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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第8話「局長の昼寝」

騒ぎが収束した王立苦情処理局の執務室には、重苦しい静寂と古い紙の匂いが戻っていた。

窓から差し込む夕暮れの光が、空中に舞う埃を白く照らし出し、部屋全体をどこか物悲しい黄金色に染め上げている。


エリシアは傷だらけのデスクに向かい、目前の書類の山と向き合い続けていた。

公文書を改ざんした男が引きずられていった後の部屋の空気は、白々しく冷え切ったままだ。


遠巻きに見つめる局員たちは彼女の冷徹な論理を恐れ、ひそひそと声を潜めて何事かを交わしている。

「冷たい人だな」——あの無責任な囁きが、今も耳の奥にこびりついていた。

婚約破棄の夜に叩きつけられた無数の嘲笑が、暗い記憶の底から蘇ってきそうになる。


彼女はそんな感情の波を深い呼吸で遮断し、ただ目前の書類へと視線を落とした。

他人の憶測や同情など、真実を見極めるためには不純物でしかない——そう自分に言い聞かせながら。


そこへ、部屋の奥の重厚な木製の扉がゆっくりと開き、局長のバルテンが静かに姿を現した。


普段は執務室の奥の椅子で昼寝ばかりしている老官吏で、局員たちからも半ば呆れられている存在だ。

白髪交じりの頭を無造作に掻きながら大きなあくびをするその姿は、到底この部署の長には見えない。


しかし彼がエリシアのデスクの前に歩み寄ったとき、その細く垂れた目の奥に鋭い知性の光が宿っているように見えた。


「君がいちいち局員たちの怯えた視線を気にするような、ひ弱な令嬢ではなくて私は心底安心したよ」


場違いなほど穏やかな声が、白々しく冷えた空気を一瞬にして霧散させた。

一見無能に見える老官吏が部屋の空気をいとも簡単に支配してしまったことに、エリシアは微かな驚きを覚えた。


「エリシア君、少し私の部屋まで来てもらえるかな」


エリシアはペンを静かにインク壺に戻し、老局長の少し曲がった背中をゆっくりと追った。


バルテンの執務室は外の部屋以上に埃っぽく、書類の束が壁際にどこまでも高く積み上げられている。

窓際には飲みかけの冷めた茶が置かれたままで、一見すると怠け者の部屋にしか見えない。

彼は古びた革張りの大きな椅子にどっかと腰を下ろし、エリシアにも対面の木製の椅子に座るよう促した。


「先ほどの公文書改ざん騒ぎの顛末はすべて聞いたよ。あの気難しいユリウスが君の提案を即座に採用するとは、非常に珍しいことだと感心していたところだ」


「だが君はあの男の悲惨な個人的事情には、一切耳を貸さなかったそうじゃないか」


エリシアは背筋を伸ばしたまま、微塵の感情も交えずに答えた。


「個人的な同情や事情を考慮して事実を不当に歪めることは、この場所の果たすべき本来の役割に完全に反すると判断しました」


バルテンは彼女の冷徹な返答を聞いても顔をしかめず、むしろ面白そうに口元をほころばせた。


「確かに事実を正確に処理することは大切だ。だが我々が毎日扱っているのは、ただの文字が書かれた紙切れではない」


「君は毎日届くこの泥臭い苦情の山を、単なる厄介な面倒事の集まりだと感じているかね」


「いいえ、私はただ迅速かつ正確に処理すべき、組織の課題だと認識しております」


バルテンは小さく首を横に振ると、窓から差し込む夕暮れの光に目を細めながら静かに語り始めた。


「苦情とは決して単なる面倒事などではなく、この国の民がまだ我々を完全には見限っていないという確かな証拠なのだよ」


「本当に絶望してこの国を見限った者は、ただ深く沈黙する。怒りや悲しみを訴えることすら、しないのだ」


「この埃まみれの紙束に込められた泥臭い感情は、明日を少しでも良くしたいという彼らの切実な願いの裏返しでもある」


エリシアはこれまで、文字の奥の物理的な痕跡から事実という冷たい構造だけを読み取り、不要な感情を切り捨ててきた。

しかし目の前の老局長は、それらの事実を生み出した人間の——まだ捨てきれないかすかな希望や熱に、温かい光を当てたのだ。


彼女はその言葉の深い意味に心を動かされそうになったが、悟られないように無表情の仮面を貫き通した。

純白の手袋に包まれた両手を膝の上で固く握りしめ、次の言葉を待つ。


「君は紙の向こう側に隠された腐敗した病理を論理的に見抜くという、素晴らしい才能を確かに持っている」


「だが人間という生き物は、決して論理という名の冷たい紙や正確な規則の束だけを頼りにして生きているわけではないのだよ」


その言葉は先ほど局員から投げつけられた「冷たい人」という非難と重なり、彼女の心の奥の柔らかい部分を鋭く突いた。


冷徹な事実という武器だけでは、人間の弱さや愚かさを本当の意味で救うことはできないのか——その問いの重みが、今の彼女にはまだ完全には理解できていなかった。


それでも彼女は、この薄暗く埃っぽい執務室の空気が、王宮の華やかな広間よりもはるかに息がしやすいと確かに感じていた。


バルテンの言葉には、ただ事実だけを切り取る彼女の視野を少しだけ広げようとする、親のような温かい響きがあった。

自分がここで確かな能力を認められているという事実が、絶望で強張った心をわずかにほぐしていく。


「貴重なお言葉をいただき、心より感謝いたします」


エリシアは深く頭を下げ、老局長の散らかった執務室を静かに後にした。


薄暗い廊下に出ると澱んだカビの匂いが鼻を突いたが、不思議と先ほどまでの息苦しさは感じられなかった。


自分のデスクに戻り、山積みの未処理の投書と向き合う。

局員たちは相変わらず遠巻きに怯えた目で見ているが、もはやそんな視線はどうでもよかった。


純白の手袋はいくつかの染みで汚れているが、それは自らの意志で事実と戦った証だ。


人は紙だけでは生きていない——その言葉の意味を探るように、彼女は一枚の粗末で汚れた紙片をそっと手に取った。

そこには見知らぬ誰かの生活の苦しい息遣いと、理不尽な現実への悲痛な叫びが刻まれている。


それがこの国をまだ見限っていないという証拠なのだとすれば、自分はその微かな声に全力で応える義務があるのではないか。


エリシアは大きく息を吸い込んで姿勢を正すと、インク壺にペン先を浸して文字を書き連ねていく。


カリカリという硬いペンの音が薄暗い部屋に孤独なリズムとして響き渡り、彼女の新たな戦いの始まりを静かに告げていた。


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