#2 トイレの地縛霊
学院一階の女子トイレ。
夕方になると、そこへ足を運ぶ生徒はほとんどいない。理由は、とある噂のせいだった。
「うめき声が聞こえる」
「苦しそうな息遣いが響く」
「水音がする。誰もいないはずなのに」
そんな話が広まり、今では遠くの別棟のトイレまで行く生徒もいるほどだった。
クラリスは、生徒会の入会試験としてこの幽霊騒動の調査を任されていた。
依頼文を剥がしたその日、彼女は証言者の一人――女子生徒Gに話を聞くことにした。
場所は学院の中庭。夕方の光が差し込むベンチに、クラリスとセシルは並んで座っていた。
女子生徒Gは、制服の袖をぎゅっと握りしめながら、怯えた様子で語り始めた。
「昨日の夕方、トイレに入ったんです。誰もいないはずなのに……聞こえたんです。最初は、水の音だけでした。ぽた、ぽたって……でも、それに混じって、息を詰めるような、呻くような……なんていうか、泣いてるみたいな声がして……」
彼女の声は震えていた。
目は伏せられ、記憶を辿るように言葉を絞り出す。
「個室に入って、しばらくしてからです。壁の向こうから、苦しそうな呼吸が聞こえてきて……誰かが、喉の奥で声を殺して泣いてるみたいで……それが、ずっと続くんです。止まらない。水音も、ぽたぽたって、まるで涙みたいに……」
クラリスは黙って聞いていた。
女子生徒Gの表情は、語るほどに青ざめていく。
その場にいたときの恐怖が、今も彼女の中に残っているのが分かった。
彼女は言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。
「怖くて、動けなくて……でも、誰もいないはずなんです。わ、私、確認しました。個室も全部!なのに、声が……」
「そしたら、そしたら……最後は……」
ビチャビチャビチャビチャ!!
水音。
彼女は堪らずその場から逃げ出した――
というわけだ。
「もう、あそこには居られませんでした……」
セシルが、そこで口を開いた。
「……あのトイレには、昔から噂があるんだよ。知ってるかい?」
クラリスが首を振るとセシルは少し身を乗り出した。
「数年前、いじめられていた女子生徒がいた。彼女はいつも、あのトイレに避難していたらしい。誰も来ない時間帯を狙って、泣きながら過ごしていたそうだ。そして、ある日を境に姿を見せなくなった。最後はあのトイレで………という話もある」
女子生徒Gが震える。セシルは肩をすくめた。
「真偽は分からない。でも、こういう話は尾ひれがついて広まるものだ。人は、説明できない現象に意味を求める。だからこそ、幽霊という存在が生まれる」
クラリスは、セシルの横顔を見つめて静かに話を聞いている。
「僕はね、好きなんだ。幽霊、怨霊、地縛霊、浮遊霊、残留思念……分類も多様だし、文化によって解釈も違う。あのトイレのような密室で水場がある場所は、霊的なエネルギーが集まりやすいとされている。特に夕方は“逢魔が時”と呼ばれていて、霊と人の境界が曖昧になる時間帯なんだ」
クラリスは、女子生徒Gに向き直った。
「ありがとう。とても参考になったわ。声が聞こえた時間、音の種類……それらは偶然じゃない。何かの仕組みがあるはず」
女子生徒Gは、少しだけ安心したような顔を見せた。
「……調べてくれるんですね?」
「ええ。必ず、真相を突き止めるわ」
クラリスは立ち上がり、セシルに目を向ける。
「調査に行きましょう。現場を見ないことには、始まらない」
「了解。君の推理、楽しみにしているよ」
セシルはクラリスの隣に並び、歩き出す。
そして、歩きながら、ふと口を開いた。
「ところで、地縛霊っていうのはね――」
クラリスは、少しだけ眉をひそめた。
「またオカルトの話?」
「いや、今回の件に関係あるかもしれないから。地縛霊っていうのは、強い未練を持ったまま亡くなった者が、特定の場所に縛られて現れる霊のことなんだ。動けない。そこに留まり続ける。だから、同じ場所で何度も目撃されることが多い」
「……つまり、今回のトイレに思い入れがある霊だと?」
「そう。もし本当に、昔の女子生徒があの場所で最後を迎えたのだとしたら、彼女の思念が残っていても不思議じゃない。うめき声、水音、夕方――条件は揃っている。これは典型的な地縛霊のパターンだよ」
クラリスは、セシルの熱弁を聞きながら、静かに歩を進めた。
「あなた……話すのが好きなのね」
「そういうわけじゃないけど……君に話しているのが面白くて。」
「……そうなの?」
二人の足音が、石畳の上に響く。
学院一階の女子トイレ。
夕方、うめき声と水音が響くその場所に、二人は向かっていく。
幽霊なんていない。
クラリスは、そう信じていた。