誘拐と食パン⑦
作業を始めてちょうど一時間経っただろうか、急いで作ったパンの生地がどうにか出来上がり、ベルは食パンを焼き始めることにした。
準備万端のオーブンにパン生地を入れれば、徐々にパンを焼くいい香りが広がり始める。
換気扇を最大にし、ベルは建物の外にも香りが広がるように工夫をする。
「パンが焼ける間に掃き掃除をしたいのですが、少し窓を開けてもらえますか?」
ベル自身が窓を開ければ男たちは警戒するところだが、自分たち自らが開けるとなればそこは別のようで、ベルの言葉に頷き素直に窓を開け、掃除道具の場所まで教えてくれた。
ベルが何もできないか弱い女性であることと美味しいものが食べられそうだということが、男たちの警戒心を緩めたようだ。食欲は侮れない。
調理場だけでなく、外にまで広がるベルの作るパンの香り。
食パンを焼く時間は普段より少し時間をかけて、三十分ぐらいにしようと決める。
少しぐらい焦げたって構わない。
慣れないオーブンだったからと言い訳すればいいだろう。
けれどその時間がベルの中では途轍もなく長く感じた。
掃き掃除をしながらも、どうかこの香が届いて欲しいとそればかり願ってしまう。
リック様
お兄様
お母様
ザック
お願い、どうかこの香に気が付いて……
祈りに近いようなそんな願いを胸に、ベルは気を紛らわせるように掃除に集中する。
調理場に料理人が不在だったお陰で、掃除する場所は十分にある。
無心のままに床を掃き、残りの皿を洗い、散らかった物を片付ける。
その間にも焼き上がりが進むパンの香りはどんどん強くなる。
「おい、なんかいい匂いがするなー」
「料理でもしてんのかー?」
匂いに釣られてクランプスの偶像団の見張り以外の男たちも顔を出す。
だがベルは掃除に意識を向け、それに応えはしない。
男たちが騒げば、きっと外に声が漏れるだろう。
それはベルにとってとても都合がいい。
ベル以外の事ではどうぞ騒いでくださいと言いたいぐらいだ。
そんな考えもあって、実はパンの数を少なめに焼いた。
貧しい食生活を送っていた彼等ならば、ベルのパンは魅惑的な物に映るだろう。
その上魅力的なパンの香りが広がり中なのだ。
焼き上がりが近いほどパンの香りは強くなる。
なので自然と厨房に人が集まるのも、ベルの計算の内だった。
「おい、お前、いや、あんた、パンはまだ焼けねーのかよ?」
最初から厨房にいた男の一人が、ベルに声を掛けてくる。
どうやら良い匂いのせいで空腹が我慢の限界を迎えたらしい。
一人が騒げば当然他の者たちもまだかまだかと騒ぎ出す。
ベルは内心してやったりと笑いたいところだったが、そこは怯えるような様子で「少しお待ちください」と答えるだけにした。
30分経ち、遂に食パンが焼けた。
待っている時間はとても長く掃除がはかどったお陰で、最初とは別の部屋と言えるぐらいに調理場は綺麗になった。
ベルはオーブンのふたを開け、焼きたてのパンを取り出す。
パンは焦げることなく無事に焼けたが、やはり満足の行く仕上がりとは行かなかった。
だが、そんな事はどうでもいい。
見た目は特に問題は無い。
ここにある材料で作ったパンならば及第点といったところだろう。
ベルはオーブンのふたを閉めることなく開けたままにし、わざと匂いを広げる。
焼いたパンも切り辛いという言い訳をし、すぐには切らずそのまま台に置いて時間をおくことにする。
「なあ、なあ、まだなのかよ」
「もう焼けたんだろ?良いんじゃないか?」
「早く食べようぜ」
厨房内や扉の外で騒ぐ男たち。
クランプスの偶像団が何人いるかは分からないが、ここには十人以上集まっているようだ。
あまり騒ぎ出してもジンが戻って来ては台無しになるだろう。
ベルは何気ない風を装い「はい」と返事を返すと、ゆっくりとパンに切り目を入れる。
一枚一枚切り分ける度またパンの香りが広がり、緊張しているベルでさえお腹が鳴りそうになる。
せっかく調理場を綺麗にしたのでついでに目玉焼きを作り、冷蔵魔道具の中にあったウィンナーとベーコンも焼く。
本当は皿にサラダも乗せたいところだが、残念ながら生野菜などここの冷蔵魔道具の中にはまったくと言ってもいいほど揃っていなかった。しなびれた野菜ならば可哀想な状態で見つかったが、流石にそれを使う気にはなれない。
「フレッドとジンさんの分は取り分けましたので、残りは皆さんでどうぞ」
一斤だけ焼いた食パンをベルは厚めに切り分けた、フレッドとジンの分を除けば残りは八枚、目玉焼きとウィンナーなどもセットで八個。当然食事は八人分しかない計算になる。
意地悪だけれど仕方がない、ベルは男たちに喧嘩をしてもらい外に騒ぎを聞かせて欲しいのだ。
案の定、男たちは誰がベルの作ったパンを食べるかで喧嘩を始めてしくれた。
その上まだ窓は開いているし、換気扇もついている。
お陰でパンの匂いだけでなく、きっと男たちの声も外へ漏れているだろう。
困った表情を浮かべながらも、ベルは内心でもっと騒いでほしいと願う。
風に乗ってリックの下へベルの作ったパンの香りが届いてほしい。
男たちの騒ぐ声が外の住人に聞こえて欲しい。
ベルはか弱い女性の演技を続けながらも、そんな小さな願いを込めていた。
「おい、てめーら、何の騒ぎだっ!!」
厨房の扉が勢い良く開くと、ジンを先頭にクランプスの偶像団の幹部らしき男たちと、その後ろからはフレッドもやってきた。
ジンは答えも聞くことなく騒いでいる男たちを加減なく殴り飛ばし、数人の男が物を倒しながら転げて行く。
それを見て先程まで騒がしかった他の男たちがシーンと静まり返る。
「お前ら、今の俺達の立場を分かって騒いでんのかっ!」
喝を入れたジンは厨房内を見まわすと驚いたような顔をする。
あれだけ酷かった厨房がほんの少しの時間で片付いたのだ、その事に驚き目を見張ったのだろう。
それと貴族令嬢であるベルがここまで片づけが出来ることにも驚いたのかもしれない。
だがそれも一瞬。
ジンは開いている窓に目をやると、幹部の男に声を掛けすぐに閉めるように命じた。
そしてそのままベルの傍へとやって来る。
睨みを利かせているが、その表情は心なしか焦っているようにも見えた。
そんなジンの様子に先程まで騒いでいた男たちは元々この場にいた男たちを残し、他は皆逃げるように去って行った。
近づいて来たジンはベルの前へ立つと、ベルの顎を持ち上げ顔を覗いてくる。
苦々しいものでも見るかのようなその表情に、ジンがベルの思惑に気付いたことを悟った。
「あんた……いや、イザベラ、俺がちょっと目を離したすきに色々とやってくれたようだなぁ」
ベルの顔を掴むジンの手にグッと力が入る。
痛みを感じながらもベルはジンを睨み返した。
出来ることはやり切った。
ジンに見つかればこうなることは分かっていた。
もしパンの香りにリック達が気付かなくても、ここでパンを焼けばベルがいた証になる。
リック達ならば必ずこのアジトに辿り着くだろう。
その時にベルがいた痕跡を見つければ、何かしら対策を立ててくれるはずだ。
そんなベルの考えが分かったからか、ジンは先程まで浮かべていた軽い笑顔を消すと、ベルを捕まえていた手を離し慌てるように指示を出した。
「チッ、おい、お前ら、すぐにここから逃げる準備をしろ! いくらこの辺りに人気がないと言ってもこんだけ騒げば気付かれているかもしれねー、急いでセルリアン王国に逃げるぞ!」
ジンの指示にクランプスの偶像団のメンバーはすぐに動き出したが、一人だけ納得できない人物がいた。それは勿論既に餌付けが済んでいるフレッドだ。
「えっ? ジン、ちょっと待ってよ、折角だからイザベラの作ったパンを食べようよ。目玉焼き迄あるし、すっごく美味しそうじゃないか」
ジンの怒りが見えないのか、相変わらず空気が読めないのか、フレッドだけはこの場に似合わない陽気な声を出す。
そして一人ベルが作ったパンに齧りつくと「懐かしい味ー」と、見た目が様変わりしたその顔を崩した。
「フレッド! たくっ、もういい、お前はそのまま移動しろ!」
フレッドを睨みつけながら、ジンは一人の男にベルを渡し、捕まえているようにと命令をする。
どうやらタイムリミットが来てしまったらしい。
だがベルは自分が今出来る精一杯の事をしただろう。
もしこのまま移動したとしても、その先でも何かしらの痕跡を残したい。
もうパンは焼くことは叶わないかもしれないが、ベルの作ったパンを美味しそうに食べるフレッドならば、また食べたいと言い出す可能性は高い。
それにジンは、こんな我儘なフレッドでも手が出せないらしい。
今も周りには急げといいながらも、フレッドの行為は見逃している。
フレッドが希少な魔法使いだからか、それともフレッドがいなければセルリアン王国と繋ぎが取れないからか。
まだきっと逃げるチャンスはある。
この場の様子をジッと見つめながら、そんな勝算を見出したベルだった。
「おい!フレッド、お前いい加減にしろ!そのままでいいから動けよ!」
痺れを切らしたジンがフレッドに声をかける。
だが食べることに夢中なフレッドは振り返りもしない。
フレッドは昔から自己中なところがある。
なので本気でジンの言葉など聞こえていないのだ。
お皿を抱えてまだ食べ続けるフレッドにジンはため息を吐きながらも、どうにか体を引っ張り部屋から出ようとした。
「行くぞ!」
その瞬間、部屋の中の灯りが一斉に消えた。
「敵だ、逃げるぞ!!」
暗闇の中、ジンの叫び声だけが部屋の中に響く。
だがその声を合図にしてか、風を切るような音と人が殴られるような音がベルの周りで聞こえ始める。
ジンからの指示でベルを捕まえていた男も、誰かに殴られたのか「うっ」と呻き声を漏らしながらベルの手を離してその場に倒れた。
真っ暗な中、何があったのか分からないが、次々と人が倒されているのを感じる。
きっと邪魔になる、ベルは動かない方が良い。
一歩も足を動かすことなく、ベルはその場で恐怖に耐えた。
「ベル!!」
暗闇の中、愛しい人がベルの名を呼んだ声が聞こえた。
それと同時に部屋の灯りが戻り、大好きな人の中にベルは包まれた。
「ベル、ベル、ベル!」
何度も名を呼ばれ、リックがギュッと力強くベルを抱きしめた。
「リック様!」
リックの名を呼び、ベルもリックを抱きしめ返す。
リックが助けに来てくれた。
リックが駆けつけてくれた。
リックの腕の中に包まれたベルは、心の底から安堵した。
遅くなりました。m(__)m