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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第13話「書けない訴え」

王立苦情処理局の執務室には、今日も古い紙の匂いと長年染み付いたカビの臭気が澱むように漂っている。


エリシアは傷だらけのデスクに向かい、王立学舎の特別食不正の事後処理に関する報告書をまとめ上げていた。

公費の不当な流用は是正され、料理長を含む関係者への処分と是正措置も通達された。

書類の上ではすべての事案が明確な決着を見せている。


ユリウスは彼女が提出した分厚い書類の束を一瞥し、短く頷いた。


「書類上はこれで問題ない。だが、学舎側が指定通りに新しい台帳を運用し始めているか、念のため現場で最終確認をしてこい」


エリシアは静かに立ち上がり、黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋を直して執務室を後にした。


馬車に揺られて到着した王立学舎の厨房裏手は、冷たい風が吹き抜け、石畳には食材を洗ったあとの濁った水が冷たく光っていた。


事務方の職員と面会し、新しい管理台帳の記載方法が規定通りに行われていることを感情の読めない目で確認する。

一切の隙のない指摘に職員たちは怯えたように頷き、逃げるように奥の部屋へと引っ込んでいった。


確認作業を終えて帰りの馬車へ向かおうとしたとき、厨房の勝手口の陰から小さな影がためらいがちに姿を現した。


先日、厨房の隅で野菜の皮を剥いていた下働きの少女の一人だった。

粗末な麻の服を着た彼女は、王宮から来た威圧的な令嬢の姿に明らかに怯えていたが、何かを伝えるために勇気を振り絞ってエリシアの前に立ち塞がった。


「あの……」


少女の細く掠れた声が、冷たい風の中に頼りなく響く。

エリシアが立ち止まり、感情を交えない静かな視線を向けると、少女はびくっと肩をすくめた。それでもぽつりぽつりと口を開いた。


「その、この間は、ありがとうございました。私たちのご飯に、ちゃんと甘いお菓子が出るようになりました。本当に、ありがとうございました」


仕事で結果を出しても人に温かく受け入れられるわけではないと自覚していたエリシアにとって、その直接の言葉は予想外のものだった。


しかし彼女は表情を崩さず、「私は規定通りに不正を処理しただけです。あなたに感謝されるようなことではありません」と淡々と事実だけを返した。


その冷たい返答に、少女は少し寂しそうに目を伏せた。しかしやがて足元の石畳を見つめたまま、独り言のように静かに呟いた。


「わたし、本当はもっと早く、誰かに助けてって言いたかったんです」


少女は何度も口を開きかけては閉じ、荒れた指先で麻の服の裾をぎゅっと握りしめた。


「でも、わたし、字が書けないから。苦情って、出せませんでした」


その一言が、エリシアの足元を根底から揺さぶった。


字が書けないから、苦情が出せない。


そのあまりにも単純で残酷な事実が、彼女の強固な論理の壁を軽々と突き破って胸の奥深くへと刺さった。


エリシアはすぐには言葉を返せなかった。

冷たい風にあおられた少女の短い髪だけが、静寂の中で頼りなく揺れている。


ゆっくりと少女の両手へ視線を落とした。

まだ十代半ばにも満たないであろうその手は、冷たい水仕事と厳しい労働によってひどく荒れ果てている。

皮膚はひび割れて赤く腫れ上がり、短い爪の間には泥や黒い汚れが深く入り込んでいた。

インクのついたペンを優雅に握るための手では、決してなかった。


エリシアは無意識のうちに、自分の両手を見下ろしていた。

純白の絹の手袋は実務の証としていくつかの染みで汚れているが、その布地の奥にある彼女自身の手は、ペンだこ以外には傷一つない滑らかなままだ。


王宮の令嬢として高度な教育を受け、読み書きができることを空気のように当たり前のこととして育ってきた。

自分はこれまで、届いた文字の奥に隠された事実を読み解くことに長けていると自負していた。


しかしその机の上に紙を届けるためには、文字を知り、紙とペンを買い、役所への届け方を知らなければならない。

少女のような者の声は、苦情処理局へ届く前の段階ですでに弾き出されていたのだ。


苦情とは、形式を知る一部の者にしか届かない、特権的な声に過ぎなかった。


白い手袋に包まれた自分の手と、荒れた少女の手のあいだには、布一枚では到底埋まらない隔たりがある。

自分がこれまで拾い上げてきた事実は、広大な世界に存在する悲鳴の、ほんのわずかな氷山の一角でしかなかった。


感傷に浸って少女を哀れんでも、何の解決にもならない。

自分は人を慰めるのには向かないが、事実を拾うのには向いている。

ならば今なすべきことは、この残酷な事実を制度設計の問題として正確に整理することだ。


「……あなたのその声は、確かに私が受け取りました」


エリシアは少女に向かって短くそう告げると、静かに身を翻して待たせていた馬車へと乗り込んだ。

少女は不思議そうな顔で彼女の背中を見送っていたが、エリシアは振り返ることはなかった。


王立苦情処理局の執務室に戻ると、傷だらけのデスクの前に真っ直ぐに立った。

今日も新たに王国中から届けられた苦情の書類がうず高く積み上げられている。


しかし今の彼女の目には、その書類の山の向こう側に、声を上げることすらできずに沈黙している無数の人々の姿がはっきりと見えていた。


文字を書けない者たちの声を、どうすればこの部屋まで届けることができるのか。

紙とペンという形式に依存するシステムでは、本当に救うべき弱者の声は永遠に拾い上げられない。

ならば、聞く仕組みそのものを根本から変えるしかない。


椅子に腰を下ろすと真新しい白紙を一枚引き寄せ、古びたインク壺にペン先を深く浸した。


文字を書けない者のための、直接的な口述による受付制度。


それがどれほど局内の反発を招き、自らの仕事をさらに過酷なものにするかは容易に想像がつく。しかし彼女に迷いはなかった。


カリカリという硬いペンの音だけが、重苦しい空気の部屋に孤独に響き渡る。

届かない声を拾い上げるための新たな戦いのリズムが、彼女の冷徹な決意とともに刻まれ始めていた。


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