誘拐と食パン⑧
「ベル、怪我はないかい? どこか痛いところは?」
抱きしめていたベルを離し、リックが心配気にベルの顔を見つめる。
その瞳からは不安だった思いが読み取れ、何も言わなくともリックの愛情を感じることが出来た。
そんなリックにベルは首を横に振って応えた。今何か言葉を出せば涙が出てきそうだったからだ。
怖かった。
来てくれて嬉しい。
恐怖と安堵が入り混じった感情が込み上げ、上手く声を出すことが出来ない。
「ああ、良かった……ベル、心配したよ……」
そう言ってリックがまたベルを抱きしめる。
大好きなリックの優しい声と温かな体温が、ベルを心から安心させてくれる。
(ああ、良かった、約束を守れた……リック様にまた会えた……)
ベルもまたリックの胸に手を回し、抱きしめ返す。
ドクンドクンと聞こえるリックの心音が、生きている事を実感させてくれた。
「リック様、有難うございます……助けてくれて……」
やっと出たお礼の言葉とともに、ここまで我慢していた涙がぽろりと零れた。
リックに会えてよかった。
無事に戻れて良かった。
もう二度と離れたくない。
色んな思いが込み上げて、こぼれそうになる涙を誤魔化すようにリックの胸にうずくまり顔を押し付ける。
リックの傍にいるだけで安心できる。
あんなに恐ろしかった気持ちが、今は全く消えている。
ベルを絶対離さないと強く抱きしめるリックのお陰で、ベルは涙を止めることが出来た。
「ベル、顔を見せて……」
リックの囁くような甘い声に、ベルはそっと顔を上げる。
リックの緑色の瞳は少しだけ潤んでいて、ベルを助けられたことに安堵しているのが読み取れた。
「リック様……」
リックを見上げ、ベルも見つめ返す。
お互いの目が合うことがとても嬉しい。
「ベル……」
名を呼ばれ、リックの手がベルの頬に触れる。
その手にベルからも頬を寄せ、自分の手を上から重ねた。
リックの顔がゆっくりと近づいてきてキスされるのかもと思った瞬間、「ぐぇっ」とリックから変な声が飛び出した。
「マーベリック様、そこまでです」
二人の世界を止めるように、リックの襟を余裕顔で引っ張った人物は公爵家執事ウォルター。
普段から真面目な顔を崩さないウォルターだが、今はリックを見つめるその目が厳しいものになっている。
「まあ、ウォルター! 貴方迄来てくれたの?」
ベルは思いもよらぬ人物の登場に淑女らしからぬ大きな声を上げた。
そんなベルを見てウォルターの顔がほころぶ。
「イザベラお嬢様、ご無事で何よりです」
いつもの執事服ではなく、乗馬服のような動きやすい黒服を着ているウォルター。
執事でありながらベルを助けるために動いてくれたようで、申し訳ない気持ちになる。
「ウォルター、心配をかけてしまってごめんなさいね」
「いいえ、悪いのはあの者たちですから」
ウォルターはそう言って鋭い視線をクランプスの偶像団に向けた。
視線だけで射殺せそうな目つきに、ウォルターがただの執事でないことをベルは悟る。
ウォルターは先程からリックとベルの近くにいた様だが、まったく気が付かなかった。それだけでも能力の高さに驚かされる。
ウォルターは軽々と引っ張っていたリックを離すと、ベルの様子を確認する。
服や髪は少し乱れてはいるが、特に怪我も無く元気なことにホッとしてくれる。
いつものウォルターらしい表情に戻ると、「イザベラお嬢様、ロナルド様が外でお待ちですよ」と声を掛けてくれた。
「お兄様が?」
まさか現公爵であり、王位継承権を持つロナルドまでもがこんな危険な場所に出向いてくれているとは思わなかった。
家族の愛情の深さにベルの胸が温かくなる。
マティルダもきっとベルを心配し胸を痛めている事だろう。
「ウォルター……助けに来てくれて有難う」
笑顔でお礼を言えば、キリリとした表情を緩めいいえと答えられる。
「さあ、イザベラお嬢様、ロナルド様が待つ馬車へと向かいましょう」
そう促され、ベルはやっと現実世界に目を向けた。
いや、リックや家族のことを聞いたことで心が落ち着きを取り戻して周りが見えたと言える。
目を向けた現場の様子にベルは驚く。
第三騎士団の副団長のイーサン・ジグナルを始め、第三騎士団の者達の多くが揃っていてクランプスの偶像団のメンバーを縛り上げていたからだ。
助け出された瞬間はリックしか目に入っていなかったが、これだけ多くの人がベルを探してくれていたことに驚く。
リックと二人だけの世界の時は周りの喧騒など聞こえていなかったが、厨房内だけでなく他の部屋からも大きな物音が聞こえてくる。
第三騎士団に捕縛され騒ぐ男たち。
だがその中にクランプスの偶像団の頭領ジンは居ない。
もしかしたら危険を察知し逃げたのかもしれない。
暗闇になった瞬間もジンだけが逃げろと素早く反応していた。その可能性は高いだろう。
それにこれだけ大きな盗賊団なのだ、逃げる準備が出来ていてもなにも可笑しくはなかった。
「ベルさん!」
名を呼ぶ声がする方へ視線を向ければそこにはザックが居た。
どうやらザックもベルの救出に参加してくれていたようだ。
別の場所にいたのかベルの姿を見て笑顔を浮かべ近づいてくる。
「無事で良かったよ!」
ホッとしたザックの笑顔にベルも笑顔を返し「ありがとう」とお礼を言う。
だがザックが捕まえている男を見てベルの目が丸くなった。
「フレッド……」
どうやら魔法が使えるザックがフレッドの捕獲を担当していたらしい。
縛られて子供の癇癪のようにじたばたともがくフレッド。
足をバタバタ動かしてまるで子供のような姿だが「離せ離せ」と発する声はだみ声で、違和感しかなく気持ち悪ささへ感じる。
「僕を離せ! 僕は有名な魔法使いなんだぞ! こんな扱いをしたら只では済まされないぞ! 僕はセルリアン王国に戻るんだからなっ!」
子供のように駄々をこねるフレッドに、捕まえたザックだけでなく周りにいる者達も呆れた視線を向ける。
魔法使いであり、魔力量が多く、その上魔法の大家の子息であったフレッドは、常に一目置かれ特別扱いされて来た存在であり、そのせいか自信家で向こう見ずな所が前からあったが、ここまで愚かでは無かったはずだ。
ベルを断罪した時からセルリアン王国の王太子クリスタルディ・セルリアン達は何かが狂い始めたのかもしれない。
悪役令嬢が機能しなかったのだ。
ヒーロー、ヒロインが活躍できないのも当然なのかもしれない。
本来悪役令嬢であるイザベラ・カーマインは彼らの敵であり、聖女の敵であり、セルリアン王国の敵でもあった。
けれどベルは悪役令嬢でいることが嫌でそうならないように気を付けて生きて来た。
反対に聖女は怠けてばかりで成長することはなく、クリスタルディと怠慢に過ごす日々を選んだ。
クリスタルディ達も、楽な方へと逃げてしまった。
その中で王太子の婚約者であったベルだけが手を尽くし国を支えていた。
国王陛下でさえクリスタルディ達を諫めることはしなかった。
だからこそベルを断罪したことでバランスが崩れてしまった。
その事をすぐに理解し、己を顧みて改善すればよかったのだが、彼らはベルを断罪したことで悪役が居なくなったと満足してしまった。そこがゴールだと勘違いしたのだろう。
ベルが彼らを恨み何かしたのではなく、今までの行動が彼らに返って来たのだ。
フレッドはそのことを受け止められなかった。
そうなれば当然フレッドも悪い方へ流れてしまう。
ベルの目の前でもがく姿は、同情する程に惨めに思えた。
結局物語の中だろうゲームの中だろうと、努力をしなければ成長出来ない。
フレッドの姿はそれを物語っていた。
「フレッド、貴方はもう魔法使いではないわ、ただの犯罪者よ……」
「イザベラーっ!!」
イザベラの姿がやっと目に入ったフレッドは憎々し気にベルを睨んできた。
まるでこんな理不尽な目に遭っているのはベルのせいだと言いたげな視線だが、全てフレッドの愚かな行動と今までの行いが返ってきただけである。
自分を責める癖があるベルだって今のフレッドには同情する気など起きなかった。
「あの日……クリスタルディ様の成人祝いの席で、貴方達は私を断罪したわ」
「それがどうした!」
目を血走らせ喚くフレッド。
顔も声も変わり、生活がこれ程変わっても、彼は何も学んでいない。
ベルが悪であることを望むその姿は滑稽であった。
「それで貴方達は幸福になれた? 悪である私がいなくなって幸せになれたの?」
「……っ!」
幸せだとは到底思えない姿をさらす自分に、フレッドも自覚があるのだろう。
醜くなった顔が酷く歪み、益々醜悪に染まる。
フレッドは全てお前のせいだとベルに責任転嫁をしようとしたが、ベルは首を横に振る。
手にあるものを大切にせず、傲慢に振る舞っていたのはベルではない。
ベルを責めても、ベルを捕まえても、ベルをセルリアン王国に戻したとしても、もうあの頃には戻れない。
フレッドには認めたくない現実であっても、それを理解させる必要がある。
元幼馴染としてベルはその引導を渡した。
「貴方は素晴らしい魔法使いになれる才能が有った。けれど聖女と共に過ごす時間を優先し、怠惰に過ごすことで魔法使いとして成長出来なかった。上手くいかない責任を私に押し付ければ現実を見なくて済んだわよね。私を悪く言えば貴方達はいつだって聖女の英雄でいられた。そうでしょう? でもね、もうあの頃には戻れないの、貴方は犯罪を犯した。これからは魔法使いではなく囚人として生きて行くのよ。それが現実なの」
「そんなの! 僕は絶対に認めない! 僕はセルリアン王国一の魔法使いなんだ! イザベラ! 今すぐセルリアン王国に戻るんだ! クリスタルディ様の元へ戻れ! そうすれば全部上手くいくんだ!」
まるで自分の命令をベルが聞いて当然とでもいうかのようにフレッドが騒ぎ出す。
昔に戻りたい。
自由でいられたあの頃に戻りたい。
幸せになったベルだってその気持ちは分かる。
でもあの頃の事を思い出せば、セルリアン王国に戻りたいとは思えない。
特にベルを悪く言う彼らとは、また一緒に過ごしたいなどとは絶対に思えない。
ベルが犠牲になって成り立つ幸せなどどうせ長くは続かなかった。
もし無理矢理戻されベルの居る生活を彼らが迎えたとしても、あの頃と同じ時間は戻らないのだ。
ここまで説明しても、フレッドはその事に気付けなかった。
「フレッド、私は貴方達と離れてやっと幸せを掴んだの、もうセルリアン王国に戻るつもりはないわ」
「な、何でだよ! お前は、クリスタルディ様のことを愛しているんだろう! ヒカリに嫌がらせをするぐらい愛していたじゃないか!」
余りにも突拍子のない言葉にベルは驚く。
クリスタルディを今もまだ愛している?
あり得ないフレッドの言葉に思わず笑ってしまう。
婚約者として愛そうとしたことは確かにあった。
幼い頃、仲が良かった時には愛しいと思えたこともある。
けれどそれはもう全て消えた過去のこと。
今本当の愛をリックや家族から受け、ベルはあの頃の愛が愛とは違う呪縛のようなものだと分かる。
あれだけの事をしてもまだ、ベルが自分たちを大切に想っているはずだと勘違いするフレッドの言葉には、呆れすぎて苦笑いしか出なかった。
「フレッド、申し訳ないけれど、私はクリスタルディ様を愛してなどいません」
「なっ、なんで? なんでだよ!」
理解できないとフレッドが目を見開く。
ベルが嫉妬から聖女を虐めたと思っているフレッドからすると、ベルの言葉は納得できないものらしい。
ベルは自分の隣に守るように立つリックに視線を向けニコリと微笑む。
自分の愛しい相手はここにいる。
フレッドにその姿を見せつけたかったからだ。
「フレッド、もう二度と会うことも無いでしょう。貴方は、いえ、貴方達はもっと周りを見るべきだった、学ぶべきだった。今更遅いかもしれないけれど、自分たちが特別ではない事を理解するべきだった。努力するべきだった。それがあれば私は今もあの国にまだ居たのかもしれない……でももう全て、今更だわ。全て終わった事よ」
「イザベラっ!!」
ベルの名を叫ぶフレッドにベルは笑顔を向けた。
自分は幸せだと、その表情で分からせたかった。
「フレッド、さようなら……」
幼馴染に背を向け、ベルは歩き出した。
兄であるロナルドの待つ馬車へと向かう。
そこが今、ベルがいるべき場所だ。
もう彼らに向ける愛情など何も無い。
彼らの事を思い出す事があったとしても、それは愛情ではなくただの記憶に過ぎない。
「イザベラーーーーっ!!」
泣き叫ぶフレッドに別れを告げ、ベルは前に進む。
自分がいるべき場所は彼らの下ではない。
このビリジアン王国だ。
この国でベルは生きて行く。
断罪され逃げ出してから初めて誓った決意を、ベルは今思い出していた。




