一巡目 四日目
【十二月二十日 火曜日】
俺の意識は空腹によって覚醒した。時計を見ると時刻は六時を指している。
「なんだ……時間は普通か」
目は覚めたが、俺の意識はまだ朦朧としている。寝すぎたせいだろうか。しかし冬場の布団は気持ちが良いな。お袋がかけてくれたのか。後で礼でも言っておくか。
「んーっ……ん?」
身体が動かない。このまま寝てたら出られなくなりそうだから起きようと思ったのだがな。脳がここから出るなって言ってるのかな。そうなのかな。あれ、もしかしてこれってまだ夢なのかな。温かい上に柔らかいな。俺の脳ってすげーな。この感触、まるで美咲の胸そっくりだ、ぜ……?
直後、俺の意識は完全に覚醒する。温かい布団から感じる柔らかな感触、薄っすらと漂う女の子特有の甘い匂い。そして動かない体。
「……んぅ……」
布団の中で何かが小さく動く。俺の中で全てが繋がり、俺の額からは冷や汗がとまらなかった。この状況はやばい。本当にやばい。
「やばいやばいやばいやばい」
この状況は一体なんだ? 俺が直ぐに会えるとか言ったからか? だからコイツは俺の部屋に居るのか? いや、何で一緒に寝てるんだ。い、いや一応恋人だしおかしい事は無いんだが……。いや、そんなこともないはずだ。
「むふぅ……しゅじんくんの匂い……」
冷や汗で枕ビッショリな俺と違ってのん気な美咲。あっ、やめて。スリスリしないで。色々当たってるから、まじで。
「お、落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け……」
南無阿弥陀、南無阿弥陀仏……い、いや素数を数えるんだ! えぇっと一……あれ、素数ってナンだっけ? 一、二、三……あれ、違うな。と、とにかく落ち着け、この状況を打破する方法を考えろ、考えろ……。
「……あれ、起こせばよくね?」
散々心を落ち着かせようと頑張り、必死に考えた結果に出た答えは至極単純なものだった。我ながらよく最初にこれを行わなかったものだ。人間テンパると怖いね!
「……最近心の中の俺が壊れはじめてるな」
意味もわからずテンションを上げているような気がする。いや、気のせいか? いや違うね、きっと違う! ……ぁ。
「…………」
俺の中で一瞬時が止まった……気がした。思わず何かから逃げようと時計に目をやると時刻は六時三十分。とても丁度いい時間だ。さ、さぁ、美咲を起こして朝飯といこっかなぁー。
「お、おい美咲っ。起きてくれ、朝だぞ」
「んぅ……? あさぁ……?」
俺の上でモゾモゾと動き出す美咲。それによって俺の身体の自由が少しだが、開放された。このチャンスを逃す俺ではない。
「せいっ!」
「きゃっ!?」
思いっきり美咲を引っくり返す。これ以上ベッドの上に居たら何が起こるかわかったものではない。俺の人生の中で最速ではないのか、と思える速度でベッドから抜け出す。先ほどまでが暖かかったため、ベッドの外が至極寒く感じた。だが、それは俺にとっては好都合。心を落ち着かせる為には頭を冷やす事が大切だ。大丈夫、大丈夫。だいじょーぶ。
「んむぅ……何するのさしゅじんくん」
俺が引っくり返したせいでぐちゃぐちゃになっていた布団の中から美咲が眠気眼を擦りながら顔をだす。く、くそう……なんでや……なんでなんや……。
「な、なんで……」
な、何故……こいつは俺の……俺の……
「俺のシャツを着ているんだっ!!」
しかも美咲が着ているのは俺のシャツと下着のみ。思春期の男子高校生にはいささか刺激が強すぎるものだった。胸元からチラチラ見えるピンク色の可愛らしいフリル付きの、
「げ、ゲフンゲフン! お、おーい起きろ美咲? 朝だぞー?」
か、間一髪の所で性欲の綱渡りを成功させた俺は心を落ち着かせ、美咲を起こす事にした。美咲は俺が何度か名前を呼んでいる内に段々と意識を覚醒させて行った。
「……あぁ、昨日守仁君の部屋に行った時に一緒に寝ちゃったんだっけ?」
完全に目を覚ました美咲はそんな事をポケーっとした顔で言い出した。昨日は美咲の両親共に帰りが遅くなるそうで、俺の家に泊まりに来たらしい。風呂に入って着替えて俺の部屋に来たら俺が寝ていたので一緒に寝た。と言うのが昨日の流れらしい。
「……さっぱりわからない」
「えぇっ!?」
「……嘘だよ。さ、さっさと飯食おうぜ? 腹減ってたのすっかり忘れてた」
俺と美咲は部屋を出る、訳にも行かない。とりあえず俺は美咲にジャージを渡し、着替えさせてから部屋をでた。こんな姿をお袋にでも見つかったら何が起こるかわかったもんじゃない。
「おはよう二人とも。あれ、美咲ちゃん着替えちゃったの? もしかして……」
部屋を出たところには既にお袋が居た。扉を開けた直後、本気で心臓止まるかと思った位には気を抜いていた俺はお袋の声を聞いた瞬間、思考と共に動作を止めた。お袋がとてつもなくニヤニヤしている。この人は絶対勘違いと言うか思い込みをしている。
「お、おはよう……?」
「おはよーございます!」
元気に朝の挨拶をする美咲に対して、ぎこちない挨拶しかできなかった俺。今相当顔引きつってるだろうな。どうせこれがまたお袋の思い込みを悪化させるのか。あぁ……神は俺を見放したのか……。
「うふふ……いいのよ? 母さん守仁が大人の階段を順調に昇ってくれて。あ、でも避妊はちゃんとしなさいよ?」
「な゛……」
うわ、この人言っちゃったよ。せっかく美咲は気が付いてないみたいだったからスルーしようと思ったのにこの人言っちゃったよ! あぁもう!
「え……ええええええっ!?」
ほら……美咲はそういうの駄目なんだから。あぁ、面倒になってきた。後メチャクチャ腹減った。お袋はいつもいつも面倒な事しか言わないんだよな。後腹減った。
「あ、いやあのえぇっとぉ……」
お袋の発言に困惑し、顔を真っ赤にしてなにかを必死に伝えようとする美咲。なぜお前は何もしてないのにそんな反応ができるんだ。
「あぁもう! 何もなかった! ただ寝てた! 腹減った! オーケー?」
「お、オーケー?」
「いぇすまむ!」
誰だお前は。
突然俺が大声を出したからか、お袋は圧され気味に返事をする。一度言わせてしまえばこっちのものだ。
「さ、俺は腹が減ったんだ。飯にしよう。さぁさぁ」
「えっ? あぁ、うん」
「ごっはん! ごっはん!」
美咲、君は気楽でいいね。完全にお袋の発言を忘れているよね。俺も忘れられたらいいのにね。まったく忘れにくいってのも困りもんだよ。忌々しい事を忘れられないんだもん。ああお腹すいた。
それから、俺達は何事もなかった風の空気の中で朝食をとった。美咲は完全に何事もなかった感をだせていた。なんていっても忘れていたから。朝食の後、美咲は家に一度帰って制服に着替えてきた。というか泊まるのに着替えも持ってこなかったのかお前。
「お待たせー!」
「あぁ、行こうか」
美咲が着替えに戻っている間に俺も着替えを済ませた。そしていつもの様に手を繋ぎ、学校へと向かう。
「……?」
ん? 今日は何かがおかしいな。いつも通りの通学路、これにはなんの問題は無い。だったら何が違う?
「あ、そういえば今日は物騒なニュースなかったねー?」
「え? あ、あぁ、そうだな。平和で何よりだ」
そう、ニュースだ。今日のニュースでは殺人犯のニュースはおろか物騒なニュース一つ報道されずに、めでたいニュースばかりだった。某有名人の電撃結婚だの、子供が出来ただの、日本人が国際的な大会で優勝しただのと、偶然にしても珍しいはずだ。
「あ、そういえばそろそろクリスマスだよ!」
唐突といえば唐突に美咲がそんな事を言い出す。今日は十二月二十日。後四日もすればクリスマスだ。そう言えば今日のニュースでも言ってたっけ。
「雪、降ると良いな」
「うん!」
どうやら今年のクリスマスには雪が降る確立がとても高いらしい。と言うよりも今月自体の気温が低く、何かの状況が云々で何度か雪が降るであろうと眉毛と顔の濃い気象予報士がそんな事を言っていた。でもあいつの予報あんま当たらなかったからなぁ。
「ってちっがーう!」
美咲が頬を膨らませる。どうやら俺の答えはお気に召さなかったらしい。ま、わかってるんだけどね。
「じゃ、クリスマスにどっか行くか」
「ホントッ!?」
どうやらお気に召したようだ。美咲は子供の様に目を輝かせながらクリスマスの予定を立て始める。俺はお前が楽しいなら構わないさ。ってこれは声に出さないと意味ないか。いや、まぁ言わないけども。
「じゃあ、クリスマスは買い物行ってから、イルミネーション見て帰って守仁君の家でパーティーでいい!?」
「あぁ」
「じゃあ二十四日はお昼の十二時にショッピングモール前に集合! で、いい?」
「ん……何で家隣なのにショッピングモール前集合なんだ」
直ぐに会えるのだから家の前にでも集合すればいいのではないのだろうか? その疑問に美咲は答えてはくれなかった。
「えっ? い、いやそれは……そっちのが恋人っぽいかなぁって思ったから……」
「え? 肝心な所がまったく聞えなかったんだけど」
最後の方に行くにつれて美咲の声は小さくなり、モジモジとしはじめていた。何か恥ずかしい事を言おうとしたのだろうとは思うが、肝心な答えの予想が一切として出来ない。
「い、いいの! は、反論は認めません! おーけー!?」
「お、おーけー?」
「よろしいっ!」
朝のお袋同様、俺は突然の大きな声に圧されてしまった。嗚呼、俺も貴女と同じ血が流れている様です。
「ははっ、なにやってんだか俺達」
「あははははっ! ホントにねっ!」
俺達はそうやって笑いながら校門を通った。冬まっさかりだと言うのに俺の身体は温かかった。こうやって美咲とバカやりながら笑いあっているのはとても良いものだ。この時間がずっと続けばいいとも思える位には。
それからの一日、特に何事も無く、楽しい時間が過ぎた。美咲と共に、喋って笑って、時にはじゃれあったりもした。
「今日は久しぶりにこんな笑ったよ」
二人の帰り道で俺がふと呟くと美咲は笑いながら、
「そうだな」
と一言だけ。今の俺にはその一言でさえも愛しかった。もしかしたら約束の二十四日よりも愛しく感じられているかもしれない、とさえ思えた。俺達は今のやり取りから家に着くまで一言として喋らなかった。腕を組み、互いの体温を感じあいながら夕日の差す道を二人で歩く。時々目が合うと小さく笑った。この時間が俺にとっては私服だった。だが、私服の時間が過ぎるのは早い。気が付くと俺達は家の前に居た。
「……もう着いたのか」
「今日は凄く短く感じたね」
「あぁ、そうだな」
そう言って俺は美咲の頭を撫でる。すると今日の美咲は寂しそうな顔もせず、満足そうな顔で自分の家の方へと駆けて行く。
「また明日ねーっ!」
「あぁ、また明日」
別れの挨拶を交わし、玄関扉を開ける。今日は玄関にお袋は居ない様だった。その後リビングに行くと置手紙があった。
『買い物行ってきます! 夕飯までに帰るから良い子で待ってるんだゾ!』
「…………」
黙って俺は置手紙を庭で焼いた。手紙が完全に灰になった所で上から美咲が顔を出してきた。
「しゅじんくーん! なにやってるのー?」
「案ずるな……邪なる物を排除しただけの事よ……」
「……?」
あ、わかってない。く、くそぅ、結構恥ずかしかったんだぞ。
「消したい記憶を消してたのさ」
「よくわかんないけどがんばってね!」
よくわからないのにどう頑張れと言うのだろうか。というか俺の頑張ることはもうないのだが。
「ん、いやもう終ったし。じゃーな」
「クリスマスの約束忘れないでよー?」
「わーってるよ」
そう言って俺は家の中へ戻った。
「約束……か」
俺はその言葉に反応して小さく笑った。たまにはこういうのも悪くはないもんだな。決して美咲の前で出しては居ないつもりだが、俺はクリスマスのデートが楽しみで仕方なかった。家に帰り、お袋が居ないという知らせを見て、口元の緩みを隠す事ができなくなっていた。それから俺はお袋が帰って来るまでの間、ずっとニヤニヤしていた。
「……今日は、楽しかったな……ははっ」
俺は湯船の中で今日一日の出来事を振り返り、笑みを零していた。お袋が帰って着た時、置手紙の件を問いただしたらペコちゃん的な顔をした。とりあえず真顔で頭を下げた。そしたらお袋に謝られた。うん、わかってくれたみたいでよかったよ俺は。
「まったく……不気味なくらい楽しかったな。何かこれから起こる不幸の前触れみたいだな……え、なにそれ怖い」
恐らく昨日までの俺だったらこんな事冗談でも言えないだろうな。ん、昨日までの俺ってそんなに思いつめてたのか。まったく気が付かなかったな。これも全部……
「美咲のお陰なんだろうな……」
あいつは俺が思いつめていた事に気が付いていたのだろうか。俺は隠してきたつもりだったが、翌々考えると隠しきれていたとも思えない。もしかしたら今日の朝の件も俺を元気付けようとしてやったのかもしれないな。
「いや、流石に朝のはねーか」
それ以外の事だったらもしかしてあるかもしれないな。あれで美咲はそう言った勘は鋭い。前にちょっと頭痛がする位で、俺が気にするほどでも無いと家を出たら、美咲に会って五分もせずに指摘された。その時美咲は、
『私は守仁君の事だったらなんでもわかるよっ! えっへん!』
ってドヤ顔してたんだっけな。自分からえっへんとか言っちゃうあたりが美咲らしいっちゃらしいんだけどさ。
「美咲にこれ以上心配かけない為にもさっさと寝るかー」
俺は風呂から出て、寝巻きに着替えて部屋へと向かう。その途中、リビングに目をやるとお袋が親父と電話をしている様だった。邪魔する事も無いので、俺は何も言わずに部屋へと向かった。
「ふぁああ……もう寝るか……」
風呂上がりで身体が温まっており、心地よい気分だった俺を睡魔を襲う。普段だと風呂に入ると目が冴えるのだが、時々ある『風呂に入っても眠い』ってやつだ。早めに寝ようと思っていた今日の俺にはとても好都合だ。
「ちょっと早いけど、お休みなさい……」
ゆっくりと俺は眠りに落ちていく。そして俺また夢を見た。