#4
こんな馬鹿なヤツがいるのか。
そう思ってくれてかまわない。
彼女は、周りの評価こそいまいちだったけれどかなり魅力的な人だった。何といっても笑顔が素晴らしい。天使と形容したってけして大げさではない。声は高貴な楽器を連想させるし、言動は無垢な子供に似ている。簡単に言うと、惚れ込んでいた。恋愛に勝ち負けがあると仮定したとき、惚れた方が負け、という通説に則るならば、ボロ負けだ。
出会いが強烈だった。大学にいた時分、通路で友人らと他愛もない会話をして時間を潰していた。その最中、些細なことで友人のひとりがぼくの背中を押した。ぼくはバランスを崩し、窓際にふらふらと移動した。この時、偶然進路上にいたのが彼女だった。でも、この時点ではまだ赤の他人。ぼくは迷惑をかけまいとなんとか両手を窓に付くことで直撃を避けた。「すみません」と言いながら顔を上げると、目の前に彼女がいた。その状況は、気障な男が恋人にキスをする状況に酷似していた。
それから二人の仲は急接近した。実は同じ学科で同じ学年だということが判ると、名前を聞き、携帯番号とメールアドレスを交換した。暇なときを探しては彼女に連絡をしたし、彼女も同じようにぼくとの交流を求めた。彼女から連絡がくればどれほど忙しくても返事を返した。お互いが一方的に断ったことは片手分ほどもない。これがその年の春の話。
この夏が、ぼくの人生でもっとも輝いていた時期だ。海、山、祭り、花火。二人だけで、というわけにはもちろんいかなかったが、腹が痛くなるほど笑いながらいろんな経験をした。
たくさんのことを話した。彼女が実は母子家庭だということ、まだ離婚後の問題で両親が揉めていること、去年度に内定を貰った出版社でバイトをしていること、サークルの連中がちょっかいを出してきて迷惑していること。深刻なこともくだらないことも、仲間の輪をこっそり離れては語り合った。何より驚いたのは、二人が恐ろしく正反対だったことだ。例えば、ある事件のことをニュースで知ったとする。そのことについて語り合うと、ほとんど間逆の意見が飛び交う。分かり合えることは少なかったが、それが新鮮に感じられて、半袖でいると肌寒さを感じる頃には、議論が朝を迎えることも珍しいことではなくなっていた。
秋、ぼくは彼女に告白をした。手応えもあったし、何より彼女を愛していた。学生の身分で生意気だと思うが、結婚することも考えていた。それくらい、真剣に彼女を想っていたのだ。
「付き合おう」
そう電話越しに伝えると、彼女は難色を示した。意外だった。てっきりぼくは、彼女に愛されていると思っていたのだ。
「ちょっと考えさせて」
早めに切り出された折衷案に、ぼくは力なく頷いて電話を切った。
秋の夜長、一人きりの部屋でタバコを吹かして反省会を開いた。
真っ先に思い浮かんだのは、彼女がぼくのことを友人としてしか見ていなかった、つまり恋人としての魅力に欠けていた、ということだった。ライクではあるけれどラブではない、というやつだ。だとしても、ぼくは彼女を愛してしまった。この気持ちに嘘をついて生きていくことは、もうできない。
そこまで考えて、ふと胸に暗雲が滑り込んできた。物事は全て、リスクとリターンによって成り立っている。トスしたコインが表を向いてくれれば万々歳だが、裏を向いてしまったら、もう彼女とは連絡が取れなくなるだろう。いや、もし彼女が望んでも、ぼくがそれを許さないはずだ。実らない恋を諦めて、いずれ他の誰かと愛を結ぶ彼女のそばにいるなんて、ぼくには考えられなかった。
彼女がいなくなる。それはつまり、今のぼくの生活の根底を覆す、ということだと気がついた。気がついてしまった。気がついたときには、再び彼女の番号を呼び出していた。
コール音が二回鳴って、彼女が出た。平然を装う彼女の声がぼくの胸を一息で絞り上げた。
「ごめん、何度も」
「ううん、何?」
「あの、さ、さっきの告白、やっぱり無し」
「え・・・」
無感情で無意識のリアクションにぼくは慌てた。
「いや、今ご両親のこととかで大変だよね。そういうの考えないで自分勝手に告白とかしちゃって、その、ごめん」
彼女は怒鳴った。
「何、それ。こっちだって真剣に考えてるのに、怖くなって独りで勝手に逃げるようなことしないで!」
無機質な音を立てて電話は切れた。
一緒に、ぼくたちの付き合いも切れた。
電話はもちろん、メールも送れない。返信されないとわかっているメールを火急の連絡以外で送る人は稀だろう。
今まで通り友人に混じって遊ぶときも、二人はほとんど対角線を維持していた。彼女とたまたますれ違っても、わざと意識して顔を反らす。そんな日々がしばらく続いた。
会えない時間が愛を育てるのだと、誰かがカラオケで歌っていた。
彼女のことが好きだという気持ちは変わらない。それどころか、彼女をいたずらに傷つけ、怒らせてしまったことに自責の念を抱き、押し潰されそうになっていた。恐れて逃げるようなことをしなければ、いや、もっと決意を持って告白していれば。ああでもないこうでもないと頭を掻き毟る日々が続いたが、出会わなければ、好きにならなければよかったとは一度も思わなかった。
しばらく経ったある日。ぼくは別の女性に声を掛けられた。同じ学科で遊び仲間、名を由利と言った。彼女はぼくの袖を引っ張ると、人通りのない影に連れて行った。
彼女はなんだか思いつめた表情で、しきりに辺りを見回していた。その行動が、ぼくの中に望んだような望んでいないような淡い期待を植えつける。
「ねえ、アイツと付き合ってるの?」
触れられたくない話題を出され、ぼくは苦笑いを浮かべた。
「この前フラれたよ」
「あ、そうなんだ・・・」
彼女の顔は随分と落胆していた。それを演技だと思ってしまうほど、当時のぼくは参っていた。
「あ、あのね?」
「うん・・・」
二人の間に妙な空気が漂い始めたとき、突然誰かが彼女を突き飛ばした。
湿気で薄く濡れていた芝生につんのめる由利。呆然と見守るぼく。その間に、ぼくが思いを馳せた彼女がいた。肩で息をして、物凄い形相だった。
彼女はぼくの手を取ると、一目散に走り出した。人で溢れた廊下を駆け抜け、退屈そうな恋人たちが語り合う階段を駆け上り、ゆるい太陽が立ちすくむ屋上に辿り着いた。
彼女はぼくの手を離すと、ここまで来たそのままのスピードでフェンスまで進んだ。
金網を掴んで、肩で息を整えると、彼女は天を仰いで
「鈍感!」
と叫んだ。
それがぼくのことを言ったのか、それとも自戒だったのかはわからない。とにかくぼくたちは、その日からようやっと交際を始めた。
好きになった人間が、付き合ってみたらとんでもない人間だった。
よく聞くありがちな話だが、味わったのは初めてだった。
彼女と付き合っていくのは大変だった。
自慢ではないけれど、人より恋人の数は多いほうだと思う。それなりに経験もしてきたし、知識も引き出しもある。だから恋愛くらいで落ち込んで、ベランダで干される布団みたいな格好をしながら厭世的に溜息だらけの紫煙を漏らす、なんてことは一生ないと思っていた。
彼女はまず、ぼくの健康を気遣う、という建前でタバコを禁止した。「お互いの意見を尊重」したいらしいが、じゃあぼくがタバコを吸う自由はどこに行くんだよ、と思った。しかし喫煙者が世間的に迫害されている今、ぼくの意見はただのわがままにしかならなかった。結果、ぼくの部屋にあるライターと灰皿たちは、それぞれに少しだけ秘めた淡い思い出と共に燃えないゴミの日にまとめて放り捨てられた。
そして、わかっていたことだけれど、やっぱり彼女とはとことん趣味が合わなかった。例えば映画では、ぼくは細部にまで日本人独特の表現が散りばめられた邦画が好きなのに対し、彼女は甘い言葉とストーリーと字幕が並ぶ洋画を好んでいた。初めこそぼくも譲ってはいたが、どうしても観たい作品があったときは彼女を引っ張っていこうとした。受付のフロアで怒鳴りそうになったくらいだ。しかし彼女は「そ?じゃぼくはこっち」と言って別の映画のチケットを買ってさっさとシアターに入ってしまった。ぼくが彼女の性格を本格的に疑い始めたのはこの時からだ。
極めつけはその束縛だ。しかもそれは緩急が激しかった。携帯電話の着信履歴や受信履歴、送受信したメール、そして週に一度のメモリチェック。ここまで来るともう監視だ。
そのくせ、当の本人は神出鬼没だ。いきなり連絡が取れなくなったり、学校を休んだり、デートの約束をすっぽかされることもあった。
段々と初心を忘れ、ギスギスし始めた二人の間に、今日の昼間、ダメ押しの一点が入った。
彼女は久々に来た由利からのメールを見つけると、かんしゃくを起こして怒鳴り散らし、テーブルを蹴っ飛ばして部屋を飛び出して行ってしまったのだ。なんのことはない恋愛の相談なのに、「そういうのが浮気の火種になるの!」とへんてこな理屈を言い捨てて。
何処に行ってしまったのかわからない。当時、ぼくの心を占拠していたのは「これで今日始めてのタバコが吸える」という安堵だけだった。
二本目を吸い終えると、ぼくは由利に返信を打ち始めた。
由利はあの日も、ぼくに告白をするわけではなく、恋愛の相談を投げるつもりだったらしい。それは今でも細々と続いている。もっとも、誰かさんがいないときに限った話ではあるけれど。
そういえば、あの時どうして彼女が飛び出して来たかが最近わかった。彼女はぼくが煮え切らない電話をした日以来、ぼくのことを付け回していたらしい。聞いたときは「そこまで愛されている」と思ったものだけれど、今となってはぞっとしない話だ。
あの時、彼女の思いに感動ではなく恐怖していたら、ぼくの生活はもっと有意義なものになっていたに違いない。透明な短い鎖に繋がれたそれではなく、帰る巣がある鳥のような生活が送れたに違いないのだ。
無難な回答を十行ほど入力して、送信。ボタンを押した指はそのままタバコを求めた。
由利に愚痴は吐かない。彼女はぼくのことを信頼してくれているから、弱い部分や汚い部分は極力見せたくない。
それはきっと、「自分はスマートに恋愛をしている」と思って欲しいのだと思う。ただの友達にすら弱みを見せられない、小物らしい小さな器にすっぽり納まった、小さなプライドだ。
三度煙を吐くと、申し訳なさそうに雨が降ってきた。
以前のように、部屋で吸うことも考えたけれど、彼女が戻ってきたときにまたキレられては面倒だ。ぼくは舌を打つと、携帯灰皿にタバコを押し込んで、カンパニュラのプランターの裏に隠した。
ソファに腰を下ろし、大きく背中を預け、何もない天井を見上げる。
頭に浮かんだフレーズのことを考える。
好きになった人間が、付き合ってみたらとんでもない人間だった。
これだから恋愛と女は苦手で嫌いだ。清んだ響きの言葉のわりに、その中身は、好意という定数から、不平不満や理想を妥協という補正を加えながら引いていく作業に他ならない。無意味で無駄な計算を解いていくうちに、答えがマイナスにならないように苦悶して、その影響で滅入る。全く以って徒労だ。そう判っているのに、また恋に落ちて堕ちてしまう。
人を見る目が無いのではない。
人間なんてものは大概そういうものなのだ。
決めた。
もう恋は止めよう。
結論と同時に溜息を出すと、携帯が勢い良く震え出した。この無神経な音に比べたら、雨音はさながらクラシックだ。
メモリに登録していないので名前は出ないけれど、見慣れた番号だった。これは由利だ。先ほどのメールの内容に疑問点でもあったのだろうか。
違う。
由利はぼくの彼女が、自分以外の女と携帯を使って連絡することを毛嫌いしていると知っている。にもかかわらずの電話。
妙な胸騒ぎがして、ぼくは手早く携帯を開いた。
「もしもし、どうした?」
「悪い知らせ」
沈んだ声。
焦りと恐れに浸りきった、心臓が縮まる声。
「七海が倒れたって」
ドラマでしか観たことのない機械が、七海の枕元で意地悪く鳴いている。
「オレが鳴り止んだら終わりなんだぞ」
軽快な電子音が鳴る度に、そう言われている気がする。
七海は重度の呼吸障害を生まれながらに持っていたそうだ。驚いたことに、由利はそれを知っていた。彼女は普段行かない、車通りの多い道で排気ガスを大量に吸ってしまった。そして運の悪いことに、マナーの守れない喫煙者の吐いた煙が彼女の肺を直撃した。
彼女は街中で昏睡。通りかかった老婆が救急車を呼んで、救急隊員が携帯電話の着暦の最上段にある由利を呼んだ、ということだそうだ。
この突発的な状況で
ぼくは
予想以上に
冷静だった。
腕を組んでパイプ椅子にもたれ、強く短く息を吐く。
七海はとりあえず無事だ。こうして生きている。医者の説明はよくわからなかったけれど、とりあえず命に別状が無いことはわかった。ただ、意識はいつ戻るかわからない。この二点がわかれば充分だ。
暗い廊下から、由利が顔を出した。
「意識、戻った?」
ぼくは首を振る。
由利は溜息で一拍置いてから、わざとらしく腕時計を見た。
「帰ろう。面会時間終わるよ」
ぼくは無言で立ち上がった。由利もぼくを見ることなく、そそくさと歩き出す。その後ろを程よい距離を置いて追う。病室の扉を後ろ手に閉め、振り返らないようにして不気味な廊下を進んで似たような階段を降りた。
広いロビーで、由利が「何か飲む?」と大声で聞きながら自販機へ進んだ。ぼくはコーヒーを注文しながら、玄関へ進んだ。
病院に入るときに見つけておいた、屋根の下のベンチに腰を下ろす。携帯灰皿、タバコと取り出し、ライターに手を掛けたところで由利がやってきて、溜息をぶつけてきた。
「まだ懲りてないの?」
かまわず火をつける。彼女が突きつけてきた黒い缶のコーヒーの封を開け、喉に流した。思いのほか、口の中は乾いていた。
由利はレモンティーを少し飲むと、ぽつりと零した。
「タバコ、止めなよ」
「何、それ。七海の差し金?」
「街でアンケート取ったら、十割近く私と同じこと言うと思うよ」
「憶測で物を言うなよ」
「憶測を真実に変えるだけの自信があります」
ぼくは鼻で笑った。
由利は喉を湿らせる。
「先天性呼吸障害のこと、本当に知らなかったの?」
「言ってこなかったし」
言って、そうだよ、と思った。
「七海はそんなに大切なことをぼくに言わなかった。頭ごなしにタバコを止めろって言うだけだった。物事は多方面から見ないといけない。ぼくにとって、タバコは息抜きなんだ」
「訊かなかったの?」
由利の声は、喉と裏腹に乾いていた。
「付き合うときに、いちいち障害はありますか?って訊けって?」
「何でそこまでタバコが嫌いなのか、訊かなかったの?」
「タバコが嫌いなのは特別なことじゃない」
「私が言いたいのはそんなことじゃない」
由利は腰を浮かせ、ぼくを正面に見据えた。
「七海の昔の事とか、知らないでしょ?七海の前の彼氏がね、すっごく女にだらしのないヤツだったんだって。トラウマ、って言うのかな。不安になっちゃう気持ちもわかってあげてよ」
ぼくは無言でタバコを吸う。
「虐待されてたことは知ってる?七海の背中、見たことある?お父さんにやられた傷跡がたくさん残ってる。タバコの火種を押し付けられたんだって」
最後の一言で、煙が一気に不味くなった。
「そんな七海が、なんで喫煙者で、自分勝手な俊介に惚れたと思う?」
小さく首をかしげた。
「本人も同じリアクションしてた。恋愛っていうのは理屈じゃないんだね。二人を見てると、改めてそう思えちゃう」
「何だよ、それ」
ぼくはタバコを捨てる。
由利は相変わらず真顔で言った。
「七海の愛は一方通行だったんだな、ってこと」
「・・・」
「俊介も惚れてたんじゃなかったの?なのに、七海のこと、何も知らない。名前と顔と、嫌いなところくらいしか覚えてない。どんどん嫌いになってるのに、何で付き合ってるの?何で、病院に来たの?」
「由利にはわからないかも知れないけれど」
コーヒーの苦味はタバコの残り香とよく合った。
「愛しかたっていうのは人それぞれなんだ。世の恋人たち全部が全部、漫画やドラマみたいに愛を紡ぐわけじゃないんだよ」
「馬鹿にしてる?」
さすがに語調が強くなった。
「そのくらい知ってるよ。私の前の彼氏は、手も握ってくれないまま事故で死んじゃったんだよ?」
なら、反論なんかしてほしくなかった。ぼくは今疲れている。独りにしてほしかった。そっとしておいてほしかった。
「そんな、あからさまに嫌そうな顔しないでよ。これで最後にする。ひとつ訊きたいことがあるの。お願い。強がったり嘘つかないで、正直に答えて」
「・・・何?」
「相手にぬくもりを与えない。それのどこが愛なの?」
「・・・」
「相手に安心を与えない。それのどこが愛なの?」
「・・・」
「ねえ、俊介。愛の形がないことを逃げ道にしてるだけじゃないの?」
強くなる雨。水の流れるアスファルトにコーヒーの缶を投げつけた。
「ああ、そうだよ!ぼくは七海が何を考えているのかわからなかった!だから、あいつのことを知ろうとする気持ちも消えた!」
「・・・」
「はは、そうだよ。ちょうど先月あたりからかな。あいつが別の星の生物みたいに思えてきたんだ。思考ルーチンがわからないんだ、別に誰かに怒られるようなことじゃない」
「・・・」
「嫌いな気持ちが増えていくのに、好きって思いが無くならない。ぼくがどんなに想っても、ぼくにはあいつの愛しかたが判らないんだ!」
由利が言った。
「なんだ、馬鹿なんだ」
ぼくは振り向くと、ベンチを思いっきり蹴飛ばした。ベンチの足が削って、レンガが悲鳴を上げた。
でも由利は意に介さず、哀れみを多分に含んだ目でぼくを見上げていた。
「自分の愛しかたを使い回せなくて拗ねた俊介と、自分の愛しかたを不器用なりにも貫いた七海。どっちが馬鹿だと思う?」
「・・・」
「私は両方だと思うけどね。でも、拗ねたってところで、俊介のほうがちょっと上かな」
彼女はわざとらしい溜息をついて立ち上がった。彼女は一貫して、ぼくの目を見つめている。
「今言ったことを、恥ずかしがらないで七海に言えばよかったんじゃないの?それができないのって、多分プライドとかそういうもののせいだと思うけど、言ったときの俊介と今の俊介、どっちがかっこ悪いと思う?」
心を見透かされていたのか、顔に書いてあったのか、それとも彼女の身の上話だったのか、わからない。わからないけれど、彼女の台詞はぼくの心の熱を一撫でで消し去った。
「駄目だ」
ぼくが呟くと、彼女はさっきのぼくのように首を傾げた。
「やっぱり女は苦手だ」
彼女は薄く笑うと、胸板越しにぼくの心臓を拳で叩いた。
「そのくらいのジレンマ、乗り越えて見せてよ。せっかくのいい男が台無しだよ?」
意地悪い笑みを見せられた。あてられ、苦笑する。
「由利は強くなったよ」
「そう?」
「うん。今後、生死の境をさ迷った人間は敵に回さないようにするよ」
冗談のつもりで言ったのに、由利は遠い目をして雨を見上げた。
「いろいろ、いじめられたから」
台詞の真意はわからなかった。興味が沸いたので深く訊こうとした。でもそれを遮るように、彼女は土砂降りの雨の中に入っていく。
「“久しぶりに”濡れて帰ろうっと」
独り言で提案されてしまった。
ぼくは由利の後を追った。今度は、ちゃんと表情が見える位置を歩いた。
「愛ってのは、良くも悪くも人間を狂わせると思うんだ」
目を閉じ、機械に呼吸を手伝ってもらっている七海に語りかける。
「その熱に当てられると、誰も彼も正気でいられなくなる。正常な判断ができなくなる。常識を入れ替える、なんて非常識なことを平然とやり遂げてしまう。愛は劇薬に違いない。
でも、それを良しとしてしまう。平然と受け入れるどころか、自ら望んでしまう。つまり、人間は愛に弱いんだ」
木漏れ日が赤みを帯びた。
「ぼくは、それをみっともない、かっこ悪いことだと思っていた。愛なんて不確かなものに振り回されるなんて、なんて弱いんだろう、そう思っていた。そう思いながら、小さくて拙い自分のプライドを守ろうと必死になっていたんだ」
点滴の針が刺さった腕にそっと手を添える。
「お願いだ。目を覚まして。すぐでなくてもいい。ゆっくり休んでからでいい。でも、頼む。必ず目を覚まして。七海に伝えなくちゃいけないことがあるんだ」
廊下から由利が顔を出した。
「意識、戻った?」
ぼくは首を振る。
「そっか。じゃ、また来週来よう」
「ごめん、もう少しだけ」
ぼくがわがままを言うと
「映画に遅れちゃうよ」
彼女は子供みたいに頬を膨らませた。
ぼくは腰を上げると、彼女の手を握って病室を出た。
こんな馬鹿なヤツがいるのか。
そう思ってくれてかまわない。
かまわないよ。