したみたいで。」
「ご丁寧に窓開けて、手が滑るわけがねえだろうが!!!お前は昔っからいけすかねぇんだよ!!」
「はいはい。どう思ってもらってもいいけどさ、体育の……えーっと、山路センセイから『サボる奴にはペナルティ三倍だ』ってさ。伝えたからな。」
「は!?三倍!?!?!」
元樹はヒロから話を聞くなり、身を縮み上げると名残惜しそうにこっちを見てから、「また後で!!じっくり話すからな!!」と言い残して保健室を飛び出していった。
そのときにボールをヒロに投げていて、微妙に睨みあってたようだった。
そうして元樹がいなくなったことで、窓越しのヒロと二人にされ、私は朝の気まずさからじっと黙っていた。
ヒロはこっちに背を向けたものの、立ち去る気配がなくて、息苦しさから私も授業に行こうかと考えた。
すると、そこでやっとヒロが口を開いてきた。
「ナツ、………元樹と付き合うのか?」
「え…?」
私は朝の事に何も触れないヒロが不思議で、少し困惑しながら答える。
「付き合うなんてあり得ないよ。私、恋愛に興味ないから。」
「は?」
ここでヒロが振り返ってきて、私はヒロの顔を見ただけで微妙に胸の奥が苦しくなって、サッと目を逸らした。
「興味ないとか…、どう見てもナツは元樹のこと意識してるだろ。」
「………なんでみんなそういうこと言うの?私にはそんなの必要ないんだってば。」
私はイライラしながら、元樹にも言ったことをヒロにも告げる。
それにヒロは顔をしかめながら、窓から身を乗り出してくる。
「ナツ。必要ないとか…、なんで自分を追い込むようなこと言うんだよ。」
「追い込む?」
私は呆れたようなヒロの言い方にカチンときて、ヒロに目を向けた。
ヒロはまるで可哀想な人を見るかのように私を見て言う。
「だってそうだろ?普通誰かに好意持たれたら嬉しいし、気を許したくなるだろ。それなのにナツは近づく奴をここまでだって壁作って突っぱねてる。まるで自分を一人にして追い込みたいみたいに。そんなのおかしいだろ?」
私は上から諭してくるヒロを見つめて、脳裏に何も言わずにいなくなったヒロとの別れの日を思い出してしまった。
それをきっかけに今まで胸に留めて、誰にも言えなかったことが口から零れる。
「……いなくなるでしょ…。」
「は?」
私は呆けたヒロの顔を見つめたまま、まるであのときにタイムスリップしたみたいな感覚で、言いたかったことが溢れてくる。
「こっちがどれだけ相手を思ってたって…いなくなるでしょ?それなら、最初からそういう関係にならなければいい。」
「ナツ?いったい何の話――――」
「いなくなったクセに!!」
私はいつの間にか目の奥が焼け付くように熱くて、目の前が潤んでいた。
だから手の甲で目の前を拭って、驚いた顔をしているヒロを睨むと言った。
「先にいなくなったのはそっちのクセに!!!急に戻ってきたと思ったら、私の中に土足で踏み込んできて…!!やっとの思いで一人で立てるようになったのに……。」
私はギュッと手を握りしめると、その甲に涙がポタポタと落ちるのを見て、ベッドから下りた。
「もうイヤだ…。」
私はヒロにまた会えて嬉しかったはずなのに、ヒロを前にすると気持ちがグチャグチャになってしまう自分が嫌で仕方なかった。
もうあのときのように子供じゃない
ヒロがいなくなったのにはちゃんと理由があるって…分かってるのに…
どうして八つ当たりのように怒鳴ってしまうんだろう…
私はこれ以上一緒にいるともっと言いたくない事を言ってしまいそうだったので、ヒロの前からいなくなろうと保健室の扉に向かった。
けれど、扉に手をつけたところで私は押し倒すようにヒロに強く抱き締められて、その場に腰を落としたのだった。