表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/15

第2話「泣けない夜」

馬車がローゼンベルク侯爵邸の重厚な鉄門をくぐり抜けた。

砂利を噛む車輪の音が、夜の静寂に重く響く。


エリシアは背筋を伸ばしたまま、暗闇に浮かぶ我が家の輪郭をじっと見つめていた。

幼い頃から見慣れた場所のはずだ。普段ならエントランスに温かな光が灯り、疲れた帰還を迎えてくれる。

しかし今夜の邸宅は、息苦しいほどの静けさに包まれていた。


玄関前には、本来休んでいるはずの使用人たちがずらりと並んで待機している。

王宮からの通達は、彼女より先にこの家にも届いていたのだろう。

彼らの顔には戸惑いと不安が浮かび、誰も言葉を発しなかった。


馬車が止まると、エリシアは従僕の手を借りず自らの足で降りた。

冷たい夜気が肌を撫で、純白のドレスの裾をふわりと揺らす。

使用人たちは深く頭を下げたが、「お帰りなさいませ」の声はなかった。

同情と哀れみの混じった視線が背中に刺さる。しかしエリシアは振り返らない。

表情を一切崩さず、石段を真っ直ぐに上っていく。


玄関ホールに足を踏み入れると、両親が待ち構えていた。


父のローゼンベルク侯爵は激しい怒りと深い苦悩に顔を染めている。どんな政治的困難にも冷静沈着な彼が、今夜は額に青筋を立てていた。

母は口元をハンカチで覆い、今にも泣き出しそうな表情で娘を見つめている。


「エリシア、戻ったか。婚約破棄だと。信じがたい通達が届いた」


父の声は地を這うように低く、湧き上がる怒りを押し殺していた。


エリシアは両手を前で静かに組み、深く一礼した。


「ご心配をおかけして申し訳ありません。通達の通りです」


「ふざけるな。正式な手続きも経ていない決定だぞ。しかも苦情処理局だと?我が家を、そしてお前を侮辱している」


父は大理石の床を革靴の踵で強く踏み鳴らした。鋭い音が張り詰めた空気を震わせる。

ギリッと奥歯を噛みしめる音が、静まり返ったホールに痛々しく響いた。


「殿下のご意志による特例として、すでに水面下で処理が進められているらしい。我々は手出しができない状態だ」


きつく握られた拳は白く震え、手の甲には青筋がくっきり浮かんでいる。父は苦しげに目を伏せ、絞り出すような声で続けた。


「あの掃き溜めのような部署に、お前をやることになるなんて」


「旦那様、今はそのお話は……。エリシア、私の可哀想な娘」


母が涙声で父を制し、ふらつきながらエリシアの前に進み出た。

大粒の涙をこぼしながら両腕を広げ、娘をきつく抱きしめようとする。


その温かさが、エリシアの強張った心を激しく揺さぶった。


だが彼女の身体は反射的に一歩後ろへ引いた。

母の腕は空を切り、虚しく宙をさまよう。行き場を失った指先が、微かに震えて止まった。


「エリシア……?」


母がひどく傷ついたように目を見開く。握りしめたレースのハンカチが小刻みに揺れた。


エリシアは自分の反応に驚きつつも、顔だけは崩さなかった。


「ごめんなさい、お母様。少し疲れました。自室で休ませてください」


今ここで母の腕に触れてしまえば、すべてが音を立てて崩れる。張り詰めた感情の糸がプツリと切れ、そのまま床に泣き崩れてしまうことが自分でも分かっていた。

今夜だけは、泣くことだけは避けなければならなかった。


痛ましそうに見つめる両親を残して、エリシアは足早に大階段へと向かった。


自室の重いオーク材の扉を閉めると、完全な静寂が彼女を包み込んだ。

鍵をかけ、ドアに背中を深く預けて長く息を吐き出す。

侍女を呼ぶことも拒み、誰の目も届かない一人きりの空間を作った。


部屋の中央へ進み、姿見の前に静かに立つ。


鏡の中には、完璧に整った美しい令嬢が映っていた。

純白のドレスにシワ一つなく、結い上げた銀色の髪の乱れも一切ない。

しかしその内側は、とうに限界を超えて悲鳴を上げていた。


固く縛られたコルセットの締め付けが異様に苦しい。息は浅く小刻みになり、冷たい汗が背中を伝う。


耳飾りを外そうと両手を耳元へ持ち上げた。

だが冷え切った指先が微かに震え、小さな留め具がうまく外せない。

カチャカチャと金属の擦れる音が部屋に響き続ける。何度も失敗し、ついに両手を力なく下ろした。


仮面を保ち続けるだけで、精神はすでにすり減り切っていた。


エリシアは視線を落とし、両手の白い手袋を見つめた。

広間で残酷な宣告を聞いたとき、激しい感情の暴走を守ってくれた唯一の盾だ。


右手で左手の手袋の端をゆっくりと摘む。滑らかな純白の絹を、指先から少しずつ引き剥がしていく。


手袋が外れると、そこには痛々しい素手が露わになった。

白い掌には三日月型の痕がいくつも赤く刻まれている。自分自身の爪が皮膚に深く食い込んだ跡だ。

血が微かに滲むほど強く、あの広間でずっと手を握りしめていたのだ。


不条理な宣告を受けながら、怒りも悲しみも白い手袋の下に封じ込め、決して取り乱すまいと耐え続けた。


泣かなかったのではない。

泣けば自分が完全に崩壊してしまうから、必死に堰き止めていただけだ。

その代償が、この赤い爪痕だった。


エリシアはそっと傷跡を指の腹で撫で、微かな痛みに顔を小さく歪めた。

そのまま冷たい大理石の床に座り込み、静かに己の心と向き合う。


あの広間でミレーユは可憐に涙を流し、周囲の同情を一身に集めた。

もしエリシアも泣き崩れていたなら、少しは同情されたかもしれない。

だが彼女は、涙という武器を使うことを生来嫌悪していた。


今、頭の中を占めているのは自身の屈辱や失意ではなかった。


「なぜあの場で誰一人、事実を問わなかったのか」


その冷ややかな問いだけが、何度も頭の中で反響していた。


王太子が作った空気に全員が流され、具体的な証拠もないまま一方的に断罪された。

論理や事実よりも、感情と空気が支配する。

そういう場に正論をぶつけても、決して届かない。


父はあの理不尽さに悔しさを噛み殺していたが、このままでは自分がただ悪役として追放されるだけだ。


エリシアはドレスの隠しポケットから羊皮紙を取り出した。

冷たい月明かりの下で、そこに記された配属先をじっと見つめる。


『王立苦情処理局』。


華やかな王宮の片隅に追いやられた、掃き溜めと陰口を叩かれる部署。

だがそこには、あの広間の空気に見捨てられた民の真実の声があるはずだ。

誰もが面倒を避け、見ないふりをしてきた切実な訴えが積み上がっているはずだ。


エリシアは羊皮紙を強く握りしめ、静かに呟いた。


「見ようとしないなら、私が拾う。一つ残らず解決し、事実の重みを突きつけてやる」


震えの止まった両手で、青白い頬を軽く叩く。

パァンと乾いた音が静寂を割った。


鏡の中の瞳に、もう絶望も悲しみもなかった。

あるのは——理不尽な構造そのものを内側から打ち破ろうとする、強い意志の光だけだ。


エリシアは立ち上がり、夜明けが近づく窓の外を静かに見つめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ