表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/110

クイニーアマンとその中身

「はぁー……俺はなんて馬鹿なんだ……」


 シャトリューズ侯爵家の一室で、体は立派に成長した筈のいい男が一人頭を抱え小さくなっていた。

 その男は勿論シャトリューズ侯爵家三男坊、マーベリックことリック。

 大切な婚約者であるベルに対し、醜い嫉妬心から愚かな言葉を吐いてしまい自己嫌悪に陥っている。

 今更無かったことにと思っても言ってしまった言葉は取り消せない。

 自分の愚かさが情けなくって仕方がなかった。


「やっぱり今から謝りに行くべきだな」


 そう気合を入れてチラリと時計に視線を送る。

 リックの気持ちを理解してくれてはいないのか、無情にも時計は間もなく明日を迎えようとする時間。これからの訪問など迷惑でしかない。


 ここ数週間仕事の忙しさを言い訳に、ベルへの対応を後回しにしたツケが回ってきたというべきだろうか。

 騎士塔へと泊まらない久しぶりの夜だからこそ、ゆっくりとベルの事を考える時間が出来たからというか、己の浅はかな行動を見直す時間が出来たというべきか。

 時計の正直な姿を前に、リックは悶々と悩み無駄な時間を過ごしていた自分に呆れるしかない。


「よし、せめて手紙を書こう。それで仕事前にウィスタリア家に寄って行こう」


 朝早い訪問は深夜の訪問と同様に失礼な行為になる。

 そこは婚約者ということで大目に見てもらい、手紙を託すぐらいならば問題は無いだろうとリックは自分に言い訳をする。


 アイザック・オランジュとベルの仲を本気で疑っていた訳ではない。


 ただリックが狭量なだけだ。


 ベルがザックを褒める度、胸の奥がうずく。


 ベルがザックに笑顔を向ける度、手に力が入る。


 ベルがザックの名を呼ぶ度、耳を塞ぎたいと思ってしまう。


 言い訳をするわけではないが、仕事の忙しさや寝不足も己の判断を鈍らせる原因になった。

 それとベルが囮になると言いだしたことで、心の余裕がなくなった。


 そこに「ザックがいれば心強い」というベルの言葉が追い打ちをかけた。


 自分よりもザックの方がベルに信頼されている。


 そう感じたらもうベルを責めることをやめられなかった。




「リック坊ちゃま、お客様です」


 リックが机に向かいベルへの手紙を書きだそうとしたところで、部屋の扉を遠慮がちに叩く音がした。


「ウィスタリア公爵閣下がお見えになりました」


 また時計を見てこんな時間に?と思いはしたが、先程まで自分もウィスタリア公爵家に行こうと悩んでいたのでロナルドの行動は正しいと思えた。


「すぐに向かう」


 最低限の身なりを整え、リックは部屋を飛び出した。

 もしかしたらロナルドがベルを連れてきているかもしれない。

 いや、こんな時間だ、もしかしたらベルからの手紙を届けに来てくれただけかもしれない。


 そんな淡い期待のもと応接室の扉を開けると、お茶を飲み寛ぐロナルドの姿がそこにあった。


「やあ、シャトリューズ騎士団長(・・・・)、夜分遅くに済まないね」


「い、いえ……」


 自分に向けられた笑顔と言葉でロナルドの怒りがわかりゾッとする。

 いつも通り貴族らしい笑みを浮かべているが、その目は笑っておらず、冷え冷えとする圧まで感じる。


 物理的な力技や剣技ではリックに断然軍配が上がるだろうが。

 だが、何故かこの人には勝てない。ロナルドにはそう思わせる何かがあった。

 普通の強さとは違う、不思議な力があるように感じた。


 王者の風格。


 ロナルドからはそれがにじみ出ている様だった。


 ロナルドの笑みを見て悪魔公爵と呼ばれるだけのことはあると納得したリックだった。



「ロナルド様、あの、本日のことはーー」

「ああ、シャトリューズ殿、謝らなくていいよ。今日の事に対し私は何も思うことは無い、私はね……」

「は、はい……」


 謝らなくていいとの優しい言葉だが、謝らせる気は無い、とそう言っていることが判る。


 それに()はという言葉の後に続くのは、ベルなのか、それともマティルダなのか、とても気になるところだが『シャトリューズ』と呼ばれている時点で聞くに聞けない。


 リックは席に着くと喉も乾いていないが、取りあえずロナルドを真似てお茶を飲む。

 手持ち無沙汰というか、何というか、居た堪れない空気の重さに、黙ってロナルドの次の言葉を待つしか無かった。


「さて、もう今夜も終わりそうだ。さっさと話を進めようか」


 ロナルドはそう言うと、自身の横にあった箱をテーブルの上に載せた。


「イザベラから君にプレゼントだ」

「えっ……?」


 ロナルドが箱を開けると、甘い香りが部屋に広がって行く。

 バターと砂糖、それから小麦がまじりあった香ばしい香り。

 ベルが作るパンの香りに胸がドクンと高鳴った。


「君の為にとイザベラが思案して作ったパンだよ。シャトリューズ侯爵領のバターをふんだんに使っているそうだ」


 ロナルドに進められ、ベルの作ったパンを手に取る。

 パンともお菓子とも思える不思議な形に、食欲がそそられる香り。


 シャトリューズ侯爵家のために考えて作ってくれたパンなのだろう。

 チーズケーキもそうだが、このパンもリックだけでなく、父や母、そしてシャトリューズ侯爵家の発展の為にベルが考え作ってくれたと思うと、昼間の自分の行動が尚更情けなくなる。


 これ程思われているのに何という浅はかさか、下手に怒られるよりもずっと胸に響いた。


「クイニーアマンという名のパンらしい。シャトリューズ侯爵領の名物パンとして売り出していいそうだ。うちの妹は本当に心が広い。シャトリューズ殿、君もそう思わないかい?」

「は、はい……そう思います……」


 チーズケーキをシャトリューズ侯爵領の特産品として売り出すようになってから、チーズケーキそのものの売上は勿論、チーズやバター、牛乳までも売り上げが上がっているのだと聞いている。


 父や母は勿論、兄たちもその恩恵には感謝し、ベルとリックの結婚を心待ちにするほどだ。

 なのに自分はそんなベルを一方的に責めてしまった。

 申し訳なくって穴を自分で掘って埋まりたくなった。


「それで……君はいったいイザベラの何に不満があったのかな?」


 カチャリとカップをソーサーに戻す音がして、ハッと意識をロナルドに向ける。

 その顔にはもう貴族らしい笑みなど浮かんでおらず、ただ冷たくリックを見つめるだけだ。


 ベルに不満など、何も無い。

 ただ自分の愚かな嫉妬のせいだ。


 そう言いたいが言葉が出ない。


 ベルを傷付けた言い訳を、ロナルドにしても意味がないと感じた。


「まあ、今回の事はあの子もうかつな所があるし、噂の事も有るからねー、君が気にするのは仕方がないとは分かっているよ、でもあの子を泣かせたのは許しがたいね……」

「……」


 やはりウィスタリア公爵家だけあって、ベルとザックの噂は掴んでいたようだ。


 彼女の不評にもなりかねないそんな噂を放置していたのにはなにか理由があるのだろう。

 余裕がないリックはそんなことにも気付きはしなかった。


「あの子の生い立ちは、マーベリック、君も聞いているのだろう?」


 急にマーベリックと呼ばれ驚きはしたが、それを顔に出さずリックは頷く。


 ベルからセルリアン王国時代の酷い話は聞いている。


 彼女はかいつまんで話しているが、それでもセルリアン王国にいるベルの幼馴染共は、自分の手で地獄に落としてやりたいと思うぐらい憎い相手だ。


 もし実際にベルに行った仕打ちを目の当りにしていたら、きっと今頃彼らの命は儚く消えていただろう。


 たとえ相手が王子だろうが関係ない。

 闇に葬り去ってやる。


 彼らの行動を調べてみれば、リックがそう思うのも当然だった。


「だからこそ、我々はあの子には自由にいて欲しいと常々思っている。やりたい事も出来るだけやらせてあげたいし、行動に制限をもうけるつもりもない。あの子は今やっと自由になったんだ。もう耐える必要はないんだ。そうでなければうちの子にした意味が無いからね」

「はい……」


 ずっと辛い生活に耐えて来たベルに、ロナルドは自由と優しさだけを与えたいとそう思っているようだ。


 リックだってベルと付き合いだした時、もう彼女を傷付けさせないとそう決意した筈だ。


 なのに今日、醜い嫉妬からベルを深く傷つけた。


(俺はなんて馬鹿なんだろう……)


 手に取ったクイニーアマンを見つめながら、後悔に苛まれる。


 ベルの優しさが詰まったクイニーアマンは、ずっしりと重く感じた。

 

 もうベルを二度と泣かせない。

 絶対に大切にする。


 新たに決意を固めたリックは、ベルの事を思いながらクイニーアマンに齧りつく。


 パリパリサクサクとした触感に、甘く芳醇なバターの香り。


 けれど今日はそこに、少しだけしょっぱい味付けがされているように感じたリックだった。






「さて、その顔を見ればもう大丈夫そうだね。これ以上恋人同士の関係に首を突っ込むつもりはない。私はそろそろ失礼するよ。残念ながら明日も仕事だ、君も私も少しは休まないとね……」


 そう言ってロナルドは立ち上がる。

 リックを見つめるその瞳には優しさが戻っていた。

 

「ロナルド様、ありがとうございました!」


 リックが頭を下げると、ロナルドが優しくハハハと笑いリックの肩を叩く。

 その笑顔はどことなく陛下に似ていて、血のつながりを強く感じた。


「アイザック・オランジュのことは気になるだろうが、こちらも彼については考えがあるからね、まあ、任せてほしい。今はそれだけかな」

「はい、ありがとうございます」


 屋敷の入口までロナルドを見送る。

 ロナルドも忙しいのか、早く仕事を終わらせゆっくり休みたいよとぼやく姿を見て、手間をかけさせた申し訳なさを強く感じる。


 大きな体を委縮させているとハハハとまた笑うロナルドに何故か頭を撫でられた。


「君は本当に大型犬の様だな」

「えっ……大型犬?」


 だれが言ったか分からないが、リックはどうやら大型犬に例えられているらしい。

 きょとんとするリックの顔を見てロナルドがまた笑う。


 少しは疲れを取る役には立てたらしい。

 その事がちょっとだけ嬉しかった。


「では、お互いの家族の為にも早く誘拐事件を解決しようじゃないか」


 大きく頷くリックに、満足した様子で微笑むロナルドを乗せた馬車は、シャトリューズ侯爵家を後にしたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ