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第六話 一人分の不在



 売れる、というのは不思議なことだった。


 ある日を境に突然すべてが変わるわけではない。昨日まで無名だった人が、朝起きたら世界中の誰もが知っている存在になっている、なんてことは、少なくとも天宮ひかりの現実にはなかった。


 変化はいつも、あとから振り返ってようやく気づく形でやってきた。


 テレビ局の廊下を歩いていて、すれ違ったスタッフが「あ、ひかりちゃんだ」と微笑むようになる。雑誌のインタビューで「最近すごく見ます」と言われる。メイクルームでヘアメイクが「この前うちの姪っ子がファンだって言ってたよ」と教えてくれる。駅の巨大広告に自分の顔が映った日には、さすがに一瞬足が止まった。


 自分の名前が少しずつ、世の中の中に根を張っていく。


 それは奇妙な感覚だった。


 昔は、自分の存在なんてごく小さなものだった。住宅街の一軒家で、学校へ行って、レッスンに通って、家に帰る。そんな当たり前の生活の中にいたひとりの女の子。それが今では、見知らぬ誰かの日常の中へ、写真や動画や音楽として入り込むようになっている。


 最初のうちは、そのことが少し怖かった。

 でも怖さより強かったのは、やはりひとつの思いだった。


 これなら、見つかるかもしれない。

 やっと、届くかもしれない。


 その希望が、ひかりを前へ前へと押し出し続けていた。


    *


 ソロとしての天宮ひかりが大きく跳ねたのは、配信曲のヒットがきっかけだった。


 もともと冬に伸びた短いパフォーマンス動画で名前を知った人たちが、次の楽曲リリースで一気に流れ込んできたのだ。曲は切ないメロディと透明感のあるアレンジが特徴のバラードで、歌い上げるタイプではなく、静かに胸へ入ってくるような一曲だった。


 最初にデモを聴いたとき、ひかりは不思議な感覚を覚えた。


 この曲は、自分に合う、と思ったのだ。


 技巧を見せびらかすような歌ではない。無理に強く見せる必要もない。むしろ、ひとり分の不在をずっと胸の奥に抱えたまま、それでも前を向こうとするような、そういう歌だった。


 レコーディングの日、ブースの中でヘッドホンをつけながら、ひかりは何度も歌詞を読み返した。


 届かない夜を越えて

 それでも光を探してる


 書かれているのは恋の歌というより、どこか祈りに近い言葉だった。


 ひかりはマイクの前で目を閉じる。


 白い花の庭がよぎる。祭りの夜の灯りが揺れる。礼拝堂の蝋燭、雪の窓辺、小さな村の野原。何度も届かなかった人生たちが、静かに喉の奥へ集まってくる。


「天宮さん、今の感じ、すごくいいです」


 ガラスの向こうでディレクターが言う。


「もう少しだけ、言葉を残す感じでいけますか」


 ひかりは頷いた。


 技術的な注文だと分かっているのに、その言葉は妙に腑に落ちた。


 残す。


 そうだ。自分は、残したいのだ。聴いた誰かの中に、少しでも長く。通り過ぎられずに、引っかかってほしい。名前を知らなくても、声だけででもいいから、胸のどこかに留まってほしい。


 それがもし、あの人にまで届いたなら。


 レコーディングは何時間もかかった。細かなニュアンス、息遣い、言葉の立ち上がり方、子音の処理。最初の頃のひかりなら、途中で迷子になっていたかもしれない。けれど今のひかりは、自分が何を込めたいかを知っていた。


 ただ上手く歌いたいのではない。

 届いてほしいのだ。


 その軸が揺るがないぶん、むしろ細部への集中はぶれなかった。


 配信が始まると、曲はじわじわ広がっていった。


 ドラマの挿入歌に使われ、動画サイトでカバーが増え、切り抜きやショート動画でも流行る。SNSでは「夜に聴くと泣く」「この声、なんか刺さる」「綺麗なのに切ない」といった感想が増えていった。


 ひかりはその反応を全部は追わなかった。数が多くなりすぎると、ひとつひとつを受け止めきれなくなるからだ。それでも、時々ふと目に入る言葉には、驚くほど胸を打つものがあった。


 ――なんか、この子ずっと誰か探してるみたいな顔する。


 ある夜、その一文を見つけたとき、ひかりはスマートフォンを持つ手を止めた。


 どきりとした。


 その人は、もちろん軽い感想のつもりで書いただけなのだろう。でも、ひかりにはその言葉があまりにもまっすぐ刺さった。


 見えているのだ。全部ではなくても、自分の中の何かが、ちゃんと。


 たぶんひかりは、どれだけ技術を身につけても、完全に隠すことはできないのだろう。会いたいという気持ちも、探しているという執念も、言葉にしなくても、表情や声の端に滲んでしまう。


 でも、それでいいとひかりは思った。


 むしろ、滲んでくれた方がいい。

 だって、それこそが自分なのだから。


    *


 忙しさは、日に日に増していった。


 朝の情報番組に生出演し、その足で雑誌の撮影に向かい、夕方にはラジオ収録、夜はリハーサル。オフらしいオフはほとんどない。ホテル暮らしが続くことも増え、移動中の車や新幹線で仮眠をとる日も珍しくなくなった。


 それでも、ひかりは思ったより元気だった。


 もちろん疲れないわけではない。帰宅して靴を脱いだ瞬間に、その場に座り込んでしまう日もあったし、メイクを落とす前にソファで寝そうになる夜もあった。


 けれど、仕事そのものは嫌ではなかった。むしろ、ひかりは今の自分が好きだった。

 昔より、ちゃんと届くようになっている。


 言葉も、歌も、笑顔も、カメラの向こうにいる誰かへ真っ直ぐ伸ばせるようになってきた。作ったものではなく、自分の中から出てきたものを、そのまま光に変えられる感覚がある。


 そして、何より。

 見つかる確率が、確かに上がっている。


 テレビに出るたび、全国のどこかで誰かが見ている。楽曲が配信されれば、海の向こうでも誰かが再生する。海外のコメントも、今では珍しくなくなった。簡単な英語の返信くらいは覚えようと、移動中にスマートフォンのメモへ少しずつ打ち込んでいる。


 もし日本で駄目なら、もっと広いところへ。

 その思考は、今やひかりにとってごく自然なものだった。


 最初はただの決意だったのに、現代ではそれが本当に可能な手段として目の前にある。配信、動画、翻訳、海外展開、サブスク。時代が違えば、恋の探し方も変わるのだと、ひかりは半ば本気で思っていた。


 会いたい人がいるなら、使えるものは全部使えばいい。


 待つだけなんて、自分には向いていない。


    *


 仕事が大きくなるほど、人から「夢がかなったね」と言われることが増えた。


 雑誌のインタビューで、「ここまで来るまでに何が原動力でしたか」と訊かれる。テレビでは「昔からアイドル志望だったんですか?」と笑顔で振られる。ラジオでは「目標にしていた人はいますか」と聞かれる。


 ひかりはそのたび、少しだけ考えてから答える。


「誰かに届く仕事がしたかったんです」


「小さい頃から、遠くにいても届くものってすごいなって思っていて」


「見てくれる人がいるなら、その人にちゃんと残るものを届けたいです」


 それらは全部本当だった。

 ただ、真ん中にあるたったひとつの理由だけが、誰にも言えないだけで。


 ある雑誌では、「今まででいちばん嬉しかった瞬間は?」と訊かれた。


 ひかりは少し迷ってから、「初めて自分の歌を街で耳にしたときです」と答えた。嘘ではない。コンビニの有線で自分の曲が流れていたとき、妙に現実感がなくて、でもたしかに嬉しかった。


 けれど本当は、もっと違う。

 本当に欲しい「嬉しい瞬間」は、まだ来ていない。


 大勢に知られること。認められること。曲が売れること。ライブのチケットが完売すること。どれも、もちろん嬉しい。夢みたいだと思う瞬間もある。


 でも、そのすべての真ん中には、いつも空席がひとつあった。


 たった一人分の、不在。


 それがある限り、ひかりの幸福はいつだって少しだけ欠けていた。


    *


 その欠けた部分を、ひかりが一番はっきり感じるのは、舞台の上だった。


 歓声はあたたかい。


 何千人、何万人という人の前に立って歌うとき、人の熱量というものはこんなにも大きいのかと何度も思う。サイリウムが揺れる光景は海みたいだし、自分の名前を呼ぶ声が重なると、足元から何かが突き上げてくるような感覚さえある。


 その中に立つと、ひかりはいつも少しだけ泣きたくなる。


 ありがたくて。眩しくて。ここまで来たことが信じられなくて。

 そして同時に、ひどく寂しい。


 こんなにたくさんの人が見てくれているのに。

 こんなに大きな光の中にいるのに。


 それでも、たった一人を見つけられない。


 あるツアーの地方公演で、アンコール後に楽屋へ戻ったときのことだった。汗を拭きながら椅子に座った途端、どっと疲れが押し寄せる。マネージャーやスタッフが周囲で動き、誰かが「今日も盛り上がったね」と笑っている。


 ひかりはペットボトルの水を一口飲んで、ふと鏡の中の自分を見た。


 頬は上気し、目はまだステージの熱を残している。完璧ではなくても、いまの自分はたしかに、昔憧れた「見える場所」に立っている。


 それなのに。


 胸の真ん中だけが静かに冷えていた。


 その理由を、ひかりはもうごまかさない。


 会えていないからだ。まだ、見つかっていないから。


 スタッフに「大丈夫?」と声をかけられ、ひかりは慌てて笑顔を作った。


「うん、ちょっとぼーっとしてただけ」


 本当にそれだけだった。疲労もある。ツアー中なのだから当たり前だ。

 でも、その「ぼーっとした」時間の中で、ひかりはいつも同じことを考えてしまう。


 あなたは、どこにいるの。

 今の私、見えてる?届いてる?


 その問いには、まだ答えがない。


    *


 そんな日々の中で決まったのが、年末のドーム公演だった。


 ひかりにとって、これがキャリア最大規模のライブになる。


 デビュー当初から応援してくれるファンにとっても、彼女がここまで来たことには大きな意味があった。テレビでもたびたび特集が組まれ、「次世代を担うソロアーティスト」「飛躍の一年を締めくくる大舞台」といった言葉で紹介される。


 その華々しさを前にして、ひかりは意外なほど冷静だった。


 もちろん嬉しい。人生でそう何度もあることじゃない。

 でも、喜びだけで浮つけるほど、彼女の中の動機は単純ではなかった。


 ドーム。


 それは、あまりにも大きな場所だ。


 テレビの向こうから見て憧れた世界そのもの。たくさんの光が集まり、何万人もの人がひとつの場所へ視線を向ける場所。日本中、あるいは世界のどこかから配信で見る人もいるかもしれない。


 ここまで来れば。


 ここまで来れば、もしかしたら。


 今度こそ、本当に届くかもしれない。


 ひかりはリハーサルで初めて会場へ入ったとき、思わず足を止めた。


 まだ客席は空で、照明も半分ほどしか点いていない。それでも空間の広さは圧倒的だった。天井は高く、ステージから見下ろす客席は果てしなく遠い。何もないはずの空間なのに、過去にここで上がった歓声や息遣いが壁のどこかに染み込んでいるような気さえした。


「すごい……」


 思わず漏れた声に、隣のスタッフが笑う。


「でしょ。立つともっとすごいよ」


 ひかりは、広い会場を見渡した。


 ここに光が満ちるのだ。

 ここに無数の人が集まるのだ。


 ここからなら、見えるだろうか。


 自分が立つ場所は、果たしてどれほど遠くまで届くのだろう。


 ステージ中央に立ってみる。まだ本番用の衣装ではなく、リハ着のままだ。足元にはテープで位置が記され、頭上には無数の照明機材が並んでいる。スタッフがインカムで指示を飛ばし、スモークの確認や映像タイミングの調整が進む。


 それでも、ひかりはこの場所に立った瞬間、胸の奥がきゅっとした。


 ようやく来た。


 何度も人生を越えて、何度も届かなくて、それでもまだ手を伸ばし続けてきた自分が、ついにここまで来たのだ。


 じゃあ、見て。


 そう心の中で呼びかける。


 今度こそ、気づいて。


    *


 本番が近づくにつれて、ひかりの周囲はますます慌ただしくなった。


 衣装合わせ。ヘアメイクの打ち合わせ。演出確認。インタビュー収録。配信チケット告知。SNS用の動画撮影。やることは山ほどある。


 そんな中でも、ひかりは折を見て自分のSNSを更新していた。


 もちろん全部を自分だけで回しているわけではない。スタッフと相談しながら、投稿内容もある程度は管理されている。でもその中に、ひかりらしさを少しだけ忍ばせることはできた。


 リハーサル終わりの一枚。

 好きな本の紹介。

 最近聴いている曲。

 夜食に食べたスープの話。

 「寒いのでみんなあったかくしてね」という短い文章。


 大勢に向けた発信なのに、どこか一人に語りかけるような言葉選びになるのは、ひかりの癖だった。


 ある夜、ドーム公演の準備が佳境に入ったころ、ひかりはふと思い立って「最近読んだ本」の話を投稿した。


 移動中に読んでいたライトノベル原作の恋愛ファンタジーについてだ。人気乙女ゲームの原作小説で、学園を舞台に聖女や攻略対象たちが複雑に絡み合う物語。ひかりは元々、物語の中にある「選ばれなかった側」の感情を読むのが好きだったこともあって、その作品の悪役令嬢ルミナリアのことを少し気に入っていた。


 華やかな舞台の上にいるのに、どこか孤独で、強がりで、でも本当は真っ直ぐな女の子。


 そんなルミナリアに、ひかりはなぜか少しだけ親近感を覚えたのだ。


 投稿には軽くこう書いた。


 最近読んだ本。

 悪役令嬢が意外と好きでした。目立つ子って、案外いちばん不器用だったりするよね。


 深い意味はなかった。


 少なくとも、その時点のひかりには。

 ただ、ルミナリアという名前が妙に耳に残るな、と思ったくらいだった。


    *


 ドーム公演の前夜、ひかりはホテルの部屋でひとり、窓の外の夜景を見ていた。


 高層階の部屋からは、街の灯りが無数に見える。遠くの道路は細い光の筋みたいで、ビルの窓明かりは誰かの生活の気配を宿している。こんなにもたくさんの人が、それぞれの夜を生きている。


 その中のどこかに、あなたもいるのだろうか。


 ふと、そう思う。


 何度考えても答えはない。でも考えずにはいられない。


 明日は、大きな舞台だ。


 きっと綺麗だろう。きっと眩しいだろう。きっと、自分がずっと夢見てきた景色のひとつだ。

 でも、そこまで来てもなお見つからなかったらどうするのだろう、と、ひかりはふと思った。


 怖くはなかった。

 ただ、少しだけ静かになった。


 もしそれでも会えないなら、また次を考えるだけだ。


 もっと広い場所へ行けばいい。もっと遠くまで届く方法を探せばいい。歌でも、映像でも、海外でも、なんでも。


 そこまで考えて、ひかりは小さく笑った。


 我ながら、ほんとうにしぶとい。

 でも、それでいいのだと思う。


 何度失っても次こそはと手を伸ばしてきた自分を、今さら変えたいとは思わない。


 窓に映る自分の顔は、少し疲れていた。でも、目だけはまだ強かった。


「……見ててね」


 小さく呟く。


 誰に届くとも知れない言葉だった。

 それでも、胸の奥では確かな祈りだった。


    *


 そして、当日。


 会場に入った瞬間から、空気が違っていた。


 スタッフの足音。機材の音。インカム越しの声。メイクルームに漂うヘアスプレーと化粧品の匂い。温めた喉に通す白湯の湯気。衣装のきらめき。慌ただしいのに、どこか張りつめた静けさが底にある。


 大舞台特有の空気だった。


 ひかりは鏡の前に座り、メイクを施されながら、自分でも驚くほど落ち着いていた。もちろん緊張はある。足先は少し冷たいし、喉の奥もいつもより乾く。


 でも、怖さより先にくるものがあった。


 高揚。ここだ、という感覚。


 衣装をまとい、イヤモニをつけ、最後の確認を終えて舞台袖に立つと、客席のざわめきが低く響いてきた。幕の向こう側に、すでに何万人もの人がいる。開演前の期待に満ちた気配が、暗い空間の向こうからこちらへ押し寄せてくる。


 ひかりは目を閉じて、ゆっくり息を吸った。


 白い花の庭が浮かぶ。


 月の窓辺。礼拝堂。祭りの夜。雪の日。たくさんの人生が、ほんの一瞬で胸の奥を通り過ぎていく。


 全部、ここへ繋がっている。


 何度も届かなかった時間の果てで、ようやくここまで来たのだ。


 スタッフがカウントを送る。


 三。


 二。


 一。


 暗転。


 次の瞬間、世界が開いた。


    *


 最初の一曲目から、歓声は凄まじかった。


 照明が一斉に灯り、ステージが白く眩く浮かび上がる。巨大なスクリーンに自分の姿が映り、音の波が全身を打つ。足元から伝わる振動。客席一面に揺れる光の海。どこまでも続くような、人、人、人。


 綺麗だった。本当に綺麗だった。


 何度もステージには立ってきた。ツアーも経験した。けれど、ドームの景色はまったく別物だった。光の数が違う。熱量が違う。たくさんの人の期待と愛情がひとつの空間に集まると、こんなにも圧倒的な景色になるのかと、ひかりは歌いながら何度も思った。


 身体はよく動いた。


 リハーサル通りに、でもそれ以上に、自然に。カメラの位置も分かる。どこで手を伸ばせば客席まで気持ちよく抜けるかも、どこで笑えばスクリーン越しに一番きれいかも分かる。


 ちゃんと、届いている。


 歌うたび、歓声が返ってくる。名前を呼ぶ声が波のように重なる。スクリーンに自分の表情が映る。その光景の中で、ひかりはふと、泣きたくなるほど満たされていた。


 ここまで来た。

 ようやく、こんな場所まで。


 でも――


 その満たされていく感覚の底に、いつものように、ぽっかりとした空白がある。


 ひとり分の不在。

 誰より見てほしい人が、まだいない。


 その事実だけが、きらびやかな光景の真ん中で、薄い影みたいにひかりの胸に貼りついていた。


 曲と曲の合間、息を整えながら客席を見渡す。


 遠い。広い。果てしない。


 これだけの人がいても、ひとりを探すことなんてできない。そんなの分かっている。ずっと前から分かっている。それでも、つい見てしまうのだ。無意識のうちに、その人を探してしまう。


 いるはずがない、と思うのではない。

 いるかもしれない、と思ってしまうから。


 それがひかりの恋のいちばん厄介なところだった。


    *


 中盤、衣装替えを挟んでからのセットリストは、ひかりが特に大切にしている曲が並んでいた。


 あの冬に大きく伸びた曲も、その一つだった。


 イントロが流れた瞬間、客席から歓声がひときわ大きくなる。青白い照明が静かに客席を照らし、さっきまでの華やかさとは違う、少し冷たく、透明な空気が会場に満ちていく。


 ひかりはひとり、ステージ中央へ歩いた。


 足音だけがやけに鮮明に聞こえる気がした。イヤモニ越しの伴奏。胸の鼓動。大きな会場なのに、この曲の前だけは不思議と世界が静かになる。


 マイクを握り、歌い始める。


 最初のフレーズを口にした瞬間、空気が変わったのが分かった。さっきまでの熱い歓声とは違う、息を潜めて見守るような気配。何万人もの人が、同時に一曲へ集中していく感覚は何度経験しても特別だった。


 ひかりは歌いながら、自分の中の深いところへ潜っていく。


 届かない夜を越えて。

 それでも光を探してる。


 歌詞の一つひとつが、今の自分のためにあるみたいだった。声は広い会場へ伸びていく。スクリーンには、自分の顔が大きく映っているのだろう。でもひかり自身は、そんなことを半分も意識していなかった。


 ただ、歌の向こうへいる誰かを思っていた。


 見て。


 今の私を。


 ここまで来たの。


 そのときだった。


 客席の奥、無数の光のさらに向こうで、ひとつだけ、空気の質が違う場所があった。


 視線だ、とひかりは思った。


 ただ見られているだけではない。そんなものは、ステージに立てばいくらでもある。無数の人がこちらを見ているのだから。


 でも、それとは違った。

 その視線だけが、まっすぐだった。


 ひどく静かで、ひどく鋭くて、まるで何年も何年も探し続けてきたものが、ようやく目の前に現れたときみたいな、そんな重さを持っていた。


 ひかりの心臓が、一拍、強く鳴る。


 喉が震えそうになるのを、ぎりぎりで支えた。


 照明が強くて、客席の細かな顔までは見えない。スクリーン用のライト、ステージの白い明かり、遠い席の青い光。全部が重なって、人の輪郭は黒い群れのようにしか分からない。


 それなのに、そこだけは分かった。


 そこにいる。


 理由なんてない。証拠もない。


 でも、何度生まれ変わっても変わらなかったあの感覚が、身体の方が先に知っていた。


 いた。


 ひかりの胸が熱くなる。


 見つけた、ではない。


 違う。


 見つけてもらえた。


 その感覚に、視界が一瞬滲みそうになる。


 歌わなければならない。今はステージの上だ。何万人もの人が見ている。プロとして、最後まで歌い切らなくてはいけない。


 頭では分かっているのに、身体の奥はまるで別の時間を生きていた。


 最初の人生の月夜。

 祭りの夜の振り返り。

 礼拝堂の蝋燭。

 子どもの約束。


 全部が一気に押し寄せてくる。


 ようやく。


 ようやく。


 そう思った、その瞬間。


 ステージ上手の高い位置で、妙な音がした。


 きしむような、金属の悲鳴みたいな音。


 歌いながらも、ひかりの意識がそちらへ向く。照明機材の一部が、ありえない角度で揺れていた。ほんの一瞬、何が起きたのか理解できない。


 スタッフの叫び声がインカム越しに飛ぶ。

 悲鳴が、遅れて客席のどこかから上がる。


 世界が急に、現実へ引き戻される。

 ひかりが動くより早く、頭上の光が大きく傾いた。


 あ、と、思った。


 なぜか不思議なくらい冷静だった。


 だって、見つけてもらえたのだ。

 ほんの一瞬でも、確かに。


 眩しい光が、落ちてくる。


 視界の端で、客席のずっと奥にいる誰かが、前へ踏み出した気がした。


 その輪郭は、やはり見えない。


 でも、分かる。

 あなたでしょう。


 ひかりは最後に、泣きそうなくらい安堵した。


 よかった。


 ちゃんと見つけてもらえた。


 そう思った瞬間、世界が白く弾けた。



ご覧いただきありがとうございます。

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