#3
黒い女が部屋を出るのを確認してから、僕はそっと板をずらした。
短い髪の女は咥えタバコのまま机に向かい、なにやらごそごそと探し物をしている。
その対極、先ほどまで黒ずくめの女が座っていた、その上から、僕は静かに糸を垂らした。
音も立てず、それを伝う。
音を立てないように、そして手早く着地する。
完璧だ。アクション映画の主役のように、いや、それ以上の仕事をしたはずだ。事実、彼女はこちらに気付いていない。紙で指を切って、それを舐めようかどうか迷っている。ありがちな日常の一コマだ。
でも、迷った挙句指を舐めた女は
「誰?」
と無機質に尋ねた。
「・・・いつ気が付いた?」
「そのアホみたいなシルエットで部屋が暗くなったところから。物書きの人生経験を舐めちゃダメだよ。ま、パンダの着ぐるみが不法侵入してきたのはこれが初めてだけど」
言われて気が付いた。そうだ、僕は今、普通の格好はしていない。浮き足立って注意力が欠けていた。
「なるほど、参った」
「おし、私の勝ち」
女はへらっと笑った。そしてタバコを手にすると、僕に向けて煙を吹きつけた。
「で、アンタは誰?その格好、暑くないの?」
「慣れると、思ったほどでもない」
女は僕に興味をなくしたのか、机に向き直った。
彼女はナイフを取り出した。
僕はとっさに身構える。そして冷静に考える。突いてきても薙いできても、頭で受けてしまえばいい。動きを止めた後なら、どうにでもなる。
しかし、僕のどす黒い感情を吹き飛ばすように、女は鉛筆を取り出して削り始めた。とても慣れた手つきだ。危なっかしさがまるで無い。
咥えタバコの先に灰が積もっていく。それが音も無く落ちても女は動じない。目の前の鉛筆を一心不乱に尖らせていく。
「用がないなら出て行ってくれる?」
今日の雨みたいに冷たい言葉が飛んできた。
僕は立膝から正座に移行した。なんとなく、そんな雰囲気だった。
唾を音がなるほど強く飲んでから、僕は口を開いた。
「貴女は、誰ですか?」
「わっからなあい」
女は鉛筆をまじまじと眺めた。
「そもそもそれを訊いたのは私のはずなんだけど」
「す、すいません」
「随分若そうな声。歳は?」
「十七です」
「名前は?」
「春の人って書いてハルトです」
「よく覚えてるね」
僕は唇を舐めた。
「あの黒い女のお陰で、全部思い出しました」
女は思ったとおりのリアクション。作業をピタリと止めて、目を少し開き、横目で僕を凝視した。
「信じないかもしれませんが、僕は社会の裏の仕事をしていました」
両手を強く握った。ここからの話が信じてもらえないなら、僕はこれからも一人で生きていかなくてはならない。
裏の仕事と言っても、ヒトゴロシとかじゃありません。平たく噛み砕いて言えば、情報収集です。要人の行動を観察したりとか、そういうのを引き受けて、その見返りに莫大な報酬を頂いて生活してました。
僕がこの街の外で最後に覚えている景色は、夕方の公園。黒いスーツと黒いコート、そして黒いリムジンを止めた二人の怪しい男が取引しているところを観察していました。ノルマもなく、風船を持ってうろうろしながら。
この時、普段なら絶対にやらないことをやってしまいました。知らない高校生が僕の背中のジッパーを下ろしたんです。ジッパーの割れ目から護身用の拳銃が落ちて。
はい、撃たれました。
そして、視界がブラックアウトしたと思ったら、この街に来ていたんです。
目を覚まして、一番最初にそこにいたのは、あの黒ずくめの女でした。え、クロさん、って言うんですか?じゃ、クロさんがいました。
クロさんは僕に小難しい言葉を並べると、どこかに行ってしまったんです。この時、僕にはまだ記憶は戻っていませんでした。自分が誰で、何でこんな格好をしているのか、わかりませんでした。
でも、本能、違うな、職業病って言うんでしょうね。危ないことには鼻が効いちゃうんです。一発でわかりましたよ、クロさんは怪しいって。
僕の寝ていた場所はジメジメした路地でした。クロさんは早足で去っていく。僕は屋根に飛び上がると、音を立てないようにこっそり後をつけたんです。
遠くに海が見えました。飛び込みたくなりましたが、なんとかその気持ちを抑えて、辛抱強く彼女を追いかけたんです。
当時、と言っても数時間前ですけれど、この街には何人かの人間がいました。小さい子供、歩くことすらできない老人、しきりに時間を気にするサラリーマン。いろんな人がいました。
そのことごとくが、クロさんと会うたびにいなくなりました。
本当に、文字通り、影も形もなくなったんです。
観察していると、クロさんは他の人間に共通してやっていることがありました。
まず、話すこと。それも一方的に。そしてどうやら、その言葉ひとつひとつが、その人の心の中にある、大切なものをえぐっているようでした。
そして、触れること。打ちひしがれ、肩を落とした人に触れると、その時点でその人はいなくなります。
クロさんはそれしかしていないんです。一服するでもなく、食事を摂るでもなく、ただただ街の人を消して回っている。
おかしいと思いませんか?人を消せるということも、それだけに専念する、ということも。
僕は怖くなりました。怖くなって、またドジを踏みました。雨が強くなって、屋根が滑るようになったんです。
目の前に降ってきたパンダに、クロさんは言いました。
「そのままでいいんですか?」
って。
その一言で、僕は全部思い出したんです。自分が誰で、昔何をしていたか。だからこそ、クロさんの怪しさに確信が持てた。異質さに体が震えた。そして、彼女とこの街に、溢れるほどの興味を抱いた。
お願いです。協力してください。クロさんの正体を一緒に探ってください。貴女は、僕が見てきたこの街の人で、僕以外で初めて、クロさんに会ってから消えなかった人なんです。
私はタバコを咥えた。最後の一本だ。
火をつけると、部屋の煙が濃さを増した。
彼の話を全く信用していないわけじゃない。確かに、冷静にしっかり考えればこの街がおかしい、そしてクロが怪しいことにも気が付く。いや、むしろ気が付かないほうが異常なのかもしれない。そう考えると、正常な彼を応援するのが道理というものなのだろう。
ただ、私はひとつ、彼に対して許せないことがあった。
一度も顔を見せないことだ。人と話すときは人の目を見て話したい。それが大切な話なら、尚更だ。大前提と言ってもいい。
それをパンダに伝えると、彼は少し悩んだ後、すっと頭部に手を伸ばした。
パンダの頭が外れて、私は後悔した。
彼の顔は、目を反らしたくなるようなそれだった。左半分は皮膚が溶けてくすんだ桃色が歪なさざ波を打っていた。右目は目蓋が取り払われており、必要以上にくりくりした目玉が苦しそうに干からびていた。上唇は裂けて三等分されていた。健全な皮膚も、擦り傷切り傷で埋め尽くされていた。そのひとつひとつが、彼の半生を物語っていた。
私は動揺を彼に見せなかった。これから一緒に事を成し遂げようとする人間に、失礼な態度は見せられない。そう思ったからだ。
「わかった。じゃあやりますか」
彼の顔が明るくなった。
と、同時に
透き通った。
「ありがとうございます」
満面の笑みで言うと、パンダの抜け殻は力なく床に萎れた。
雨脚がまた強くなった。
窓の向こうで、クロが笑顔で手を振っていた。