第2話「泣けない夜」
馬車がローゼンベルク侯爵邸の重厚な鉄門をくぐり抜けた。
砂利を噛む車輪の音が、夜の静寂に重く響く。
エリシアは背筋を伸ばしたまま、暗闇に浮かぶ我が家の輪郭をじっと見つめていた。
幼い頃から見慣れた場所のはずだ。普段ならエントランスに温かな光が灯り、疲れた帰還を迎えてくれる。
しかし今夜の邸宅は、息苦しいほどの静けさに包まれていた。
玄関前には、本来休んでいるはずの使用人たちがずらりと並んで待機している。
王宮からの通達は、彼女より先にこの家にも届いていたのだろう。
彼らの顔には戸惑いと不安が浮かび、誰も言葉を発しなかった。
馬車が止まると、エリシアは従僕の手を借りず自らの足で降りた。
冷たい夜気が肌を撫で、純白のドレスの裾をふわりと揺らす。
使用人たちは深く頭を下げたが、「お帰りなさいませ」の声はなかった。
同情と哀れみの混じった視線が背中に刺さる。しかしエリシアは振り返らない。
表情を一切崩さず、石段を真っ直ぐに上っていく。
玄関ホールに足を踏み入れると、両親が待ち構えていた。
父のローゼンベルク侯爵は激しい怒りと深い苦悩に顔を染めている。どんな政治的困難にも冷静沈着な彼が、今夜は額に青筋を立てていた。
母は口元をハンカチで覆い、今にも泣き出しそうな表情で娘を見つめている。
「エリシア、戻ったか。婚約破棄だと。信じがたい通達が届いた」
父の声は地を這うように低く、湧き上がる怒りを押し殺していた。
エリシアは両手を前で静かに組み、深く一礼した。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。通達の通りです」
「ふざけるな。正式な手続きも経ていない決定だぞ。しかも苦情処理局だと?我が家を、そしてお前を侮辱している」
父は大理石の床を革靴の踵で強く踏み鳴らした。鋭い音が張り詰めた空気を震わせる。
ギリッと奥歯を噛みしめる音が、静まり返ったホールに痛々しく響いた。
「殿下のご意志による特例として、すでに水面下で処理が進められているらしい。我々は手出しができない状態だ」
きつく握られた拳は白く震え、手の甲には青筋がくっきり浮かんでいる。父は苦しげに目を伏せ、絞り出すような声で続けた。
「あの掃き溜めのような部署に、お前をやることになるなんて」
「旦那様、今はそのお話は……。エリシア、私の可哀想な娘」
母が涙声で父を制し、ふらつきながらエリシアの前に進み出た。
大粒の涙をこぼしながら両腕を広げ、娘をきつく抱きしめようとする。
その温かさが、エリシアの強張った心を激しく揺さぶった。
だが彼女の身体は反射的に一歩後ろへ引いた。
母の腕は空を切り、虚しく宙をさまよう。行き場を失った指先が、微かに震えて止まった。
「エリシア……?」
母がひどく傷ついたように目を見開く。握りしめたレースのハンカチが小刻みに揺れた。
エリシアは自分の反応に驚きつつも、顔だけは崩さなかった。
「ごめんなさい、お母様。少し疲れました。自室で休ませてください」
今ここで母の腕に触れてしまえば、すべてが音を立てて崩れる。張り詰めた感情の糸がプツリと切れ、そのまま床に泣き崩れてしまうことが自分でも分かっていた。
今夜だけは、泣くことだけは避けなければならなかった。
痛ましそうに見つめる両親を残して、エリシアは足早に大階段へと向かった。
自室の重いオーク材の扉を閉めると、完全な静寂が彼女を包み込んだ。
鍵をかけ、ドアに背中を深く預けて長く息を吐き出す。
侍女を呼ぶことも拒み、誰の目も届かない一人きりの空間を作った。
部屋の中央へ進み、姿見の前に静かに立つ。
鏡の中には、完璧に整った美しい令嬢が映っていた。
純白のドレスにシワ一つなく、結い上げた銀色の髪の乱れも一切ない。
しかしその内側は、とうに限界を超えて悲鳴を上げていた。
固く縛られたコルセットの締め付けが異様に苦しい。息は浅く小刻みになり、冷たい汗が背中を伝う。
耳飾りを外そうと両手を耳元へ持ち上げた。
だが冷え切った指先が微かに震え、小さな留め具がうまく外せない。
カチャカチャと金属の擦れる音が部屋に響き続ける。何度も失敗し、ついに両手を力なく下ろした。
仮面を保ち続けるだけで、精神はすでにすり減り切っていた。
エリシアは視線を落とし、両手の白い手袋を見つめた。
広間で残酷な宣告を聞いたとき、激しい感情の暴走を守ってくれた唯一の盾だ。
右手で左手の手袋の端をゆっくりと摘む。滑らかな純白の絹を、指先から少しずつ引き剥がしていく。
手袋が外れると、そこには痛々しい素手が露わになった。
白い掌には三日月型の痕がいくつも赤く刻まれている。自分自身の爪が皮膚に深く食い込んだ跡だ。
血が微かに滲むほど強く、あの広間でずっと手を握りしめていたのだ。
不条理な宣告を受けながら、怒りも悲しみも白い手袋の下に封じ込め、決して取り乱すまいと耐え続けた。
泣かなかったのではない。
泣けば自分が完全に崩壊してしまうから、必死に堰き止めていただけだ。
その代償が、この赤い爪痕だった。
エリシアはそっと傷跡を指の腹で撫で、微かな痛みに顔を小さく歪めた。
そのまま冷たい大理石の床に座り込み、静かに己の心と向き合う。
あの広間でミレーユは可憐に涙を流し、周囲の同情を一身に集めた。
もしエリシアも泣き崩れていたなら、少しは同情されたかもしれない。
だが彼女は、涙という武器を使うことを生来嫌悪していた。
今、頭の中を占めているのは自身の屈辱や失意ではなかった。
「なぜあの場で誰一人、事実を問わなかったのか」
その冷ややかな問いだけが、何度も頭の中で反響していた。
王太子が作った空気に全員が流され、具体的な証拠もないまま一方的に断罪された。
論理や事実よりも、感情と空気が支配する。
そういう場に正論をぶつけても、決して届かない。
父はあの理不尽さに悔しさを噛み殺していたが、このままでは自分がただ悪役として追放されるだけだ。
エリシアはドレスの隠しポケットから羊皮紙を取り出した。
冷たい月明かりの下で、そこに記された配属先をじっと見つめる。
『王立苦情処理局』。
華やかな王宮の片隅に追いやられた、掃き溜めと陰口を叩かれる部署。
だがそこには、あの広間の空気に見捨てられた民の真実の声があるはずだ。
誰もが面倒を避け、見ないふりをしてきた切実な訴えが積み上がっているはずだ。
エリシアは羊皮紙を強く握りしめ、静かに呟いた。
「見ようとしないなら、私が拾う。一つ残らず解決し、事実の重みを突きつけてやる」
震えの止まった両手で、青白い頬を軽く叩く。
パァンと乾いた音が静寂を割った。
鏡の中の瞳に、もう絶望も悲しみもなかった。
あるのは——理不尽な構造そのものを内側から打ち破ろうとする、強い意志の光だけだ。
エリシアは立ち上がり、夜明けが近づく窓の外を静かに見つめた。




