第7話「消された苦情」
王立苦情処理局の薄暗い廊下を、エリシアは地味な濃紺のドレスの裾を揺らして進んでいく。
その少し前を歩くユリウスは、擦り切れた外套を翻しながら獲物を追う猟犬のような気配を放っていた。
二人が向かった先は、庶務係の男が身を潜めている薄暗い資料室だ。
ユリウスが重い木製のドアを荒々しく押し開けると、古い紙と黴の臭気がどっと溢れ出した。
男は山積みの書類の陰でびくっと肩を跳ねさせ、震える手で革のカバンに荷物を詰め込もうとしている最中だった。
慌てる指先が金具に引っかかり、カバンの口が歪に開いたままになっている。
額にじっとりと脂汗が浮かび、ユリウスたちの姿を捉えた瞬間——その目に絶望の色が広がった。
手から滑り落ちた書類がカサカサと床に散らばる。
「どこへ逃げるつもりだ」
ユリウスの低く圧のある声が資料室に鋭く響いた。
男は引きつった笑みを浮かべ、「急に別の部署から古い書類の整理を頼まれまして」と言い訳を並べた。
しかしユリウスが無言で立ちふさがる。分厚い胸板と広い肩幅が与える威圧感が、男から一切の退路を奪っていた。
エリシアが静かに進み出て、一冊の分厚い記録簿を男の目の前に差し出した。
微かに汚れた純白の手袋が、背に巻き付けられた真新しい綴じ糸を的確に指し示す。
「急いで逃げ隠れする必要などありません。あなたの本当の仕事はすでに終わっているはずですから」
男の顔が土気色に変わり、後ずさって背中を壁に打ち付けた。棚から崩れ落ちた古い紙片がハラハラと舞い、男の震える肩に降り積もっていく。
「あなたが持ち出したこの記録簿には、南区の工場から出る悪質な廃液に関する古い苦情が綴じられていました」
エリシアは重い記録簿のページをめくり、特定の箇所を開いて突きつける。
「ですが今は無害な隣人トラブルの報告書にすり替えられ、処理済みの赤い印まで押されています」
男は口をぱくぱくと動かして言い訳しようとする。しかし声が喉の奥に張り付いて出てこない。
「ただの綴じ間違いだ。古い記録簿なんて誰も管理していないんだから、紙が紛れ込むことだってあるだろう」
エリシアの表情は全く動かない。言葉を荒げることなく、淡々と事実の壁を一つずつ積み上げていく。
「おかしなことですね。数年前に綴じられたはずの紙の束なのに、この一枚だけ綴じ穴の周りに摩擦の跡が全く残っていない」
「さらにページをまたいで押されているはずの保管印の模様が、この新しい報告書の前後でわずかにズレています」
男の額から冷や汗が流れ落ち、両膝がガクガクと震え始める。
「極めつけは——備品室から新しい紙と蝋と糸が持ち出された時間と、あなたがこの資料室の鍵を借りた出入り記録が完全に一致していることです。備品紛失という小さな騒ぎは、この重大な公文書改ざんを隠すための目くらましに過ぎません」
その最後の一撃に、庶務係の男はついに膝から崩れ落ち、埃まみれの床に両手をついた。
「違うんだ。工場から借金の返済を迫られて、家族の命を奪うぞと脅されて仕方なくやったんだ」
男は床に額を擦りつけながら涙と鼻水を顔いっぱいに流して命乞いをした。家族を守るためにやむを得ず——その悲痛な叫びが薄暗い部屋の壁に反響する。
しかしエリシアは冷たい無表情のまま彼を見下ろした。
「ご事情はしっかりと把握いたしました。ですが公文書改ざんというあなたの犯した事実は何も変わりません」
彼女はすぐにユリウスへ向き直った。
「次席。今後このような改ざんを防ぐために、重要記録の保管体制を根本から見直す必要があります。過去の記録はすべて原本と写しの二重保管とし、書庫への入室と閲覧履歴を必ず台帳に残す記録制を今すぐ導入すべきです」
一人の犯人を追い詰める段階を終え、彼女の思考はすでに組織の防御策の構築へと移行している。
ユリウスは泣き崩れる男を冷淡に見下ろしたまま、小さく顎を引いた。
「採用だ。まずはこいつを警備に引き渡す」
騒ぎを聞きつけて集まっていた他の局員たちは、完璧な追及を目の当たりにして息を呑んでいる。
しかし彼らの目には、有能な英雄への尊敬ではなく——血の通っていない怪物を見るような怯えがはっきりと浮かんでいた。
不正をただすことは正しいと分かっていても、泣き叫ぶ弱者を容赦なく叩き潰す姿に、本能的な恐怖を覚えたのだ。
男が警備の者に両脇を抱えられて引きずられていく。廊下の奥へと消えるその惨めな背中を、誰もが無言で見送った。
エリシアが自分のデスクへ歩き出した時、背後の物陰から若い局員が隣の初老の男へひそひそと囁いた。
「いくら相手が悪いとはいえ、少しは事情を聞いて情けをかけてやってもいいのに。本当に冷たい人だな」
声を潜めたつもりだったのだろうが、静まり返った空間でその言葉はエリシアの耳にはっきりと届いた。
彼女の歩みが一瞬だけ止まる。
婚約破棄された夜に叩きつけられた無数の嘲笑が、暗い記憶の底から蘇ってくる。
真実を見ようともせず、勝手な印象だけで断罪したあの夜だ。
手袋の下の爪痕がズキズキと焼け付く。熱い涙が瞳の奥に呼び込まれそうになる——が、彼女はその痛みを深い呼吸とともに飲み込んだ。
ここで感情に流されれば、自分を不当に追い出した王宮の連中と同じになる。
彼女は振り返ることなく、重い歩みを再び進めた。
傷だらけの古びたデスクに静かに腰を下ろし、一番上の紙を引き寄せる。
純白の手袋はいくつかの染みで汚れているが、取り替えようとはしなかった。
カリカリという硬いペンの音だけが、澱んだ空気の部屋に孤独で力強いリズムを刻み始めた。




