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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第4話「王都の外れの役所」

「一時間で十分です」というエリシアの凛とした声が響いた後、執務室には奇妙な静寂が落ちていた。

王立苦情処理局の薄暗い部屋には、長年換気もされずに澱んだ古い紙の匂いが深く染み付いている。

壁沿いの本棚には黄ばんだ書類が無造作に押し込まれ、床の石板のひびにまで埃が入り込んでいた。

高い位置にある小さな窓から差し込む陽光は、舞い散る埃の粒子をただ白く浮き上がらせるだけである。

エリシアは傷だらけの古びたデスクに座り、ユリウスから投げ出された雑多な投書の山と対峙していた。


明日までに分類しろという次席監察官の冷淡な命令に対し、彼女は迷うことなく言い切ってみせたのだ。

部屋の奥にだらしなく腰掛けている二人の局員たちは、身の程知らずな令嬢の虚勢だと決めつけている。

彼らにとって彼女は王宮の華やかな舞台から滑り落ちた哀れな敗北者であり、見下す対象でしかなかった。

泥臭い実務など到底こなせるはずがないお飾りの存在だと、彼らは遠巻きに明らかな嘲笑の視線を向けている。

しかしエリシアは彼らの無遠慮な視線を意に介さず、姿勢を真っ直ぐに正して目前の書類を見据えていた。


彼女の目の前に積まれた投書の束からは、王宮の甘い香水とは対極にある生々しい匂いが放たれている。

泥と油と生活の汚れが染み付いたそれらは、華やかな王宮の秩序の中では決して顧みられることのないものだ。

最初から見捨てられることが運命づけられているような惨めな声の集積が、この机の上に確かに存在している。

かつての彼女であればこのような不潔な文書は、一瞥しただけで価値のないゴミとして容赦なく切り捨てていただろう。

だが理不尽な婚約破棄の夜に一方的に断罪された彼女は、事実を無視して物事を判断する恐ろしさを骨の髄まで知っている。


王太子レオンハルトは可憐に涙を流すミレーユの姿だけを見て、彼女を保護すべき弱者だと無自覚に判断したのだ。

そして涙を見せなかったエリシアの態度だけを根拠に、彼女を冷酷な悪女だと一方的に決めつけてしまったのである。

そこには客観的な証拠も論理的な裏付けも何一つ存在せず、ただその場を支配した感情的な空気だけがあった。

もし自分がこの汚れた紙切れを読みにくいという理由だけで弾いてしまえば、あの無責任な権力者たちと同じ過ちを犯すことになる。

エリシアは小さく息を吸い込み、純白の絹の手袋に包まれた両手を自らの膝の上でそっと固く握りしめた。


手袋の下には昨夜の屈辱に耐えるために自らの爪を深く食い込ませた痛ましい痕跡が、今もなお熱を持って残っている。

その痛みが彼女の理性を鋭く研ぎ澄ませ、世界を見極めるための恐ろしいほどの集中力を呼び覚ましていくのを感じた。

彼女は王太子妃教育において、王国の複雑な法典や歴史や緻密な経済状況を誰よりも厳しく徹底的に叩き込まれてきた。

当時はただ次期王妃としての完璧な教養を見せつけるための無機質な知識の詰め込みにすぎなかったはずである。

だが今この泥臭い役所において、その膨大な知識の蓄積は隠された真実を暴き出すための最強の武器へと変貌を遂げていた。


自分のデスクで革手帳を開いているユリウスも、実は視線の端でエリシアの動きを密かに鋭く観察し続けていた。

彼は王宮から左遷されてきたプライドの高い令嬢が、この埃まみれの環境に耐えきれずにすぐ逃げ出すと予想していたのだ。

これまでに配属されてきた貴族の役人たちは皆一様に絶望し、何も生み出すことなくこの掃き溜めから消えていった。

しかし彼女は不満を漏らすどころか自分の与えられた仕事を誰よりも正確に、そして恐ろしいほどの執念でこなそうとしている。

彼の無愛想な瞳の奥には、エリシアの卓越した精神力に対するわずかな驚きと実務官としての興味の光が微かに宿っていた。


同情や慰めといったあやふやな感情を一切排し、ただ役に立つかどうかという冷酷な基準だけがここには存在している。

その厳しい基準において彼女は間違いなく彼のお眼鏡にかなう存在になるための、最初の過酷な試練の場に立たされているのだ。

一時間のタイムリミットが刻一刻と迫る中、エリシアは決して焦ることなく自らの心を氷のように冷たく静かに整えていった。

まずは感情的な愚痴と緊急に対処すべき案件を見分けるための、明確な論理の基準を頭の中に完璧に構築していくのである。

本当に絶望して助けを求めている者の声と、悪意や自己中心的な欲望から他者を陥れようとする偽装された不純な雑音。


その二つを正確に分ける決定的な境界線を見極めるための緻密な準備が、彼女の冷徹な思考の中で完全に終了しようとしている。

この部屋の淀んだ空気の中で誰の助けも借りることなく、自らの力だけで真実への道を切り拓かなければならない。

エリシアは微かに汚れた純白の手袋の指先を一つずつ丁寧に整え直し、目前に積まれた書類の山へと静かに手を伸ばした。

束を縛っていた粗末な麻紐に白く細い指をかけ、これから始まる果てしない実務の戦いへ向けて静かに息を整える。

王宮から追放された傷ついた令嬢の孤独な戦いが、この泥まみれの書類の山の中から確かな産声を上げようとしていた。


見限られた者たちの切実な悲鳴を拾い上げるための第一歩として、彼女はいよいよその分厚い投書の束の紐をゆっくりと解き始めた。

これから彼女が目にするのは、綺麗な言葉で飾られた貴族の社交辞令ではなく、血の通った生身の人間たちのリアルな叫びである。

彼女の心にはもはや恐怖も迷いもなく、ただ事実を論理で切り裂くという揺るぎない覚悟だけが静かに燃え上がっていたのである。


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