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涙雨  作者: 030130
1/8

#1

 窓の向こうで雨が降っている。

 一日中日に照らされ、すっかり火照った街にはこの上ない恵みだが、しかし私にとっては耳障りなだけだ。

 ふらりとこの街にやってきて、引きこもっている。誰にも逢わないし、誰とも話さない。それがなんとも心地よく、私はすっかりこの生活を愛してしまっていた。

 包装のビニールを剥いて、フィルターを咥えて火をつける。

 吐き出した煙が湿気でよどむ。

 インターホンが鳴った。私は放っておく。そうすれば、彼女はそのうち勝手に入ってくるはずだ。

 ドアノブが回って、黒ずくめの女性が入ってきた。デニムのジーンズと半袖のシャツ。傘を閉じて玄関に立てかけると、ハイヒールを脱いで部屋に上がった。彼女は軽く会釈をしながら、窓際へ進み、座った。

 私は部屋のほぼ反対側で静かに煙草を吸っていた。六畳ほどの部屋。お互いの名前も知らない二人が取るには標準の距離だ。

 私は彼女にあだ名をつけている。いつでも真っ黒だからクロ。絶対に間違えることのない、絶妙のネーミング。

「今日は」

 クロが口を開いた。目をやると雨を見つめている。

 クロはこんな感じで、定期的に私の元を訪れては独り言のように経験してきた話をしてくれる。表に出ない私は、ピアノのような美しい声で紡がれる物語を聞くのを、ひそかな楽しみにしていた。


「では、これで失礼します」

「ちょっと待て、結局私はどうすればいい?」

 彼女は無言で立ち上がると、無駄のない動きで玄関へ進み、会釈を落として部屋を出て行った。

 私は煙に溜息を乗せ、机に向かった。最近ではアナログで原稿を書く人間もすっかり減ったようだが、個人のスタイルは流行り廃りで動じるものではない。

 だが、心理状態は動じるものだ。

 彼女は私に眠くなるほど長い話をしてくれた後、「いまのままでいいのか」と訊ねてきた。その余りに漠然とした問いに、私は冒頭の切り替えしをすることで手一杯だった。

 私はペンを置き、煙草を新調する。

 彼女の眼差しが、私の心を射抜いてしまっていた。そのせいで、その気になれば流せた言葉が胸に引っかかったままだ。このままでは、明日の締め切りに間に合わないかもしれない。

 それは困る。誰が困るのか、と言われれば、私、と答えるしかない。

 自分で言うのも情けないが、私はいわゆる「売れない小説家」だ。幼少時代の淡い恋や妄想を引っ張り出しては、見栄え良く三百枚ほどの原稿用紙に写す。そんなことを始めて、もう十年になる。もちろんこちらも商売だから、そのまま転載するわけではなく、いくらかのエッセンスやアクセントを加えて、なんとかエンターテイメントに昇華させる。しかし市場もバカじゃない。ありふれた私の思いは、そして力のない私の文章力は簡単に見抜かれ、本棚の肥やしに成り下がった。

 いまのままでいいのか。彼女はそう言った。

 私は机の引き出しを開けた。そこには、輪ゴムでまとめられた官製はがきや封筒がちんまりと座っていた。

 捨てる神あれば拾う神あり。こんな私にも僅かだけれどファンがいる。新作を出すたびに感想を送ってくれる人もいれば、涙の滲んだ便箋を送ってくれる人もいる。とてもありがたいことだ。

 今、小説家の私を突き動かしているのは、彼らに対する恩赦。それだけだ。私の作品を待ってくれている人がいる。その人たちに私の創った物語を送る。それこそが、自分の生き甲斐とすら思える。このままでいい。それが私にはお似合いなのだ。

「違う」

 私は火種を消した。

 綺麗事だ。その証拠に、欲は捨てきれていない。できることなら印税生活というヤツを送ってみたいし、メディアやマスコミにちやほやされてみたい。こう見えても、喋りにはそれなりに自信がある。チャンスさえあれば、のし上がれるはずだ。間違いない。

 駄目だ。あれこれ考えてしまい、頭の中になんの情景も浮かんでこない。こうなると、もうしばらく筆は進まない。

 私は引き出しを閉め、腰を上げた。煙草をポケットに押し込み、ニットの帽子を被る。

 こういうときは散歩に限る。気分の調節もできないようでは、この仕事はやっていけない。


 この街は狭い。目的もなくふらふらしていても、すぐに観たことのある景色に出会う。

 すっかり慣れてしまったところへ出た。街を縦断する大きな川、その防波堤に腰を降ろし、自販機で買った缶コーヒーを開ける。

 ほのかな甘みとかすかな香りが鼻を抜ける。溜息のような深呼吸を落とし、私は世界を見回した。

 細かくなった雲の合間から、憎たらしい太陽がこちらを覗いている。川辺では子供たちが暴れるように遊んでいた。向かいにはずいぶん古くなった三階建てのアパートが退屈そうに並んでいる。

 二口目でコーヒーを飲み干すと、煙草を取り出して火をつけた。

 届くはずもないのに、子供たちから顔を背けて煙を吐く。

 私があのくらいの年齢の時は、それこそ本の虫だった。休み時間のたびに図書室に足を運び、ほとんど毎日抱えきれないほどの本を持って帰り、睡魔に負けるまで読み耽っていた。物語に出てくる女性に恋をしたりした。一緒に旅をしたり、同じ苦悩を抱えたりもした。目を覆いたくなるような惨劇に涙を零した日もあった。

 それはこの上なく幸せな時間だった。何より、あの子供たちのようにあまり友達と騒ぐ、というのが好きでなかった。そして、あの子供たちのように、泣いた子供をあやしたりフォローしたり、他人に気を遣うのが嫌だった。そんな私にとって、本は唯一の話し相手だった。

 灰を缶に落とす。

 そう考えると、私は小説家になるべくしてなったのかも知れない。それが歓迎されたり賞賛されたりすることかどうかはわからない。でもそれだけは、きっと間違いない。

 煙を吐く。胸を満たし、詰まっていたものをすくって鼻を抜けて霧散する。

 いいのだろうか。運命という綺麗な言葉を使ってしまって構わないだろうか。消去法で選んだこの仕事を、天職だと胸を張ってしまって構わないだろうか。

「あんたたち!」

 隣で突然大声がした。まったく気が付かなかったが、セーラー服を着た気の強そうな女の子が仁王立ちしていた。小振りな胸の前で組まれた腕には、近くのスーパーのビニール袋がぶら下がっている。

「いつまで遊んでるの!お風呂の準備終わったの?」

 尚も辺りに響く怒号。いささか声が大きすぎるのでは、と思ったが、辺りには私と彼女、そして子供たちしかいない。

 子供たちは防波堤を斜めに駆け上がり、向こうへ行ってしまう。あちらに家があるのだろう。きっと大慌てでお風呂の準備をするに違いない。

「ふう」

 彼女は大げさに息を吐くと、膝を折って私に視線を合わせた。そして苦笑いを浮かべたまま、ちょこんと頭を垂れた。

「すいません、大声出しちゃって」

「いや、全然」

 素直な気持ちだ。中々に微笑ましい光景を見させてもらった。むしろこちらがありがとうと言いたいくらいだった。

 なのに彼女は、スーパーの袋から小さなリンゴを取り出すと、目が線になるくらいに微笑んで私にそれを差し出した。

「つまらない物ですけど、どうか受け取ってください」

 少し戸惑ったが、受け取ることにした。受け取って、自分が咥え煙草をしていることに気が付いた。私はなるべくスムーズに煙草を缶に放り込んだ。

 今時珍しいくらいに優しい女の子だ。多分、花も恥らう女子高生、というやつだろう。日頃私がイメージしているそれとは大分離れているけれど。

 もちろん、不思議ではあった。彼女は私のことなんか歯牙にもかけず、私の後ろを通り抜けて弟たちを追いかけることだってできたはずだ。何故、ぼうっとしていただけの私に声を掛け、且つ気を遣うのか、理解できなかった。

 そんなことを考えているうちに、彼女は腰を降ろしてしまった。

「今日は休憩ですか?」

「え?」

 まさかこんな展開になるとは思っても見なかった。すっくと立ち上がって「じゃ、お邪魔しました」とか気の効いた言葉を置いて、弟たちを追いかけて行ってしまうとばかり思っていたのに、変わらない笑みで話しかけられるなんて。

「え、ええ、まあ」

 口から出た言葉は、そんな曖昧なものだった。

「よかった」

 彼女は笑みを強めると、ころん、と首をかしげた。

「イメージ通りの人でした」

「え?君は・・・?」

「元宮つぐみです」

 私は思わず、口を開いたまま立ち上がってしまった。

 元宮つぐみ。数年前から新作を出すたびにファンレターを送ってくれている人だった。


 アパートの一室が点灯した。「あそこがアタシたちの部屋です」と元宮さんは教えてくれた。

 彼女はあの部屋から、時々今日みたいに川を眺めてぼうっとしている私を見つけたそうだ。そしてそのシルエットで、自分の好きな本の最後、表紙の折り返しに小さく写っていた私だと気が付き、以来しばしば私のことを遠くから見ていてくれたらしい。

 元宮さんは私の本についての感想を思い切り投げてくれた。あのヒロインがよかった、あの展開がよかった、などの基本的な感想はもちろん、あの表現が素晴らしかった、と一歩踏み込んだ賛否まで。総括すると、絶賛だった。ここまで何もかも褒められたのは、デビュー当初以来だった。

「私、先生の話の雰囲気が好きなんです」

 ペットボトルのお茶で喉を湿らせてから、彼女は遠くを見て微笑んだ。

「全体的にちょっと暗いじゃないですか。明るくないってくらいの意味ですけど。そういうのが凄く、心地いいです。恋愛小説とか漫画って、テンションをあわせなくちゃ楽しめないじゃないですか。私のテンションって、先生の作品がちょうどいいんです」

 この台詞を聞いたときの感動と言ったら無かった。小説家としては失格かも知れないが、この感情の昂ぶりを表現する言葉を、私は知らない。

「ありがとう。そんな風に肯定されたのは、生まれてこの方初めてです」

「いえ、こちらこそ。先生の作品には励まされたことが何度もありますから」

「女が振られ続ける話とかでも?」

「はい。本編では語られてないですけど、裏にある主人公の強さ、ちゃんと伝わってきました」

 本編で語っていないのだから、意図してはいない。無意識のうちにそうなってしまったか、彼女が勝手に妄想を抱いているか、どちらかだ。

 自分にそんな力がある、と舞い上がったりしない。彼女以外の誰かにそう言われた事がないからだ。彼女よりはるかに読者として優秀な編集さんは、そんなこと一言も言ってくれなかった。

 少し複雑な心境になりながらも、尚も口を止めない彼女の話に曖昧な相槌を打っていた。

 日は少しずつ沈んでいき、やがて水面が赤く染まり始めたころ、元宮さんは短距離を走り終えた後のような深呼吸をした。

「すいません、なんだか一方的に話してしまって。先生の作品について話した事がなかったもので、つい調子に乗ってしまって」

 自嘲した。確かに、出回っていない私の作品について語れるのは著者本人くらいだろう。

 彼女は私の顔色を見て、慌てて口を抑えた。

「いや、あの、違うんです!先生の作品って、私みたいな高校生が読むのは早いっていうか、どちらかと言えば成人女性をターゲットにしていらっしゃるから・・・」

「いや、いいんです。ありがとう」

 私は身の程を知っている。さっきまで散々愚痴っていたとおりだ。それ以上でも以下でもない。売れない小説家は、いや、人は誰でも分を越えたことをしたり考えてはならない。それは社会の摂理だ。

 私は立ち上がると、何度も謝る元宮さんを手で制し、帰路へ着こうとした。

「そんな、謙遜なさらないでください!」

 元宮さんは立ち上がると、歩き出していた私を追うべく走ろうとした。

 その一歩目、その足の下に、私が灰皿にしていた空き缶があった。

 骨と肉が曲がる鈍い音で、私は振り返った。本宮さんの重心は、彼女をひどく不恰好なまま河川敷に叩きつけようとしていた。

 咄嗟に体が動いた。私は彼女の肩を持つと、ありったけの力で強引に道のほうへ押した。

 彼女は尻餅をついて道へ着地した。私はそれを見て強く安堵した。

 体は河川敷を転げ落ちていく。額に激しい痛みが生まれた。


 ピアノのような声は止み、代わりに無愛想な雨の音が部屋を満たしていく。

 クロはこっそり息を吐いた。

「彼女、設楽凛は稀なほどのマイナス思考でした。それを見抜いていた担当の編集者は、彼女に自身の作品が売れていることを伝えなかった。伝えることによって、彼女の才能と能力が眠ってしまうことを恐れた。社会現象になりかけた作品を生み出した、いわば天才でしたから」

 彼女の語り方があまりにも上手だから、私はセンセイのことをまるで自分の事のように感じてしまっていた。

「その後、センセイはどうなったの?」

「今も意識不明の状態で病床に臥せっています」

「でも、頭打ったんだよね?目覚めた時に、ショックとかでその性格は治って・・・ないよね」

「でしょうね」

「じゃあこれからも、センセイは自分の部屋に閉じこもって事実を知らないまま作品を生み続けるのね。なんだか悲しい」

「ええ。生きていたら、ですけれど」

「そっか」

 私は煙草を咥えた。雨は強くなる一方だ。

 クロは立ち上がると、「では、またいつか」と言って部屋を去った。

 後姿に違和感があった。何度か見た事があるはずなのに、でも初めてのような気がした。気のせいとも既視感とも違う。心に雨雲が生まれたようだ。

 私は机に向かった。話に触発されて、久しぶりに何か書いてみようと思った。

 ペンを取り出したところまでは良かったが、原稿用紙を取り出すときに誤って指先を切ってしまった。

 焼けるような痛みが走ったが、血は出なかった。


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