婚約破棄?いいえ、運よく不良債権を手放しただけです。
「セシル・ラトゥール!度重なる舞踏会欠席という、伴侶としての資質に欠ける振る舞い。そして従妹アリス・バローへの執拗な嫌がらせ。
貴族令嬢にあるまじき行為はゆるしがたい。本日この場を以て、私はお前との婚約を破棄する!」
公爵家主催の舞踏会のホールのど真ん中。つまり最も人目を引く場所で、伯爵令息ディミトリ・ハントは婚約者セシル・ラトゥールに対してこう宣言した。
セシルの卒業を待って結婚というこの時期の婚約破棄。
ラトゥール子爵家につり合いそうなめぼしい貴族青年たちはみな婚約済みであることを考えれば、この宣言は貴族令嬢にとって死刑宣告ともとれるほど残酷なものだった。少なくとも、その場にいた参加者たちはそう思ってざわついた。
会場はさらに騒然とする。ディミトリがセシルの従妹の肩を抱いたからだ。
「私は新たに、このアリス・バローと婚約を結び、与えられた使命に恥じぬ結婚生活を送るつもりだ!」
とどめの一撃、といった一声に思わずどこかの婦人が「そんな!」と悲鳴に近い声をあげた。
あまりにも突然で、あまりにもひどすぎる。だが当事者である子爵令嬢はぴくりとも動かない。
ゆるく巻いて右肩に流した華やかなピンクブロンドの髪は毛先ほども揺れず、すみれ色のドレスからのぞく背中はまっすぐなまま。
そして彼女の白い肌には、動揺を見せない大きな瞳がそっとディミトリを見つめていた。
果たして彼女がどんな反応をするのか。野次馬たちはかたずをのんで見守った。
けれども意外なことに彼女が発した一言は、たった今婚約を破棄されたとは思えないほど事務的なものだった。
「承知いたしました。ディミトリ様、今日までありがとうございました。お目汚しとならぬよう、しばらくは社交界からこの身を遠ざけさせていただきます。それでは、本日はこれにて失礼いたします。」
精一杯の振る舞いだったのだろう。
周囲のものたちがそう胸を詰まらせるほど、彼女の姿は堂々としていた。
婚約破棄という悲痛な宣告に耐えるように、セシルは背筋を伸ばしたまま優雅な足取りで公爵邸を後にした。
きっとタウンハウスに戻って人目を気にしなくなってから泣くのだろう。貴族たちは彼女に同情した。
セシル付きの侍女もまた、黙して頭を下げると足早に彼女の後をついていった。
御者は黙って馬車を出し、子爵令嬢セシル・ラトゥールは静かに車窓の景色を眺めていた…。
「おかえりセシル、早かったね。」
予定していた時間よりもかなり早くに帰ってきた娘をみて、ラトゥール子爵とその夫人はどうしたことかと眉をひそめた。
侍女の表情をみればトラブルがあったのは間違いがないようで、執事が目くばせをするよりも早くメイドたちは2階にあがり、セシルの着替えや湯浴みの仕度にとりかかる。
ここでようやくセシルは口を開いた。
誰が聞き耳を立てているか分からないから、帰ってくるまで我慢に我慢を重ねていたがもうその必要はなかった。
「お父様…。」
彼女の声は震えていた。
「ディミトリ様に、婚約を破棄すると宣言されました。」
「なんと…。」
「やっと…やっと破棄してくれましたわーーーー!!!」
そう、セシルは耐えていたのだ。
婚約を破棄されたことによって体中からあふれる喜びを押さえることに。
彼女はドレスのまま執務室へ駈け込むと書類の束をもってホールへと戻ってきた。
「こちらで早急に正式な書類にサインして明日には早馬で届けましょう。こんなこともあろうかと、事前に用意しておいて良かったわ。
伯爵家とはいえ、とても領地経営がうまくいっていない名ばかり貴族。跡継ぎのディミトリ様が優秀ならともかく、プライドだけが高くてこちらに援助を頼むだけで口出しはさせないんだもの。
ご縁があって国王陛下のお声がけがあったとはいえ、不良債権を押し付けられる思いでしたけど…明日からは晴れて他人。これで社交界に出向かなくても済むし、ディミトリ伯爵領立て直しのために計上していた予算もうちの領地に回せるし。良いことづくめだわ。
あ、マルタ。このドレスはもう着ることはないから慈善バザーに出しておいて頂戴。明日は盛大に婚約破棄パーティーよ!」
ぐっ、と拳を突きあげる娘に、ラトゥール子爵夫妻はため息をついた。
どこの世界に人前で婚約破棄されて喜ぶ年頃の娘がいるというのだ。
自分たちが不甲斐ないばかりに、セシルは美しい見た目に反してこんなにたくましく育ってしまった。
それでも、あの軽薄なディミトリ青年と添遂げるよりは良かったと思うしかなかった。
セシル・ラトゥールは、齢18歳にして父親に代わって領地経営のほとんどを担っている仕事人間だったのだから。
*
ラトゥール子爵が娘の非凡さに初めて気付いたのは、今から10年前のことだった。
当時母親のマルグリットが病で伏せがちだったため、セシルは父親の執務室にいることが多かった。
領主としての仕事をこなすデスクの横で、絵を描いたり本を読んだりしていたセシルは父親の仕事にやたらと興味を示した。
「お父様。数字って面白いですね。」
「お父様、どうしてこことここの税収は違うのですか?」
決して領地経営に向いているとはいえない父親だったが、愛する娘が自分の仕事を尊び、質問を投げかけてくる嬉しさから彼女に簡単な算術をはじめ、領地の地理や気候について教えた。
そしてセシルの祖父の屋敷へ遊びに行った際にそのことを伝えると、前ラトゥール子爵であるバートリはセシルに興味を示した。
「バカンスの間、セシルをうちであずかっても構わないかな。レディ・マルグリットも屋敷で静養するといい。」
こうして2か月間にわたり、セシルは祖父から領地経営に関する教えを叩きこまれた。
もともと地頭が良かったうえに、王子様のでてくるおとぎ話やドレスに憧れることのなかった孫娘は祖父の教えをぐんぐん吸収した。
婚約者だったディミトリとお茶会をするよりも、税率の計算や予算の組み方、治水や土木工事についての基礎知識について学ぶほうが面白かったのだ。
やがて2年先に入学していたディミトリに続いて、14歳で貴族子息の学び舎であるゴールディ王立アカデミーの生徒になる頃には、父の仕事を半分以上手伝っていた。
そんな彼女にとって領地を後にし、王都で将来良き妻・良き母になるための教育しか施されないアカデミーで過ごす時間は退屈でしかなかった。
唯一楽しかったのはカフェテリアでの日替わりランチと、地理研究会というクラブ活動。そのクラブで知り合ったリュシアン・ランヴェールとの会話だった。
彼女が誰かに嫌がらせをする人間だなんて、地理研究会のメンバーならだれ一人認めないだろう。
加えてアカデミーで暇を持て余した彼女は、とあるツテから生徒会の仕事も手伝っていたのだ。
将来領地経営の参考になるかもしれないと始めた雑用は、いつのまにか会計報告書を作成するまでになっていた。
彼女の希望もあり公式な役員に名を連ねているわけではないので、このことを知っているのは一部のメンバーと教師陣だけ。
家に帰ればタウンハウスの切り盛りと父から送られてきた書類のチェック。
アカデミーでは勉学に加えてクラブ活動と生徒会の手伝い。
バカンスは祖父によるスパルタ経営塾や領地への行き来。
そして間を縫うように社交界への出席とディミトリとのお茶会。
そう、彼女は忙しかった。人に嫌がらせをする暇なんてないほどに。
そして忙しいのは好きだが、自分が無駄だと思うことは徹底的に嫌だった。
セシル・ラトゥールにとってディミトリとの婚約は、王命で決められただけの、最も無駄なことのひとつだった。それが今、ディミトリ本人の手によって取り消しになったのだ。こんなめでたいことがあるだろうか。
セシルは子爵家の明るい未来に想いを馳せた。
ラトゥール子爵家にはセシルと歳の離れた兄という二人の子どもがいた。しかし兄エドモンは幼いながらもセシルが領主向きだと判断するとあっさり家督を放棄し、騎士団に入隊してしまった。今では騎士団の幹部にまでのぼりつめ、本人にも貴族という自覚はほぼないだろう。
そんなわけで親戚筋から後継を選ぶか、セシルが婿養子を迎えるしかない。ディミトリは伯爵家の長男であったためこの可能性は早々に潰れた。
最も非現実なのは3番目の選択として、セシル自身が女子爵として王に認めてもらうことだった。
これも婚約者がいる身では使えなかったが、妙齢にして婚約を破棄された瞬間、現実味を帯びる手となった。
そして現在、ラトゥール家には王宮へ女子爵の申請書一式が完璧にそろった状態で用意されていた。
これは様々な公的書類の書式を学ぶための、いわば教材としてセシルが一から自分で記入したものだったが、まさか本当に使う日がくるなんて思いもしなかった。
もうディミトリの機嫌取りや尻ぬぐいをせずに済むし、アカデミー卒業まで休学か退学でもかまわないだろう。これからは好きな時に領地に戻って、思いのままに仕事ができるのだ。
こんなめでたい日があるだろうか。いや、ない。
ため息しかでない子爵夫妻をよそに、今夜はいい夢が見られそうだと、セシルはぐっすり眠るのだった。
翌朝、ラトゥール家の厨房は朝早くから大忙しだった。
セシルの婚約破棄を喜んだのは本人だけではない。
メイドやバトラー、コックに庭師、馬丁と、タウンハウスで働く者たちはみな一様にお祝いムードだった。
大事なお嬢様が、あんな男と結婚せずに済んだのだ。庭師はありったけの花を屋敷に飾り、コックは腕によりをかけて料理を作った。
すべて、これまでディミトリの横暴な態度に我慢し続けてきた一人娘へのねぎらいの気持ちからだった。
「昼から人目を気にせずお酒が飲めるなんて最高ね。ねえオーランドー?ちゃんと飲んでる?ワインセラーからえりすぐってきたんだから、飲めるだけ飲んで頂戴ね。」
昼下がりの客間。テーブルいっぱい並んだ料理やデザートを眺めながら、上機嫌のセシルは執事のオーランドーにワインのおかわりをすすめた。今日は屋敷の人間も一緒にランチを楽しんでいる。
「お気遣いありがとうございます。この後の執務に差し支えない程度に頂いております。」
「あら、仕事なんて明日一緒にやればすぐに済むわよ。といっても休めないのよね。気持ちは分かるわ。」
セシルはそう言いながら明後日両親が領地に帰るまでにまとめておかなければいけない審議書について考えをめぐらせていた。仕事人間なのはお互い様だった。
屋敷で働くものたちもかわるがわる乾杯をしにきてはパーティーを楽しんでいると、ふいに玄関に来客の気配があった。
襟を正して客人を迎えに出たオーランドーは、戻ってくると子爵夫妻に目くばせをしたのち、複雑な顔で
「アリス様がお見えになっています。」と言った。
その一言で何かを察したセシルは
「そのままここにお通ししてちょうだい。」とにっこり笑った。
ガチャリ。
客間のドアが開くとともに
「セシルお姉さまぁーーーー!」
と金色の巻き毛の少女がセシルの胸に飛び込んできた。
くりっとした瞳に真っ赤な唇。小柄だけれどパワフルな令嬢に、屋敷のものたちは一瞬たじろいだ。
「アリス。この度はご婚約おめでとう。」
にっこり笑うセシルに、怒りや嫉妬の表情はない。むしろこの状況を分かっていて楽しんでいるようだった。
「冗談がすぎますわ、お姉さま。昨晩あの場に取り残されたか弱い従妹の気持ちになって?あやうく稀代の悪女になるところでしたのよ。」
ぷんすかと頬を膨らませて怒る姿はリスのようで、なるほどディミトリが好意を寄せるのも無理はなかった。ただし、見た目だけの話だったけれど。
「でも、そうはならなかったんでしょう?」
「もちろんですわ。そんな話は昨日あの場で聞いたばかりだし、そもそも大好きなお姉さまの婚約者様と一緒になろうだなんて考えたこともありませんって、ちゃんと宣言してきましたのよ。
お姉さまは一方的に婚約破棄されたお可哀そうな方、という見方がほとんどですわね。そのうち新たな婚約の申し込みが殺到するのではなくて?」
「どうかしら。私の年齢で釣り合う立場の方はみなお相手が決まっているでしょうし、腫物扱いで放っておいてくれるとありがたいのだけれどね。婚約の申し込みが殺到したのはアリスのほうでは?」
「お姉さまはそこまですべてお見通しで今回の婚約破棄を受け容れたのですね。さすがですわ。」
さあ、と首を横に振ってセシルは笑った。
突然ディミトリの婚約破棄騒動に巻き込まれたアリスもまた、可哀そうな令嬢扱いになった。
今まで様子をみていた貴族子息たちは、これを機会にとその夜数名が彼女の元へと駆け寄った。彼女のレートがあがったことによって、アリスはより優れた婚約者を選べる立場になったのだ。
ディミトリをそれとなくたきつけてアリスへ関心をむけさせたのは事実だった。婚約破棄の手助けになってくれた礼としてはじゅうぶんだろうとセシルは口元をゆるめる。
「あなたが来ると思ってアップルパイも焼いてもらったのよ。ぜひ召し上がっていってちょうだい?」
「ありがとうございます。私の大好物を用意しておくなんて、さすが私のお姉さまですわ。」
昨日のことなどなかったようにニコニコ笑うアリスに、子爵が声をかけた。
「すまないねえ、アリスくん。」
「いいえ叔父様。昨夜婚約のお申し出いただいた方々のお名前を告げましたら父も『よくやった!さすがセシル嬢だ。』と申しておりましたわ。」
アリスの純粋な笑顔に、子爵は却って胃の痛む思いをするのだった。
「お姉さまはこの先どうされるのですか?」
アップルパイをほおばりながら、アリスがそう聞いた。
「そうね、女子爵としてこの家を継ごうと思っているわ。結婚はしないから、跡継ぎは養子を迎えるつもりよ。」
うなだれる子爵を横目にアリスはしばらく黙ってから
「お姉さまの思い通りにはいかないと思いますけど。」と言って涼しい顔でお茶を飲んだ。
「どういうこと?」
自分の計画になにか不備でもあっただろうか。
アリスに問い詰めようとしたとき、再び来客の知らせがあった。地理学研究会で親しくしていたリュシアンだった。
「これはまた、派手に楽しくやってたみたいだね。婚約破棄の慰めにと花束を持ってきたんだけど、こんなに華やかでは必要なかったかな。」
リュシアンはそういってウィンクしてみせた。それからラトゥール子爵夫妻に挨拶をすませると、セシルのもとへと歩み寄った。
背中までのびたゆるやかな栗毛をひとつにまとめ、優雅に花束を差し出すリュシアンは、アカデミーで放蕩息子と謳われるだけあってごく自然にセシルの手の甲に口づけた。
「ありがとうリュシアン。婚約破棄のお祝いという意味で頂戴するわ。」
花束を受け取ったセシルは隣の席にリュシアンを案内すると、ワインを勧めた。
「それで、今日はどうしたの?」
「どうせしばらくアカデミーには顔を出さないだろう?だから会いにきたんだよ。」
「そうだったの。そうね、先生方には今朝しばらく休むとお手紙を出したけれど、あなたからもよろしくお伝えいただければ助かるわ。」
そういえば、遊び人のわりにリュシアンはこういう時によく気が付く男だったとセシルは思った。
やろうと思っていたことがいつの間に片付いている。もめごとになりそうな雰囲気になれば「まぁまぁ」と甘いマスクと軽い口調であっという間にその場の空気を和らげてしまう。
ふらふら遊んでいるわりに成績は優秀。面倒ごとを厭わずすぐに動く、まめな性格。女子生徒からの人気は絶大だった。
伯爵家の次男だからゆくゆくは家を出ていくのだと言っていたけれど、彼が跡を継いでいれば良き領主としていい付き合いができるだろうに、と残念に思っていたのだ。
現時点でアカデミー内では、彼の将来はヒモか舞台俳優に成り下がるのだろうという予想がもっぱらだったけれども。
リュシアンは垂れ目がちの優しい瞳でセシルをじっとみつめた。
そういえば、こんなに近い距離で座ることはなかったけど、本当に綺麗な顔だなとセシルは今更ながら思った。
「今日は君の両親にお願いがあってきたんだ。」
「お願い?」
小さく首を傾げて、一体なんだろうとセシルは考えた。
肝心なところでは本心を見せず、人に頼ったことがないリュシアンのことだ。よほど紹介してほしい仕事先でもあるのかもしれない。子爵家は最近国外との取引も多いから、心あたりは何件もあった。
「お姉さま、こんなに優秀でいらっしゃるのにそういうことには鈍感なんですわね。」
傍で見ていたアリスがそうため息をつくほど、彼女の予想は見事にはずれた。
リュシアンはすっと立ち上がるとセシルの両親の前へ歩み出た。
それからよく通る深い声で、その場にいた者全員に聞こえるように切り出した。
「ラトゥール子爵、ならびに子爵夫人にお願いがあります。セシル嬢へ結婚の申し込みを許可いただけないでしょうか?」
そういって頭を下げたリュシアンに、セシルは思わず「へっ?」とまぬけな声を上げてしまった。
これは一体、どういうことだろう。
周囲のざわつきをものともせず、子爵は
「しかし君は伯爵家次男だろう。」と渋った。
「はい。ですから婿入りにはなんの問題もありません。セシル嬢が領地運営する際、力になれると自負するだけの成績はおさめてきたつもりです。」
「仮に結婚を認めるとして、普通に考えれば君が子爵におさまるのが道理じゃないかね?」
子爵の反論に、リュシアンは人たらしの笑顔でにっこりと目を細めるだけだった。
「いえ。私は、一番輝いているセシル嬢の傍にいられればそれで充分なんです。そしてそれは、彼女が領主になるより他はないと思っています。」
「なるほど。しかし伯爵家の君が、子爵家に婿入りして領主にならないというのは評判をさげることにならないのかね?」
「両親には許可を得ての求婚です。それにもともと放蕩息子と呼ばれるほど地におちた評判ですから。もちろん彼女と結婚できるなら心を入れ替えて誠心誠意セシル嬢とこの家のために尽くします。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なぜいきなりそんな話になるの?」
椅子から立ち上がったセシルはリュシアンと両親の顔を見回した。
「セシル、あなた彼の表情を見ても分からないの?」
「お母様?どういうことですか?」
子爵夫妻は、昨晩からもう何度目になるか分からない深いため息をついた。
「仕事以外のことはこのありさまだ。それでも良いのかね?」
「そんなセシル嬢がいいのです。」
今まで見たこともないくらい優しい顔でこちらをみつめるリュシアンを前に、セシルは初めて一つの答えにたどり着いた。
「…もしかして、私のことを好きでいてくれたの?」
「そういうこと。」
「いつから?」
「入学してわりとすぐから惹かれていたよ。君は学年首席でそれなりに目立っていたからね。」
「まさか…!」
「今までどんな女の子にも心動かなかったから、君に出会った時は自分でも驚いたよ。でも、君には婚約者がいた。どう頑張っても俺の気持ちが通じることはない。だったら適当に遊んで楽しく過ごして、陰ながらセシルの力になれればそれでいいって、納得させてきたんだけど。」
「リュシアン様の涙ぐましい片恋が報われるべく、善は急げ、ってことでわたくしがこちらに来るようお声がけしましたのよ。」
自慢気にそう笑うアリスと、照れくさそうなリュシアンを見て、セシルはようやくすべての事態を理解した。
放蕩息子とはいうものの、決して女性を無下に扱ったりはしてこなかったリュシアンは、学年問わずモテていた。
そんな人間が自分を好きだなんて一体どういうことだろう。けれど、彼の表情をみれば本気であることは疑いようもなかった。
リュシアンはラトゥール子爵のほうを見やった。しばらく目を瞑って何かを考えていた子爵は、まっすぐリュシアンの方を見つめて無言のままに深く頷いた。
リュシアンはセシルの前にひざまずくと、恭しくその手をとり、自分の頭の上へ掲げた。
「セシル・ラトゥール嬢、あなたのことが好きです。どうか私と結婚してくれませんか?」
その瞬間、応接間にいた全員がわっと歓喜の声をあげ、抱き合うものもいた。
セシルは一人戸惑いながら両親のほうを伺ったが、それも意味のないことだった。
「あなたのことはずっと友達だと思っていたから、今すぐ”はい”と頷くことはできないわ。」
思えばいつも一緒にいてくれた。帰りが遅くなった時は心配だからと馬車乗り場まで送ってくれたこともあった。生徒会の手伝いが忙しければ、地理研究会での活動をまとめてあとから参加してもついていけるように配慮してくれたり、お菓子を差し入れてくれたのもリュシアンだった。
「なに言ってるんですかお姉さま、ここは承諾一択ですわよ!」
思わず野次を投げ入れてきたアリスに、リュシアンは片手をあげると苦笑いで制した。
「いいんだ。ねぇセシル。君にとって俺はずっとただの友達だっただろうけど、ここからは結婚相手と考えて欲しいな。思いもかけずめぐってきたチャンスを逃したくない。領主になったセシルを一番近くで支えたいんだ。」
「リュシアン…。」
「ちなみに俺を婿養子にしてくれたら、ランヴェール伯爵領特産のヤスミン香油を卸値で提供するよ。きみが進めていたジェスト川護岸工事の援助も父に話を取り付けてある。あの川の支流はうちの領地にも流れ込んでいるからもともと多少の支援をする話はあったんだけど。
計算は得意で数字には強い方だし、基礎教養と剣術、ダンスの成績は知っての通り。お茶を淹れるのもそれなりにうまいと思うんだけど。どう、俺ってけっこうお買い得じゃない?」
いたずらっ子のようにニヤリと笑い、あっという間に茶化した空気に変えたのは、突然求婚されて驚いているセシルにこれ以上圧をかけたくないからだろう。
こういう小さな気遣いにいつも助けられてきたのだと、セシルは今更ながら気付いてしまった。
「ひとつ訂正させてもらうけど、あなたの淹れてくれるお茶はそれなりじゃなくてとっても美味しいわ。」
彼女はひとつ深呼吸をして、まっすぐリュシアンを見上げた。
「…前向きに、検討させていただきます。」
「本当に?」
「ええ。」
「ありがとうセシル!愛してるよ!」
「ちょっと、リュシアン…!」
はっきりした返事をしたわけではないのに、喜びをあらわにその場でセシルを抱き上げたリュシアンを見て、アリスは首を傾げた。
その疑問は、そばに控えていた侍女マルタによって解き明かされた。
「セシルお嬢様の”前向きに検討する”は了承したと同義なのです。」
「なるほど。はっきり明言しないお姉さまらしい返答ね。」
パーティーはこの日一番の盛り上がりを見せ、執事のオーランドーが仕事を再開できたのは翌朝のことだった。
**
結局、セシルは一週間休んだだけでアカデミーへ復帰した。
リュシアンやアリスがどう根回ししたのか、登校した際にはいろんな生徒から
「ご婚約おめでとうございます。」
とにこやかに声をかけられた。
ディミトリからの婚約破棄については誰も触れず、そもそも彼との婚約そのものがなかったかのように扱われた。可愛いだけではないアリスの本領発揮である。
そして休学したのは騒ぎの当事者だったディミトリのほうだった。
ディミトリは両親の留守を狙って公爵家で勝手に婚約破棄を切り出した上、翌日ラトゥール家がよこした婚約破棄証明書をろくに確認もせずサインをしたことで、婚約破棄は決定的なものとなった。
セシルに落ち度がなかったことは明らかで、ハント伯爵家長男の礼儀知らずの振る舞いは翌日の新聞やゴシップ紙を賑やかに飾り立てた。
一方的な婚約破棄による慰謝料。そしてこれまでハント領へ支援してきた額面の半額の返還要求も、伯爵家には相当な痛手だった。
「お父様、お言葉ですが俺にはもっとふさわしい結婚相手がいたはずです!確かにセシルは成績優秀でしたが、伯爵夫人としての役目を果たせるとは思えません。なぜ子爵家など格下相手にそこまでへりくだるのですか?」
「お前は一体アカデミーで何を学んできたというのだ。人の本質を見抜けぬまま、礼を欠いた行動をとるためにアカデミーにやったわけではない!この愚か者が!」
相手を家格でしか見ていないディミトリに、父であるハント伯爵は深くため息をついた。
息子にどう言い聞かせようが、何かが返ってくることはない。子爵家からの援助も、若く聡明な未来の事業家たりうるセシルも。
ディミトリは卒業を待たずしてアカデミーを退学した。そして規律が厳しく過酷な訓練で知られる西の辺境騎士団へ見習いとして出されることになった。
家督はディミトリの歳の離れた弟が継ぐことになり、事実上の勘当といってもよかった。
ハント伯爵からの正式な謝罪には、これで手打ちにしてほしいという切実な願いがこめられていた。国王もラトゥール子爵家もこの謝罪を受けいれ、騒動は収束した。
というよりも、今となっては人が変わったようにセシルの傍を離れなくなったリュシアンの話題でもちきりだった。
*
「ねぇリュシアン。たまには私に付き合わずに好きに過ごしていいのよ。」
他のメンバーが帰ったあと、地理学研究会の部屋で生徒会の仕事を一緒に手伝うリュシアンに、セシルは困ったように笑う。
「大丈夫、好きに過ごしてるよ。俺って好きな子にはとことん尽くしたいタイプだったみたい。」
そんなことをを軽々と言ってはウィンクを飛ばしてくるリュシアンは、心底楽しそうだ。
「…ならいいけど。」
とまどいながらも、彼女がペンを動かすスピードは変わらない。
ドレスや宝石よりも仕事が好きで、婚約者に嫌われることよりも税率の計算を間違えることを恐れているセシル。
告白することすら許されない。彼女が手に入らないのならと結婚を諦め、自暴自棄に女の子とデートを繰り返してきたこともあった。
けれども、本当の意味で彼女に恥じるような行動はしてこなかった過去の自分に、リュシアンはよくやったと喝采を送りたい。そんなことを思いながら、彼はセシルのゆるやかなピンクブロンドの髪をひと房指に絡めて、唇を近づけた。
「リュシアン?どうしたの?」
「ん?今はこれで我慢しておこうと思って。ねえセシル、結婚したら君の思うままバリバリ働いてね。それでもし倒れるようなことがあっても、俺が看病してあげる。安心して休めるように仕事だって滞らせないよ。」
「そこは倒れないように、じゃないの?」
「本当はそれが正解なんだけどね。セシルはちょうどいいところで切り上げるなんてできないでしょ。今だってもうすぐ日が暮れるのに、全然帰ろうとしないし。だから俺は何かあった時に全力で支えようと思ってるの。」
「改めて思うけれど、私ってものすごい人に結婚を申し込んでもらったのね。」
「ありがとう。10年後も20年後もそう思ってもらえるように頑張るよ。さ、日没の鐘が鳴ったよ。どうしてもというならそれは持ち帰りにして、いい加減帰ろう。」
「うん。あのねリュシアン。ありがとうって言うのは私のほうだわ。その…私も好きよ。」
「っなんかもう、本当に腐らないで良かったよ、俺。ずっとセシルだけを好きでいて良かった。」
どこまでも自分に寄り添ってくれるリュシアンに抱きしめられて、セシルは胸がいっぱいだった。
大聖堂が告げる日没の鐘は、いつまでも二人の幸せを祝福しているようだった。
最後までお付き合いいただき大変ありがとうございました。
この短編のほかにも、完結済の中編と連載中の長編を書いています。
同じく異世界恋愛モノなので、もしよろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
また別のお話でお目に書かれますように。
ありがとうございました。
夕波