あおいと夏
「どうでもいいなら置いて行ってよ。」
そう言わなかった私は、少しは大人になったのかもしれない。口に出せばきっと、彼は困った顔をして、何も言わずに前を向いたままだっただろう。沈黙の重さに自分が耐えられなくなることもわかっていた。だから黙っていた。それは成長なのか、それともただの臆病なのか。陰は陽を兼ねるように、どちらにせよ同じようなものだと思う。同じようなことは今までの人生で、何回もあったはずだ。言いたいことを言えなかったこと。本当は赤じゃなくてピンクのランドセルが良かったとか、ピアノなんて別に習いたくなかったとか。ただ単に、私が、恋愛という自制心ではどうしようもできないことの中で、初めてこんな気分になった。ただそれだけのはずだ。
今までの恋愛の相手が、私をそんな気持ちにさせるような人ではなかったからなのかもしれない。何かをまじめにやっていたというわけではないけど、高校を卒業して大学生をやって、遊んだりバイトしたり、誰とでもなく過ごしていく中で、私は大人になったんだ。自分の欲望のために人を振り回すのを子供っぽいと思えるほどには。
助手席の窓の向こうを流れていく夜景は、どれも似たように見えて、どれも違っていた。光をまとった建物の影、サービスエリアの看板、黒く沈む山の輪郭。が一瞬だけ目に触れて、すぐに過去になっていく。彼の横顔も、その光景の一部にすぎなかった。微かな柔軟剤か何かの香り、ハンドルを握る指の剃り残した毛、口元にかかるわずかな影。そういうモノの全てが、私のことを拒絶していた。
私は別にスタイル抜群だとか、顔が特別かわいいとかそういう人じゃない。普通より少し下か、少し上か、そのあたりを揺れているだけだろう。だけど、きっとこのパーキングエリアのレンタカーの助手席の中で服を全部脱いで抱き着いても、彼は私を抱こうとはしないと思う。道路工事をしている作業着を着たオジサンたちが、家に帰ったらグラスにワインを注いでクラシックを聴いているのを想像できないように、私には彼が私のことを女として扱ってくれる想像ができなかった。
もちろん妄想ならできる。乳首に優しく唇を付けてくれるところとか、今日のためだけに新しく買った5000円の下着をほめてくれるところとか。でもそういうのは単なる空想だ。宝くじが当たった時のこととか、核戦争で世界が終わった時のことを考えるのと同じ。現実の自分には決して降りかかってこない「もしも」を夢想するのと同じで、触れられることはない。
私はそんな空想を空想のままで終わらせておけるくらい大人になった。大人になるって、たぶんそういうことだ。叶わない夢を夢と切り分けて、心の中にしまっておけるようになること。夢とか理想とかそういう考えてもどうしようもないようなことに、人生を振り回されないようになること。布団の中で自分を抱きしめながらちょっと泣いたり、酔っぱらった時に愚痴を言ってしまうくらいでとどめておくこと。バスケ部の先輩に振られて泣いていた高校の同級生のようにはもうなれない。それがきっと大人になることなんだと思う。
でも女の涙は武器だ。理屈ではわかっている。振られて泣いていた彼女はたくさんの男に慰められて、その中から選んだ男なのか何なのかは知らないけど、すぐに新しい彼氏ができていた。そこに多少の妥協はあったのかもしれないけど、彼女は女にしか使えない武器を要領よく使って幸せをゲットした。それはきっと戦略的に正しいことをしたんだと思う。五点差で勝っている時の送りバントとか決勝トーナメントに行くために負けているのにパス回しをするとか、そういうのと同じだ。もしそれに文句を付けられる人がいるなら、それは少年漫画の主人公のような人か、単なる愚か者だ。彼女は何も間違っていないし、幸せを得るための正攻法を選んだだけ。桂馬の頭に銀を打った。そういうことだったと思う。なにかしらの成功をつかもうと思えば、必要なことだ。
でも、こういう時に、泣いたり袖を引っ張ったり、そんなことをするような女にはなりたくない。プライドなのか軽蔑なのかわからないけれど、そういう嫌悪感があった。人のことをバカにしてしか笑いが取れない芸人とか、売れるために胸を出してグラビアをやったりするようなシンガーソングライターとか、そういう人に対する嫌悪感と同じだと思う。彼らの生活は、私が将来送ることができる平凡なものよりもずっと幸せなのかもしれない。それなりの大学を出てそれなりの企業に入って、30かそこらで結婚して、メイクとかネイルとかファッションとか、そういうモノに関心がなくなったころに子供が生まれて、高い税金とかママ友同士のマウントにうんざりしながら子供を育てて、シミとかそばかすとかむくみとかたるみとかが気になりだした頃には、結婚したときはかっこよかった旦那がビール腹になって髪も薄くなり始めている。私の将来なんて、ものすごくよく見積もらない限りはそんなもんだと思う。でも、失いたくないものは失いたくない。
たとえそれが、たったひとりに「女」として見てもらえる自尊心のような、くだらなくて小さなものだとしても。
「ねぇ休みの日ってなにしてるの?」
「ん?そうやなー。特に何もしないでダラダラしてるって感じかな。」
「だったらさ、一緒にどっか行こうよ。」
いつも誘うのは私だった。誘う前から返事が予想できるから、安心して声をかけられる。断られることもなければ、特別に喜ばれることもない。それはただ、淡々と続く会話の延長にある。「最近ほんとに暑いよね」とか「ネイル変えたんだ」とかそういうのに定型文を返すように。
もし良い点があるとするなら、私主導でスケジュールを決められるというその一点だけだと思う。確かにそれは、恋人でも友達でもセフレでもないような、この変な関係の中では良いことなのかもしれないけれど、「好きな男に振り回されたい」というのは、女として生まれた者なら皆少しはもっている本能のようなものだと思う。理性で本能を封じ込めることができるのは人類の長所なのかもしれないけれど、本能を抑え込むことは多くの場合幸せなことではないと思う。食べないダイエットとかお金持ちのおじさんと結婚するのと同じだ。
本能と理性の間で揺れるとき、人はたいてい「寂しい」という言葉を選ぶのだろう。自分ではどうしようもないような感情をどうにかしたいのにどうしようもない時。きっとものすごく好みの男に抱きしめられながら「あおいちゃん大好きだよ」なんて言われたら、全部どうでもよくなってしまうと思う。よくわからないけど。
「今日、楽しかったよ。」
「そう?俺もー。」
「良かったらまた行こうよ。」
「うん。」
短い会話。けれど、そのやりとりの隙間には、たくさんの言葉が埋もれている。「まだ帰りたくない」とか「もっと一緒にいたい」とか、そういうことを言える女たちは、どこでどんな風に育ってきたんだろう。私には漫画とか映画とかそういう世界の中だけの言葉のように思えるけど、創作の分野であんなに頻発するって言うことは現実にもそういう人がそれなりにいるってことだと思う。毎日ウォッカを飲んでいるロシア人とか、ナンパばっかりしているイタリア人とかそういう感じで。ロシアにもイタリアにもいったことはないけど、きっと日本よりはずっと多いはずだ。フィクションとして登場させるには、どこかの誰かの日常として想像できないといけないと思う。よくわからないけど。そういう女がある程度いるはずなのに、都会とも田舎とも言えないそれなりの町で、同世代のほとんどの人と同じようにそれなりに部活や勉強をしてきた私は、なぜそんなことが言えないのだろうか。
私だって、それなりに恋愛経験は積んできたはずだ。告白されたことも、つきあったこともある。胸を張って「私ってかわいいでしょ?」みたいなメンタルで生きていくことはできなくても、それなりに男からの関心は集めたはずだった。ホワイトデーのチョコはほとんど毎年貰っていたし。なのに、肝心な言葉はいつも喉の奥で絡まって、外には出てこない。「肝心なことは目に見えない」なんて星の王子さまは言ったけど、それとよく似ているのかもしれない。よくわからないけど。胸にたまった澱のような気持ちは、いつだって言葉になることを拒む。本当は伝えたいことが山ほどあるのに、うまく言えない自分に嫌気がさす。もしかしたら、この淀んだ心こそが、私を特別な言葉から遠ざけているのかもしれない。
「ねえ、飛鳥。飛鳥はさ、何で今の彼氏と付き合ったの?」
「んー。何でだろ。タイミング?」
友人の笑い声は、店内のどのテーブルからの声よりも大きい。私の変な引き笑いとは違って、ずっと社交的な笑い方だ。彼女は私の半分も酒を飲んでいないのに、私の倍は笑っている。声に合わせてグラスの氷がカランと鳴り、店内の空気を軽く震わせた。
「そんなもんなの?」
「うん。あおいと違って、モテるわけじゃないし、好きになってくれた人が一緒にいて楽しいなって思える人だったから付き合おうって感じかな。」
「それってさ、なんか嫌になったりとかしないの?」
「するよー!当たり前じゃん。出かけるのにひげ剃らなかったりするし、タバコやめるって言ってたのに隠れて吸ってたりするし、この前なんか「バイト嫌だからやめたいー」って言って抱き着いたら、「すぐ辞めれるのがバイトのいいとこなんだから、今の所辞めたいなら新しいとこ探しなよ」って。そりゃそうだよ。馬鹿じゃないんだからそんくらいわかってるけどさ、今はそうじゃないじゃん。抱き着いてるんだよ?慰めるとかなんかあるでしょ。は?ってなるもん。女心わからなすぎだし、気を遣うポイントがおかしいし。」
「でもまだ付き合ってるわけでしょ?」
「だってさ、親とかだって愛してくれてるってわかっててもウザい時あるし、大学だって第一志望で自分が選んだ専攻なのに、なんでこんなことやってるんだろってなったりするじゃん。なんで朝から晩まで図書館に籠って1300年前に死んだオジサンのこと調べてるんだろみたいな。でもさ、こういうの面白いなって思う時だってあるじゃん。他の分野ならもっと詰まんないと思ってそうだしさ。そういうもんじゃない?向こうからしたら、私にだって、は?ってなる瞬間いっぱいあると思うし。お互い様だよ多分。」
「そういうのが許せなくなったときに別れるもんね。」
「そーそー。そういうもんでしょ。」
「そういうもん?」
「わかんない。」
二人で声を合わせて笑う。やっぱり、私の笑い声なんかより彼女の方がずっと笑っている感じがする。引き笑いをする人は腹筋が足りないとか、良いとか悪いとか陽気かどうかみたいな話ではなくて、彼女の方が私より幸せなんだろう。笑い声が幸福の分量を測る秤だとしたら、私はいつも軽すぎる。
「あ、すみませーん。オレンジジュース一つ。あおいは?」
「えーっと、ハイボールで。」
女は何百万年も洞窟の中で狩りから帰ってくる男を待ちながら暮らしていた。だから男よりも社会性に優れ、言語非言語共にコミュニケーション能力が高く、周辺視野が広い。話がコロコロ変わるのもそのせいだ。
テスト対策で覚えた教科書の文言は何一つ間違っていないんだと思う。私たちは同じ授業を取っていたというだけの関係なのに、ずっと話し続け、ずっと笑っていた。
「じゃあまたね。」
「うん。またね。」
彼女は彼女の家とは違う方へ歩いていく。「家?馬代通りのセブンの近く。」そう言っていた彼女は、政令指定都市とは思えないほど暗い一条通りを東に歩いて行った。グレーのデニムに黒いTシャツ。街灯の下を通るたびに、影が一瞬だけ地面に吸い込まれて、すぐに浮かび上がる。車に轢かれないか心配になるような服装で。
「私同棲みたいな感じでさ、彼氏がペット可の部屋に住んでて、猫飼ってるんだー。名前はリンって言ってさ、うんこがとんでもなく臭いこととしっぽが短いこと以外はすごいかわいいよ。」
初対面の時にそうやって見せてきたあの部屋に帰るんだろう。お世辞にもきれいとかおしゃれとかそういう部屋ではなかったが、彼とならそんな生活だって宮殿に住んでいるお姫様みたいな気分で過ごせると思う。
「あぁ会いたいなぁ。」
声に出ていたかどうかは知らないけど、私は携帯の暗証番号をポチポチ押す。二十歳を超えた時か、クリスマスベイビーなんて言葉を知った時から全く愛着がわかなくなった私の誕生日。薄暗い街灯の下で。私に触れようとしない男に会うために。
もし未来の私がここにタイムスリップしてきたら、羽交い絞めにしてでも止めると思う。
「振り向いてもらえないってわかってるでしょ?そんな恋は精神すり減らすだけだから、あきらめなよ。ホストに貢いでる女の子と全然変わんないよ。たまに抱いてもらえるだけ、ホス狂の方がまだ良いくらいだよ。ねぇ。やめなって。何年か前に「35億」とか言うのが流行ったでしょ?あのおかっぱの女の人のお笑いのネタ。流行語大賞か何かとったやつ。あの時は小学生?わからないけどさ、あれで言ってたように、男ってのはたくさんいるの。あの時はまだ35億だったかもしれないけど、もう40億くらいるんじゃない?そんな確率の話されてもって思ってると思うけど、もっといい人がいるかもって思ってるのと、この人しかいないって思ってるのって全然違うよ。他にもいい人がいるじゃん。絶対。運命の人なんていないよ。もしかしたらさ、「たまたま落ちてた財布拾って届けたら、持ち主がイケメン御曹司だった」みたいなことだってあるかもしれないよ。だから、若い時のこんな大事な時間をどうせ何も得られないところに無駄に使わないでよ。あなたに振り向いてくれないなら、それはきっと運命の人じゃないよ。」
もしかしたら、そんなにグダグダ母親みたいなことはしないで「わかるよ」って言って抱きしめるのかもしれないけど、結果はきっと変わらない。私はおとなしく忠告に従えるほどお利口さんじゃない。それに、少し酔っぱらった状態で、暗い道を彼氏と二人で暮らす部屋に向かっていく友人の後姿を見た直後に、「こんな恋はもうあきらめよう」なんてことができるほど理性的でもない。私よりずっとかわいい女の子が紹介しているコスメは買ってしまうし、何で流行っているのかよくわからないし一年くらいたったら誰も覚えていないようなウサギのキーホルダーだって買ってしまう。私はそんな人間なんだ。飛鳥の彼氏みたいに卑屈で理屈っぽい人なら「資本主義の奴隷だね」なんて言って笑ってくれるのかもしれないけど、私はきっとそんな人のことを好きにはならないと思う。
私は脈ナシどころか、七回もデートに行っても手が触れ合うことすらなかった男のことが今も好きなのだ。銀行口座の残高とか左手の小指とか、彼と結ばれるならそういうものは全部なくなったって良い。たった一度抱いてもらえるだけでもいいし、抱かれている最中に盛り上げるための「好きだよ」を聞けるだけでも、きっといろんなものを手放せると思う。
ロック画面にはマッチングアプリの通知が来ていた。どうせ彼ではない。誘うのはいつも私からだし、彼とは他の連絡先もちゃんと交換している。インスタとかラインとか。でもそれは、私のことが好きとかそういう話じゃなくて、ただ単に画像も送れないようなアプリでメッセージを送りあうのが非効率的だから。ただ単にそれだけの事。きっとそうだ。
「さすがに女として見られてないんやない?俺ならそんな思いさせないのに。」
そんな言葉をどこかで聞いた気がする。慰めなのか、欲望の告白なのかもわからない。子孫を残すという本能があるとはいえ、今の時代男の性欲は表現するだけマイナスにしかならないと思う。生理の辛さをわかってほしいのは許されても、性欲の発散は許してもらえないのは残酷かもしれない。「身長高い人が好き」は許されても「おっぱい大きい人が好き」は許されないのと同じように。
「「マッチングアプリの男がヤリモクでさー」みたいなこと言ってる女って、スイパラに並んでる女のことデブ活って認識してるのかな。」そういう意見をどこかで見た気がする。誰かが言っていたのか、ツイッターか何かで見たのか知らないけど。令和になっても人間はまだ本能を殺せていない。きっとそれは無理難題なんだろう。私が彼のことを諦められないのと同じように。
「ごめん。今電話良い?」
「うん。」
「なんかしてた?」
「いやーなんも。ご飯食べて、なんかひまやなーって思ってた。」
やっぱり好きだ。でも彼のどこが好きなのかはよくわからない。大学生だから当然お金持ちなわけでもないし、大学も同じで同じ文系なんだから、どっちかが勉強ができるとかそういうわけでもない。身長が高いとかスポーツ万能だとか、とんでもなく顔が良いとか、そんなわけでもない。外見ならどこにでもいるような男子大学生だし、中身だけで言えばちょっとした変人だ。米粉パンを自分で作ったり、鶏むね肉とトマトのサラダにヨーグルトを使ったドレッシングを作ったりするような。もちろん料理が得意なのは全然悪いことじゃない。でもそれは麻婆豆腐とかドライカレーとかそういうので十分で、初めて聞いた時はとんでもなく気持ち悪いと思ったはずだった。
でももうどうしようもない。止められるなら止めてほしい。止めてくれた方が私だって幸せになれると思う。
「今から会えない?」
「んー場所による。」
「あのさ、前バドミントンした公園。」
「あーいいよ。おっけー。」
セブンイレブンのトイレの鏡で化粧を整えてから、お酒の棚の前に立つ。鏡の中の自分は少し赤らんでいて、思っているよりもずっと弱そうに見えた。「10年後の私へ」なんて手紙を書いていたころの私が見たら失望するかもしれない。白馬の王子様でもなんでもない男のためにいろいろ悩んでるなんて知ったら。
子供が考える大人はものすごく大人だ。自分の子供のために働いて、品行方正で、酒とかタバコとかギャンブルとか、そういうものはたしなむ程度。子供の前では愚痴なんか言わない。今の、21歳の私にとってはそんな人間になるのは到底無理な話だ。今からモデルになるとかアイドルになるとか、そういうのと同じくらい無理な話なのかもしれない。でもそんなことは、ちゃんと胸張って「大人です」って言わないといけなくなった頃にできていればいい話だ。今できるようにならないといけないのは、どうしようもないこの恋愛に決着をつけること。他にいくらでも選択肢があるのにブラック企業で働いているようなこの状況を早く解決すること。
本当は、いつか他人に愛されなくても十分なくらい自分で自分のことを愛せるようになりたいけど、きっとそんな願望は石油王になりたいとかそんなレベルの話なのかもしれない。でも今はそこまでいかなくていい。私が今からしなければいけないのは、何から何まで一生分の勇気を振り絞って「抱いてほしい」と言うか、彼のことを好きな自分を過去のものにするために「もう会わないと思う」と伝えることの二択だ。
どっちにしろ酔わなきゃやってられない。素面で臨むには、何回手首を切っても足りないような気がする。
歩行者信号が青に変わった瞬間、スクーターが走っていった。多分うちの大学だろう。ひかりだかひとみだか、そういう感じの名前の喫茶店の所にバイクを停めているような人たち。スポーツ推薦で入ったのか、大学に入るまで勉強ばっかりしていた反動なのかは知らないけど、大学デビューというやつだ。別に何か悪いことをしてるってわけじゃないだろうけど、トー横キッズを見た時みたいな気分になる。私ってちゃんと真面目に大学生やってるじゃん。そういう気分。
ビールはお酒臭いし、おじさん臭い。もっとラフで気軽な感じで、でもちゃんと酔える、そういうやつ。きっとそういうのが男が求める女子力なんだろう。かわいいパジャマを着てるとか、チャミスルを二つ買った。
「一本のむ?」
絶対に断られるのがわかっているけど、ほんの少しでも話すことが増えるならそれだけできっと価値がある。そして今日こそ、この彼とのどうしようもない関係を終わらせるため、もしくは全く違い関係にするために言わないといけない言葉を言いたい。
うす暗い一条通りを歩いて行った友人の背中とか、どうでもいいメッセージとか、じっとまとわりつくような夏の夜風とか、そういうのが全部私の背中を押してくれているような気がする。
少し黄色がかった明かりが照らす公園のベンチに彼は座っていた。白いTシャツに短パン。彼にとって私はこんな格好でも会えるような女なんだ。香水を振ろうとかそんなことをしなくとも、短パンとTシャツでもいいような女。
「もう一本あるんだこれのむ?」
「いらない。俺酒飲めないの知ってるでしょ?」
「そういえばそうだったね。」
「今日はバドミントンじゃないの?」
「うん。なんかだらだら喋りたいなぁって」
「そっか。まぁいいよ俺どうせ暇だし。」
「やったぁありがとう。」
「じゃあもう眠いし帰って良い?」
「うんいいよ。」
結局私は何も言えなかった。なんにも。
好きだとか、付き合ってほしいとか、愛してるとか、ホテル行こうとか。そういうことじゃなくて、まだ一緒に居たいとか、そんなことでさえも。酒の力があったって、勇気はどうやったって出てこなかった。関ヶ原の戦いで裏切りを悩んでいた小早川は鉄砲を撃たれて覚悟を決めたらしいけど、私だって鉄砲を撃たれたら告白なりなんなりで来たのかもしれない。でもそうやって、他の力を当てにしている時点で私には無理だった。そういうことだ。でも、
「ねぇ~また何にも言えなかった。」
「あーやっぱり。」
スピーカーからの聞きなれた声。
「やっぱりってさ、若菜は中学生のころから「男なんて興味ない」って言ってほんとに興味ないじゃん。音楽ばっかりやってさ、男を一方的に好きになっちゃう側だって、結構大変なんだよ。」
「まぁそれはわかってるつもりだよ。ドラマとかでよくあるし。」
「ドラマなんてさぁ」
「じゃあ男辞める?」
「辞めない。」
「ほらいっつもそうじゃん。」
若菜が男だったらいいのに。本当にそう思う。男に抱きしめられないとどうにもならない感情が渦巻く女と言う生き物はとても不便だ。別にセックスなんてしなくてもいいから、ただその腕に包まれていたい。そんな感情は動物として必要ないような気がする。
「いっつもってさ、この人になってからだけじゃん。」
「そう?なんか好きになった人がいたら、毎回同じようなこと言ってる気がするんだけど。」
「違うよー。」
「そうかな?高校の時も似たようなこと言ってなかったっけ?」
「うーんわかんない。」
「言ってたと思うけどなー。なんか好きになった人、なんだっけあの髪長くて細い人好きになった時にさ、その人が彼女いて、もう男好きになるのやめたいとか言ってたよ。」
「私なーんにも変わってないのかな。」
「おいおいしょんぼりすんなって。」
「はぁ。」
換気扇の下で煙草を口にくわえる。有名なジュエリーブランドと同じような淡い緑色の装飾がついた細長い箱には、もう三本くらいしか入っていない。
ふぅ。
細く伸びた煙が、私のかなわない気持ちと同じように、換気扇の中に吸い込まれていく。
「あのさ、あおいって結局今も音楽の趣味変わらないの?」
「わかんない。特に変わんないと思う。」
「じゃあさ、NANAって漫画知ってる?」
「わかるよ。読んだことないけど。昔のやつでしょ?」
「だったら良いね。シド・アンド・ナンシーって映画見なよ。もし運命の人がいるんだとしたら、ああいうのだよ多分。半分依存みたいなものかもしれないけど、タイタニックみたいなのと違って実話だからさほぼ。」
「わかった。」
冷蔵庫からチューハイを取る。とびっきり酔える奴だ。ロング缶を三本飲めば、今日の記憶もどっかに行ってくれるかもしれない。
プシュという音と同時に、若菜が何かを言った。
「ってバンド聞きなよ。めっちゃいいから。お休み。」
通話時間41分、時刻3時20分。
かけなおすのはやめよう。私はもう酒飲んで寝るだけ。今から見る「シド・アンド・ナンシー」とかいう映画も、朝起きたら全然覚えていないかもしれない。
サブスクの検索欄に入力しても出てこない。「現在はご覧いただけません」そればっかりだ。
レンタルするなら330円。タバコ半分、発泡酒二本、フラペチーノには全然届かない。
「まぁいいか。」
声に出てたかどうかはよくわからない。私はそのレンタルのボタンを押した。
「はぁ。」
エンドロールが流れ、ため息が出た。机の上には二本の空き缶、私はまだちゃんと起きていた。カーテンの間から薄光が差し込んでいる。エンドロールのBGMには本編中ずっと流れていたうるさい音楽が続いている。
シドとナンシーの話は何もロマンチックではなかった。そもそもまともな見た目じゃなかったし、薬物ばっかりやってたし、周りの人に迷惑ばっかりかけてたし、最後にはナンシーは死んでしまった。でも、きっとシドにはナンシーしかいなかったし、ナンシーにはシドしかいなかった。私とは全然違う。私にとっては彼しかいないように思えても、彼にとってはそうじゃない。私がこのまま、この気持ちを持ったまま彼とよくわからない関係を続けることはできる。彼だって私の気持ちに全く気付いてないなんてことはないはずだ。でも想いに応えられないのだって、応えてもらえないよりはマシかもしれないけど、それなりにしんどいはず。
「なつお?」
「そう。夏に生きるって書いてなつお。夏生まれだったのと、俺未熟児でさ。生きるって名前にしないと死んじゃうような気がしたんだと。」
「よかったね。大きくなって。」
「そうだな。」
そんな会話をした気がする。まずマッチングアプリのマッチを解除、インスタのフォローを削除して、最後にライン。
きっとこの映画を見ていなかったら、恨み節の一つや二つ言ってからブロックしたのかもしれない。でももう違う。私は彼のどこかに惹かれていただけで、彼は人生をかけるほどの運命の人じゃない。運命の人とか運命の恋とか、そういうのがあるとするなら、それは自分が滅びても良いと思える相手じゃないといけない。
「おやすみ。」
これでもう彼は私に連絡できないし、私も彼に連絡できない。さようなら夏生。彼を好きだった私。しばらくは、布団の中で自分を抱きしめながらちょっと泣いたり、酔っぱらった時に愚痴を言ったりすると思うけど、ちゃんと彼のことを好きになれてよかったよ。
目が覚めるとカーテンの隙間から、昼間の光が差し込んでいた。今日は晴れだ。洗濯物今から干して間に合うかな、最近雨ばっかりだったからたまってるんだけど。そんなことを考えたりしたけど、昨日の酒と映画のせいで動く気にはなれない。
スマホのディスプレイに映る時刻は14時38分。何もかも中途半端な時間。
左端に炎を模したようなマーク。また誰かマッチしたのか。
「マッチありがとうございます。かずあきです。仲良くなれたらいいなと思っています。」
顔を洗う水が冷たい。大学が始まるのは来週からだ。まだ夏みたいな天気だけど、もう秋はすぐそこまで来ているのかもしれない。