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目を覚ます。
怖くてまぶたを開くことができない。
誰かの話し声が聞こえる。
いろんなことが起こり過ぎて、誰の声だったか思い出せない。
声が聞こえなくなるまで待とう。
誰もいなくなってからこっそりと起きよう。
今までのわたしなら、そうしたかも知れない。
でも、もう違う。
わたしは、生まれ変わったんだ。
まぶたを開く。
白衣を着たお医者さんと俊介が、わたしを見てびっくりした。
いくつか面倒な検査を終えたのが三日後。
わたしは無事に退院することができた。
迎えに来た、って言ってくれた俊介は、右手で由利を握っていた。
わたしは彼の頬を思いっきり殴ると、呼んでおいたタクシーに飛び乗って運転手に行き先を告げた。
「○○駅までお願いします」
運転手さんは笑顔で頷いた。
タクシーが動き出すと、運転手さんは気さくに話しかけてくれた。
「お見舞いの帰りですか?」
「いえ、今日退院なんです」
「へえ、とてもそうは見えませんね。すごくいい顔してますよ」
「ありがとうございます」
しばらく間を置いてから、運転手さんが鼻をすすった。
「あ、すいません。いや、気を悪くしないで下さいね?お客さんを見てたら、夕べ死んじまった近所の野良猫のこと思い出しちまって。白い、綺麗な毛並みのヤツなんですけど、近所のガキどもが無理やり遊ぼうとするもんだからなかなか懐かなくって。そんなもんだから常識の無いガキが苛めてねえ。年中傷だらけだったんですけど、最後にはウチの前で丸くなってましてね。しばらく生死の境をさ迷ってたらしいんですけど、どっかで決心がついちまったんでしょうねえ、ふらりと逝っちまいましたよ」
呼吸を整えながら、相槌を打つ。
「へへ、なんだか、お客さんを見てたら思い出しちまったんですよ。なんでですかね。すいません、変なこと話しちゃって」
「きっと、幸せだったと思いますよ、その子。運転手さんみたいな人に気にかけてもらえて」
「へへ、ありがとうございます」
信号が赤になった。
運転手さんは静かにブレーキを踏んで、目元を拭った。
コンビニと自販機の間に、そのお店はあった。
小さなシャッターは閉じてしまっている。左右から必要以上に照らされ、眩しいのかも知れない。
ショウケースの中はすかすかで、寂しい。日焼けした、銘柄と値段の書かれた紙と、使い古された質素な灰皿だけが置いてある。
「もうこの店は開かないよ」
後ろからいきなり声を掛けられた。振り向くと、頭の禿げかえったお爺さんがガードレールに座っていた。
「婆さんが独りで頑張ってた店なんだけどね、三日前に息を引き取ったよ。もう何年も寝たきりでねえ、何を言っても応えてくれなかったから、申し訳なくなって逝ってしまったんだろうよ」
お爺さんの目から、大粒の涙が流れた。
「わしが店を継いでもいいんだけれどね、コンビニや機械ほどは働けないし、潮時かと思ってね、店を閉じたんだよ。
・・・何より、あいつの生き甲斐だったからねえ。一緒に終われる方が、あいつも向こうで気兼ねなく店を開けると思ってねえ」
お爺さんは遠い目をすると
「一緒に終われるこいつを、うらやましいとさえ思うよ」
呟いて、唇を噛み締めた。
わたしはお店に手を合わせた。心の中で何度も「ありがとう」を繰り返した。
そんなわたしに、お爺さんは震える声で
「ありがとう」
と言った。
川を凪ぐ風が、夏の訪れを伝えていた。
沿道を包むように並んだ桜並木は青々とした葉を湛え、威勢よく空を撫でている。
防波堤に女の子が座っている。モノトーンに身を包んだその子は、ポケットからタバコを取り出し、気を紛らわすように吸い始めた。
あの人と同じ銘柄だった。
ゆっくりと歩み寄る。
彼女の顔がはっきりと見える位置に来たとき、彼女が勢い良く振り向いて、わたしに向かって訊いた。
「先生?!」
しかし、わたしが先生でないことを知ると、また物憂げな表情でタバコを咥えた。
彼女の隣に腰を下ろす。
「先生って、設楽先生?」
彼女・・・つぐみさんは自嘲気味に微笑んだ。
「知ってますよね。有名な現場だもん。
先生はここで、ドジ踏んだアタシを助けようとして、足を滑らせて、頭を打って・・・」
言葉に詰まったのを、タバコを吸う事で隠蔽している。
「今も、意識不明の重態。アタシは天才作家の代わりに助かってしまった、女子高生より天才の命のほうが重いのに、って、ネットでも散々言われてます」
「それで、タバコを?」
「ぐれて、ってことですか?」
彼女は笑った。
「違います。先生が戻ってきてくれたら、一緒にタバコを吸いながら話したいな、って思ったんです」
つぐみさんは水面に視線を落とした。
「今は学校を辞めて、バイトをしながら執筆の真似事をしています。先生が帰ってきたら、書生にしてもらうつもりです。それがもし叶わなかったら、先生を越える作家になってみせます」
「・・・そう。頑張ってね」
「ありがとうございます」
「ねえ」
「はい?」
「一本、いただいてもいい?」
彼女はまた笑うと、「家に予備がありますから」と言って、まだ十本くらい入っている箱ごとわたしに渡した。
わたしは丁寧にありがとうと言って、立ち上がった。
それきり、振り返らず沿道を歩く。
つぐみさんからずっと離れたところで、ふと足が止まった。
タバコを一本取り出して、鼻に近づける。
懐かしくて、優しい匂いがした。
「ごめんなさい」
呟くと、涙が流れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
涙が落ちて、箱に“新しい”染みを作る。
「ごめんなさい・・・みんな・・・ごめんなさい・・・」
箱を握る。
わたしにできるだろうか。
つぐみさんのような生き方が。
先生のような生き方が。
いや、しなくてはならない。
ううん、できる。
先生に貰った優しさを胸に、わたしは明日からも生きていく。
夏の風が、わたしの頬をそっと撫でた。
雨が降ったら
あの人のことを思おう
きっとまた
ひとりで泣いているだろうから
雨が上がったら
あの人のことを思おう
ああこれで
また笑えるんだと喜ぼう
窓の外で雨が降っている。
耳障りなだけだったそれも、今は意味合いが違う。早く止め、と心のどこかで思うようになった。
気持ちや祈りで、人の心や運命が変わるなら世話は無い。
それに、落ち着いて考えれば、どうにもならないから祈るんじゃないか。せめてもの気休め、もしくは自分が許されるために。見たことも無い誰かにすがるんじゃないか。
でも、それでもいいと思う。行為自体は鼻を摘みたくなるようなことだけれども、そうすることで次の段階に進めるのなら、どんどんやるべきだ。
誰かの背中を押す。
誰かに背中を押してもらう。
誰かの悩みを聞く。
誰かに悩みを打ち明ける。
どれも簡単なことじゃない。
だからこそ、進んでその中に身を置くアンタを、私は誇りに思う。
今度こそ、きっと、雨の日に傘を持ってくる人じゃなく、一緒に濡れてくれる人が見つかるよ―
インターホンが鳴った。
ペンを置く。
「いらっしゃい」
私はタバコを消して、頬を叩いてからドアへ急いだ。
読んでいただき、ありがとうございました。
つたないところもありますが
少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
本当にありがとうございました。