第9話「役に立つ令嬢」
王立苦情処理局の薄暗い会議室に、朝から重苦しい沈黙とカビの匂いが漂っていた。
壁の塗装はところどころ剥がれ落ち、中央の長机には無数の深い傷が刻み込まれている。
毎週開かれる定例の局内会議で、エリシアは静かに立ち上がった。
純白の絹の手袋はいくつかの黒い染みで汚れているが、取り替えることなく身につけている。
公文書改ざん事件を経て、彼女の局内における立ち位置は変わっていた。
ただの左遷された令嬢ではなく、冷徹なまでに事実を見抜く恐ろしい存在——そういう認識だ。
局員たちは息を潜め、次にどんな厳しい指摘をされるかを恐る恐る待っている。
「先日のような悪質な公文書改ざんを防ぐために、記録保全の新しい手順を提案します」
エリシアの冷たく澄んだ声が、埃っぽい会議室の空気を切り裂いた。
「過去の重要な記録はすべて原本と写しの二重保管とし、保管場所を物理的に分散させます。さらに書庫への入室と閲覧記録を台帳に残し、すべての案件に通し番号を付与します。これによって誰かが恣意的に記録を抜き取ったり改ざんしたりする余地を完全に排除できます」
資料を読み上げるまでもなく、彼女の明晰な頭脳は完璧なシステムをすでに構築していた。
一切の隙がない、極めて合理的で反論の余地すら与えない提案だ。
ユリウスは腕を組んだまま無言で聞いていたが、短く乾いた声で即座に決断を下した。
「採用だ。明日からすぐに新しい手順へ移行できるように、必要な台帳と棚を手配しろ」
しかし長机の向こう側に座る庶務方の年配局員たちは、露骨に不快そうな顔を曇らせた。
「そんな面倒な確認作業を増やされたら、日々の細々とした業務が回らなくなりますよ」
無精髭の若い局員もそれに同調し、ひどく面倒くさそうに大きなため息をついた。
「ただでさえ処理しきれないほどの苦情が毎日届いているのに。これ以上余計な仕事を増やされたら家に帰れなくなっちまいますよ」
彼らが不満を抱く理由は、作業量が増えることだけではない。
左遷されてきたよそ者が、長年の流儀を正論であっさり切り捨てたことへの反発だ。
曖昧なルールのもとでなあなあに済ませてきた心地よい空間が、破壊されることへの恐れでもある。
エリシアは彼らの露骨な視線から、その隠しきれない怒りを正確に読み取っていた。
先日、バルテン局長の執務室で言われた言葉が脳裏をよぎる——人間という生き物は、決して論理という名の冷たい紙や正確な規則の束だけで生きているわけではない。
ここで彼らの苦労に触れる言葉を一言選べば、この場の空気は違ったものになるかもしれない。
しかし、王宮の舞踏会で理不尽な感情に切り捨てられたあの夜の痛ましい記憶が蘇る。
他者に安易に迎合することへの強い恐怖が、彼女の心を冷たく強張らせていくのを感じた。
自分がここで同情や妥協を見せてしまえば、真実を見抜くための鋭い武器を失ってしまう気がした。
彼女は自分の弱さをひた隠しにするように、無表情の仮面をさらに深く被り直した。
「手順の変更に慣れるまでは、確かに多少の負担が増えることは理解しています」
一見すると彼らの苦労に配慮しているかのように聞こえた。しかし直後に続く言葉は、あまりにも冷徹で温度を持たない事実の刃だった。
「ですが、記録の安全を確保するための手順として、これが最も正しい方法であるなら従うべきでしょう」
静かな会議室に響き渡った瞬間、周囲の空気が急速に冷え込み、重い沈黙が落ちた。
確かに正論だ。実務の観点から見れば一切の非の打ち所がない。
しかしその正しさは、彼らへの理解ではなく「ただ従え」と言っているようにしか響かなかった。
血の通っていない機械が冷酷な命令を下しているかのような冷たさだ。
人の心は、正しいからといって動くものではない。感情が納得してはじめて前に進む——その決定的な配慮の欠如が、彼女の言葉から温もりを完全に奪っていた。
局員たちは一様に口を閉ざし、あきらめたように視線を逸らして反論を飲み込んだ。
文句を言っても論破されるだけだと悟った彼らの顔には、明らかな拒絶の色が浮かんでいる。
目には見えない、決して埋まらない小さな距離が生まれていた。
ユリウスはそんな様子を静かに見つめていたが、あえて何も口を挟まなかった。
会議は表面上の手続きだけを進めて静かに終わった。
局員たちは誰一人として彼女に声をかけず、足早に部屋を出ていく。
古びた木製のドアが重い音を立てて閉まり、誰もいなくなった薄暗い会議室に彼女だけが残される。
エリシアが一人で資料の紙束をトントンと揃える乾いた音だけが、澱んだ空気に虚しく響き渡った。
自分が投げ放った正論が、彼らの心をさらに遠ざけてしまったことをはっきりと自覚する。
正しさだけでは人の心は動かせない——その残酷な事実が、鋭い棘となって胸を小さく刺した。
だが彼女は後悔の表情を浮かべることなく、資料を真っ直ぐに揃えた。
たとえ誰からも理解されず、冷たい人間だと孤立しようとも——彼女にはこの道しかないのだ。
窓から差し込む朝の冷たい光が、机の上に置かれた純白の手袋を、ただ静かに照らし出していた。




