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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第11話「厨房の砂糖」

王立苦情処理局の薄暗い執務室で、エリシアは案件補佐としての仕事に向き合っていた。


ユリウスが一枚の粗末な投書と書類の束を彼女の目の前に置いた。


「王立学舎の厨房からだ。備品として管理されているはずの砂糖と香辛料が、常に不足しているという苦情が来ている」


「王立学舎といえば、身分や家柄に関わらず教育の平等を掲げる名門ですね。単なる発注のミスではないのですか」


エリシアは投書を引き寄せながら、学舎から提出されている月次の納品書と献立表、生徒名簿を並べて確認し始めた。


「学舎側は些細な管理ミスだと主張している。だが現場の匿名の訴えが絶えないらしい」


特定の時期に跳ね上がる消耗品の額をメモに書き留めながら、数字の羅列を比較する。そこに微かな違和感が浮かんだ。


高級な砂糖と香辛料は、納品書によれば毎月規定の量が厨房へ届いている。

しかし献立表に記載された一般生徒向けの食事と、週に一度提供されるはずの菓子の頻度を計算すると——消費量が明らかに多すぎる。

数字の上では帳尻が合っていても、現実の消費ペースとは全く噛み合っていない。


「帳簿の数字は綺麗に揃えられています。ですが実際の提供量との間に明確なズレが存在しています。現場を確認する必要がありますね」


ユリウスは彼女の速い分析に短く頷き、二人は馬車で王立学舎の厨房へ向かった。


厨房の重い扉を開けると、質素な学舎の食事には似つかわしくない甘く芳醇な焼き菓子と香辛料の豊かな匂いが漂っていた。

大きなオーブンから熱気が溢れ、極上のシナモンとカルダモンの香りが鼻を突く。


しかし本日の一般生徒向けの献立は、具の少ない塩味のスープと固い黒パンのはずだ。

鍋の中で煮立つスープの薄い色合いと、厨房に充満する甘美な香りの間には、埋めようのない矛盾がある。


恰幅の良い料理長は突然の監察官の訪問にひどく動揺し、額に汗を浮かべていた。


「砂糖と香辛料の不足についてお尋ねします。この厨房に満ちている甘い匂いは、今日の献立にはないはずですが」


料理長は顔を引きつらせて、来月の学舎創立記念日に向けた試作品だと言い訳を並べた。


エリシアは彼の反論には答えず、厨房の隅で野菜の皮を剥いている下働きの子どもたちへ静かに視線を向けた。

粗末な服を着た彼らは、ひび割れた小さな手で泥まみれの野菜を必死に洗っている。

怯えたような目で料理長とエリシアを交互に盗み見るその瞳には——絶対的な権力者への恐れと、言いたくても言えない秘密を抱える重圧がはっきりと浮かんでいた。


彼らの視線の先を追うと、作業台の奥には美しい装飾が施された銀のトレイと、豪奢な料理が並べられている。


「試作品にしては、一部の上級貴族の家紋が彫られた上等な食器がわざわざ用意されているのですね」


「納品書通りの高価な材料は確かに届いている。しかし一般生徒の口には入っていない。横流しされた形跡もない。答えは一つです」


「教育の平等を掲げるこの学舎で、裏では一部の上級貴族の子弟にだけ、特別食が提供されているのですね」


料理長は言葉を失い、大きく目を見開いたまま立ち尽くした。


「私だって料理人です。同じ学舎の生徒なのに食べるものが違うなんて、本当はやりたくなかった」


彼は言い訳をやめ、どこか諦めたような複雑で暗い表情を浮かべて深く俯いた。

不正を暴かれた悪人の絶望というよりも、巨大な身分制度の歪みに板挟みにされた人間の、疲れ切った顔だった。


「上級貴族の親たちから、うちの子にはこれを出せと個別に圧力をかけられれば、一介の料理人に逆らうことなどできません。建前は平等でも現実はそうじゃないんです」


その言葉には現場の人間にしか分からない苦しい事情と、どうしようもない現実の重みがあった。


ユリウスはその背後にある貴族社会の力学を正確に読み取り、静かに眉をひそめている。


「事情は把握しました。ですが公費を流用して一部の生徒だけを特別扱いする不正は不正です。規定通りに処理します」


その一言が厨房に響き渡ると、周囲の職員たちは一様に息を呑んだ。理解や共感は一切なく、ただ冷たい規則の執行だけがそこにあった。


料理長はそれ以上抵抗することなく、ユリウスの指示に従って書類に署名していく。


エリシアは厨房を去る間際、隅で身を縮めている下働きの子どもたちを振り返った。

これで特別食の裏運用は終わり、理不尽な材料不足で彼らが怒鳴られることはなくなるはずだ。

しかし子どもたちの目には、感謝の光は微塵もなかった。

ただ得体の知れない怪物を見るような、はっきりとした畏怖と距離感だけがそこにあった。


自分の正しさが彼らの日常を守ったとしても、彼らの心までは救えない。


エリシアはその越えられない境界線の存在を自覚し、小さく息を吐いて厨房の重い扉へと背を向けた。


王立苦情処理局の執務室に戻ると、局員たちは相変わらず遠巻きに見ており、重苦しい沈黙が張り付いている。


料理長のあの複雑に曇った疲労の表情が脳裏に蘇る——が、彼女は深く息を吐いてそれを振り払った。


仕事で認められることと、人に受け入れられることは違う。だが今の彼女は、その冷たい距離感をまだどこか軽く見ていた。


古びたインク壺にペン先を浸し、新しい報告書を書き連ねていく。

静まり返った執務室の中で、カリカリという硬いペンの音だけが響き続けた。


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