第3話「掃き溜めの初登庁」
夜が明け、王都を淡い朝靄が包んでいた。
ローゼンベルク侯爵邸のエントランスには、一台の質素な黒塗りの馬車がひっそりと停まっている。家紋も装飾も一切ない、目立たない馬車だ。
エリシアは濃紺の実務的なドレスに身を包み、石段の前に真っ直ぐ立っていた。昨夜の純白のドレスとは対極にある、地味で硬い印象の装いだ。
両手には新しい純白の絹の手袋がしっかりと嵌められている。昨夜の爪痕は、その滑らかな布地の下に隠されていた。
「エリシア……」
見送りに来た母がハンカチをきつく握りしめ、弱々しく娘の名を呼ぶ。その横で父も苦渋の表情を浮かべ、無言で立っていた。
心配する両親の愛情には心から感謝しているが、その優しさに甘えれば、ようやく固めた決意が揺らぐことを彼女は知っていた。
エリシアは深く完璧なカーテシーを見せた。
「行ってまいります、お父様、お母様。どうかご心配なく」
それだけを告げ、振り返らず馬車に乗り込む。
車輪が動き出し、見慣れた庭園が窓の後ろへ遠ざかっていく。
馬車は朝の冷気を切り裂きながら王宮の敷地へと入った。
窓の外には朝日に照らされた白い尖塔が見える。彼女が十七年間すべてを捧げてきた場所だ。
だが今、馬車はその輝かしい中心部には向かわない。華やかな正門を過ぎ、人気のない裏道へそれていく。
辿り着いたのは、高い城壁の影にひっそりと建つ古い石造りの塔だった。
それが彼女の新たな配属先——王立苦情処理局である。
馬車を降りたエリシアは、カビと湿った土の匂いが漂う廊下を進んだ。
壁の漆喰は剥がれ落ち、床の石板にはひびが入っている。靴音が冷たい空間に虚しく響いた。
一番奥の重い木製のドアに手をかけ、ゆっくり押し開ける。
ギイッと錆びた蝶番が不快な音を立てた。
部屋の中は長年換気もされていない埃っぽい空気に満ちていた。
壁沿いには高さの不揃いな本棚が並び、黄ばんだ紙の束が今にも崩れそうに積み上がっている。床にも無数の書類が散乱し、足の踏み場を探すのすら苦労するほどだ。
部屋の奥に古びたデスクが三つあり、二人の男がだらしなく腰掛けていた。
一人は白髪交じりの初老の男で、足を机に乗せて帽子を顔に乗せたまま居眠りしている。もう一人は無精髭の若い男で、気怠そうに虚空を眺めていた。
ドアの音に気づいた若い男が面倒くさそうに視線を向ける。入り口に立つエリシアの姿を認めた瞬間、顔つきがはっきりと変わった。
驚き、次いでひどく面白がるような色が目に浮かぶ。彼は隣のデスクを足で蹴り、初老の男を起こした。
二人は顔を見合わせると、口の端を歪めて下品な笑みを浮かべた。
「本日付でこちらに配属されました、エリシア・フォン・ローゼンベルクと申します。よろしくお願いいたします」
エリシアは背筋を伸ばし、澄んだ声で静かに挨拶した。完璧な礼儀作法は、埃まみれのこの部屋にひどく場違いだった。
「……マジかよ。本当にここに来たのか」
若い男が頭を掻きながら呆れたようにため息をつく。
「王太子の元婚約者様がこんなゴミ捨て場に何の用ですかね。ここは箱入りのお姫様が来る場所じゃない。見ての通り何もない、誰も何もしない。時間が過ぎるのを待つだけの底辺だ。絶望して泣いて帰るなら今のうちだぜ」
男の言葉は棘に満ちていた。
だがエリシアは静かに目を伏せ、右手で左手の手袋の端にそっと触れるだけだった。
布地越しに、昨夜の爪痕が微かに痛む。
その痛みが彼女の理性を鋭く研ぎ澄ます——同情も嘲笑も、事実に基づかない無責任な空気に過ぎない。彼女が戦うべき相手は、感情で物事を決めるその空気そのものだ。
「お気遣い感謝いたします。ですが私はここへ、職務を全うするために参りました」
顔を上げたとき、その瞳には冷たい意志の光が宿っていた。
彼女は迷いのない足取りで部屋へ進み、最も書類が山積みになっているデスクの前で止まる。
「これらはすべて、市民や地方から寄せられた陳情書や苦情の類ですね?」
「ああそうだが。誰も読まねえよ、そんな紙クズ。真面目に処理して上に回したところで黙殺されるだけだからな」
男の投げやりな言葉を聞きながら、エリシアは散乱する書類へ視線を落とした。
苦情とは、本来なら面倒な雑音として処理されるものだ。
だがそれは同時に、誰かが理不尽な現実に耐えきれずに上げた切実な声でもある。
昨夜の広間で証拠もないまま空気だけで切り捨てられた自分が、今度は誰かから見捨てられた声の集まる場所に立っている。
なんという皮肉か。しかしエリシアは、その皮肉を静かに、真っ直ぐに受け止めていた。
懐からレースのハンカチを取り出し、椅子と机の埃を丁寧に拭き取る。
純白の手袋が汚れることなど気にせず、そこに静かに腰を下ろした。
「あなた方が読まないというのであれば、私がすべて目を通します」
書類の束を縛っていた紐を解き、中身に素早く視線を落とす。古いインクとカビの混じった匂いが立ち昇った。
「な、正気かよ。そんな異常な数、一生かかっても終わらねえぞ」
「一生かける必要などありません。これしきの量、数日もあれば分類できます」
エリシアの目はすでに書類の文字を恐ろしい速度で追い始めていた。一枚手に取るたび、視線が滑るように要点だけを瞬時に拾い上げる。
「……王都東区の第三橋梁の修繕に関する陳情。すでに半年前に予算が降りているはずですが、工事が未着工。施工業者はダントン商会。財務局の監査記録と照らし合わせれば、横領の疑いがありますね」
次の書類を手にする。
「……南部穀倉地帯の小作農からの直訴状。不当な税の取り立てと土地の強制収用について。関係貴族の名は……なるほど」
署名を見てピタリと手を止め、エリシアは冷たく目を細めた。口元に微かな笑みが浮かぶ。
二人の男は完全に言葉を失い、次々と書類を正確に仕分けしていく彼女の処理速度を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
「おい待てよ!そんな案件をまともに掘り返したら、王宮の上層部が黙っちゃいねえぞ。俺たちまで巻き添えを食う!」
慌てて止めに入ろうとする若い男に対し、エリシアは顔を上げることもなくペンを走らせ続けた。
「黙っていないのであれば大いに騒いでもらいましょう。私はすでに婚約破棄されすべてを失った身です。これ以上失うものなど何もありません」
不敵な笑みが浮かんだ。
「これほど多くの事実が、誰の目にも触れないまま放置されているとは。ここは出世の墓場などではなく、この国の真実に最も近い場所のようです」
エリシアは静かに顔を上げ、男を真っ直ぐに見据えた。
「あなた方の手伝いは不要です。ですが邪魔をすることだけは、決して許しません」
再び視線を書類に戻す。
純白の手袋に包まれた指先が、流れるような動きで紙に文字を書き連ねる。
カリカリという硬いペンの音だけが、埃まみれの部屋に冷たく静かに響き続けた。
それからさらに数時間が経った頃、部屋の重い木製ドアが荒々しく開いた。
錆びた蝶番がギイッと音を立て、一人の男が入ってくる。
質の良い貴族の服ではなく、使い込まれた雨除けの外套だ。手には分厚い革手帳が握られ、無骨な指先には消えないインクの染みと土の汚れがこびりついていた。
「あ、次席。お戻りで……」
無精髭の若い局員が慌てて立ち上がり、背筋を伸ばした。
次席監察官、ユリウス・グランツ。この怠惰な二人とは違い、出世の墓場と呼ばれるこの部署で唯一まともに実務を回している男だった。
外回りから戻ったばかりの彼は、王宮の甘い香水とは対極にある疲労と土埃の匂いを引き連れていた。
ユリウスは局員の挨拶に短く顎で応えただけで、すぐに部屋の異変に気づいた。
彼の鋭い視線は、エリシアのデスクの上に整然と積み上がり始めた書類の束へ真っ直ぐ向けられた。
長い脚で足早にデスクへ歩み寄る。
「そっちの右の束。財務局の監査分だな」
挨拶も何もなく、実務の確認だけが低く乾いた声で放たれた。即断を思わせる鋭い響きだ。
「地方税の不服申し立てと混ぜるな。処理の管轄が違う」
エリシアはペンを止め、静かに彼を見上げた。
「申し訳ありません。ですがこの地方税の申し立ての裏には、監査対象となる不正な資金の流れが示唆されています。証拠として同時に回す方が効率的だと判断しました」
ユリウスの眉が微かに動いた。彼はそこで初めて、エリシアの顔をまじまじと見た。
沈黙が落ちた瞬間、若い局員が気まずそうに口を挟んだ。
「あ、いや、その……彼女は本日付で配属されてきた新人でして。例の、昨夜の舞踏会で婚約破棄された元王太子妃候補の令嬢で……」
「新任か。名前は」
ユリウスは局員の言葉を片手で遮り、エリシアの目だけを見た。
「エリシア・フォン・ローゼンベルクと申します」
エリシアは立ち上がり、背筋を真っ直ぐに伸ばして名乗った。
ユリウスの目は冷徹そのものだった。完璧な礼法にも、銀色の髪にも、質の高いドレスにも一切の関心を示さない。
「侯爵家の令嬢だろうが、元王太子妃候補だろうが、ここは関係ない」
無愛想に言い放つ。
「ここは箱庭じゃない。働けるなら使う。使えないなら帰れ。それだけだ」
その言葉に、エリシアは微かに目を見開いた。
昨夜の広間では、誰もが彼女を「冷酷な女」という印象で断罪した。今朝の局員たちも「哀れな敗北者」として嘲った。
だが目の前のこの男は違う。悪女という噂にも肩書きにも一切興味を示さず、ただ役に立つかどうかだけを問う。
その冷徹な実力主義は、空気に支配された王宮の論理とは全く別のものだった。
「……承知いたしました。私がどのように使えるか、お見せいたしましょう」
エリシアは一切ひるまず静かに応じた。
ユリウスは小さく鼻を鳴らすと、小脇に抱えていた新しい投書の束をドンとデスクに乱暴に置いた。
「なら、これをやれ。各地から届いた雑多な投書だ。ただの愚痴か、緊急に対処すべき案件か分けろ。明日までにだ」
「明日まで、ですか」
エリシアは束の厚みを見て、涼しい顔で言い返した。
「一時間で十分です」
ユリウスは何も言わず、わずかに目を細めた。
そして無言のまま踵を返し、自分のデスクへ向かう。外套を脱ぎ捨て、革手帳を広げると、すぐに別の実務へ没頭し始めた。
エリシアは再び自分のデスクに座った。
手元の投書の束は、長旅を経てきたのかひどく汚れている。
泥の跳ねた跡、油じみ、幾重にも重なった手垢の汚れ。華やかな王宮の書簡には決して見られない、生活の生々しい残滓だ。
彼女は無意識に、手袋の指先で一番上の紙の埃をそっと払った。
滑らかな布地が黒く汚れるが、それをいとわなかった。ここでは肩書きは意味を持たない。
手袋の下には、昨夜感情を押し殺すために刻んだ爪痕が残っている。誰にも理解されず、空気に切り捨てられた屈辱の傷だ。
しかし今、彼女の心には奇妙な静けさがあった。
ユリウスの態度は決して同情ではない。ただ役立つものとして扱うという、冷たい宣言に過ぎない。
だが少なくともここでは、根拠のない印象で断罪されることはない。
好かれる必要も、微笑む必要もない。ただ事実を拾い上げ、正しく処理しさえすればここに存在できる。
エリシアは束の紐を静かに解き、一枚目の投書を手に取った。
カリカリという硬いペンの音だけが、埃まみれの部屋に再び冷たく静かに響き始めた。




