#5
軒下で雨をやり過ごそうと膝を抱えていたら、隣のボロ屋から黒ずくめの女が出てきた。
あの女、見たことがある。街の中を闊歩しては、出会った人間を手当たり次第に消してしまう手品師だ。悪魔、って気はしない。天使ってわけでもないけどな。アレは人間だ。オレの直感はよく当たるんだ。
後ろ手に戸を閉める女と目が合った。オレは知らんぷりして向けていた片目を閉じ、狸寝入りをする。
女がどこかにいってくれるよう、祈った。他人は苦手なんだ。
しかし願いは届かなかった。女はこちらに歩み始める。
オレは気転を効かせ、今度は何もせず何も言わず通り過ぎてくれることを祈った。
でも、それも叶わなかった。女はずうずうしくオレの隣で膝を曲げ、それを抱えた。親に怒られた子供が拗ねるポーズにそっくりだ。
―ま、関係ないけどな
そう、関係ない。特に言いたいこともないし、聞きたいこともない。それは女も同じはず。そもそもこの女はオレの言葉に耳を傾けないはずだ。なんのことはない。いつも通り、無関係を装い、そうあり続ければいいんだ。時間がなんとかしてくれるさ。
だが、女は不躾にも、オレの頭を撫でた。泥水で汚れ、くすんでしまったこの頭を。
「あなたも、この街に来たんですね」
のほほんとした顔でそんなことを言いやがる。背のわりに小さい手のひらは、泥でべとべとになって気持ち悪いくらいだろうに、奇特なヤツだ。
「好きですか?この街」
街は大概嫌いだ。良識を知らないムジャキな子供、ストレスとジレンマで暴走するおっさんやおばさん、オレみたいなヤツを目の敵にしてくる頭の悪そうな団体。心休まる場所なんてありゃしない。ま、実家を追われた時点で、安らぎを求めるのもお門違いな話なのかも知れないが。
「私は、嫌いなんです」
私「は」、ってことは、やっぱりオレの顔色なんか伺っちゃいないってことだな。ったく、せっかくさりげない合図を送ってやったってのに、無駄に終わっちまったじゃねぇか。
女は雨を眺める。人間が雨を眺めるときは、大体寂しいときだ。
「私は、なんでこの街に来たんでしょう?」
問いかけだろうが何だろうが、一貫して無視だ。話を誰かに聞いてほしいわけじゃない。為になるアドバイスなんか求めてない。こういうヤツらは、ただ言いたいだけなんだ。相槌のひとつだって邪魔になるだけだ。聞き流せばいい。それが礼儀ってもんだ。
「よかれと思ってやったことが全部裏目に出て、とうとう体に限界が来て。一番疲れているはずなのに、まだ一番歩いている。余計なことをたくさんしながら」
耳の裏が痒い。
「ふふ、善行なんて自分のためっていうのは本当なのかも知れませんね。ああ、また一人助けた、と胸を撫で下ろした瞬間、すぐに胸が詰まるんですから。この街で感じられないなら、幸せなんて、本当は世の中には無いのかも知れませんね」
馬鹿らしい。
人間、いや、生命ってのは本来利己のために生きるもんだ。勘違いして欲しくないのは、優しさとか情けとか、そういうものが要らないって言いたいわけじゃない。それが自分の決めた道、自分の行き方を決めるほど大切なものなら、迷うことなく突き進めばいい、ってことだ。
オレの親がそうだった。オレが生まれて間もなくいなくなってしまった親父の代わりに、お袋はそれこそフンコツサイシンの覚悟でオレを育ててくれた。家を追い出されたときも、ガキどもに絡まれたときも、オレだけは無傷で逃がしてくれた。
そんな生活の果て、お袋はずいぶん前に先立った。そりゃあ悲しかったけど、可愛そうだなんて思わない。お袋は公言通り、オレを一人前に育ててから逝った。タイガンジョウジュってやつだろう。命よりも誓いを優先して、懸命に人生を駆け抜けたお袋を、オレは本当に誇りに思っている。そんなお袋をずっと眺めてきたから、オレは独りになってから叩かれ続けても生きてくることができた。
自分で歩くと決めた道。イキヨウヨウと歩き始めた癖に、道半ばで疲れたから世界のせいにして自分はよくやった、なんてご都合主義、しみったれた神様が許してもオレが許さない。泥だらけになって傷だらけになって、何か一つでも成し遂げて、それから死ね。
そう目で言った。
女はこちらを見ない。さっきからずっと、馬鹿みたいにオレの頭を撫で続けている。頭皮が熱を持ち始めやがった。
馬鹿女が。・・・いや、馬鹿なのはオレのほうか。ショシカンテツ、感情など寄せず、無視を決め込んでいればいいんだ。
「ふふ、ごめんなさいね。突然つまらない話を聞かせてしまって」
つまらなく、は、なかった。あまり長い人生でもなかったけれど、思う存分振り返ることもできたし、自分の生き方を再実感することもできた。
この馬鹿女も、少しは気が晴れただろう。
人生は長い暇つぶし、そう悟ったふりして開き直って全部を前向きに諦めるヤツがいるらしい。
そういうヤツらこそ馬鹿としか思えない。生命に限りがあることなんて皆知っている。その短い人生に一つの意味も見出せないのなら、何もするべきではない。道路にでも古井戸にでも飛び込んでさっさと死ねばいい。
女は立ち上がった。
そうだ、その澄んだ顔のままどこかに行ってくれ。オレはわかるんだ。もうオレに残された時間が長くないことが。降ったり止んだりを繰り返してきた味気ない雨。この雨が降り止むのを見ることは無いだろう。視界もぼんやりしてきた。頭以外は寒くて仕方がない。
「やると決めたらやりきらないと、ですよね。もううじうじ悩む時期は終わりましたから」
首の位置を変える。わかったから失せろ。
「君と、あと一人。それで私の仕事も終わり」
溜息交じりの声は震えていた。
―・・・まあ、そうか
部を越えたことをしようとするなら、それだけ強い覚悟と意志が必要なんだ。そう、お袋みたいに。
仕方ねぇな、一声だけかけてやろう。同情でもなんでもない、素直な気持ちを一度だけ投げてやろう。石を投げられても、耳を掴まれても、尻尾を引きちぎられそうになっても何も言わなかったオレが口を開くんだ。光栄に思え。
―ま、頑張りな
「にゃあ」
「まあ、可愛い声で鳴くんですね」
女はもう一度オレの頭を撫でると、
「お疲れ様でした」
オレを消し始めた。
体が軽くなる。体の傷が癒えていく。今まで足を引きずりながら歩いてばかりだったから、とても心地いい。天にも昇る気持ち、いや、正にその準備、または途中なのだろう。
もし生まれ変われるなら、あの女のような馬鹿に生まれたい。できることなら、あの女の代わりをしてやろう。
女がいなくなると、女が出てきたボロ屋へ別の女が向かった。
女の言ってたことを鵜呑みにすると、きっと、アイツが最後の一人だ。間抜けそうなツラのくせに、深刻そうな表情をしていやがる。
―何かの縁、だな。お前も頑張れよ
できるだけ大声で言った。
女が振り向く頃には、オレはすっかり消えていた。