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冒険者とあんぱん

「ベルさん、ベルさーん、聞いて下さい、大変なんですよー!」


 ビリジアン王国王都の片隅にある【麦の家】で、新しく店長になったミアの声が店内に響く。

 悲鳴に似たその声に今店に来たばかりのベルは目を丸くする。


「ど、どうしたのミア、落ち着いて頂戴、一体何があったの?」


 驚きながらもミアに優しく声を掛けたのは、【麦の家】の元女主人である、ベルことイザベラ・ウィスタリアだ。


 元悪役令嬢だったベルがウィスタリア公爵家の養女となって早数ヶ月、以前よりも忙しい毎日を過ごしている。


 そして過去を乗り越え無事恋人になれたリックこと、ビリジアン王国第三騎士団長のマーベリック・シャトリューズとの婚約式を終えたベルは、その美しさに磨きがかかり、平民服を着ていても誤魔化しが効かないほどの幸せ美人となっていた。


 ベルの表情の一つ一つから愛されている幸せが滲み出ており、最近では街に降り立った女神などと噂されているが、そんな事を勿論ベルは知らない。


 婚約してからは店に立つことは余り無く、厨房から出て来ないベルを一目見たいと、店の客数が伸びていたりもするのだが、その事にはベル本人はまったく気が付いていない。婚約者であるリックが知ったら大変な事になりそうだ。


 そんなベルは今現在、ウィスタリア公爵家から麦の家へ通っている。


 結婚式へ向けての準備や、貴族家へ向けての新店の宣伝などもあるが、週に二、三回だけでも厨房に立ち、パンを作る事はベルにとって何よりも楽しい時間だった。


 ミアやルカ、それにまだ幼いレオとともに、新しいパンを考えたりする時間がとても楽しい。


 今現在ウィスタリア公爵家主体で第二店舗を計画中で、ベル自ら空き地や中古物件を見て回っている忙しい日々。


 あんな事件が故郷で有ったため、結婚へ向けてマリッジブルーになるかと少し不安になったが、忙し過ぎてそんな気持ちを実感する暇もない。充実した日々が有難いともいえる。


 公爵家の令嬢となったベルが動けば当然数人の護衛がつくのだが、以前のような息苦しさは全く無い。

 流石義母マティルダや義兄ロナルドが認めた騎士たちだ。

 護衛対象にストレスを与えないようにベルとの距離感を上手に取ってくれている。


 そう実はベルは、以前はセルリアン王国侯爵家の娘イザベラ・カーマインだった。

 悪の令嬢と呼ばれ、王子である婚約者からの断罪をきっかけに、このビリジアン王国にやってきて、今やっと幸せを掴んだのだ。

 

 ベルが幸せをつかむまでには多くの人に支えられたが、一番は本人の努力あってのものだった。


 そんなベルの幸せの元でもある麦の家。

 悪役令嬢を卒業し、リックとも結ばれ、これからは穏やかな毎日を送れるはずだったのだが、やはりそこは元悪役令嬢力があるのかそうもいかないようだ。


 ミアの慌てた様子を見て、ベルはなにか大変な事が起きているのではないかと恐怖が過った。


「ベルさん、ベルさん!聞いて下さい!来たんですよ!この店に!あの有名な冒険者であるザック様が!」


「ザック様?」


「そうです!ザック様ですよー!ザック様が来たんですよー!」


 興奮するミアの横、苦笑いを浮かべているルカに視線を送る。

 詳しく説明して欲しいというベルのアイコンタクトを受け取ったルカが、ザックという冒険者を説明してくれた。


 そのザック様が「特級冒険者のアイザック・オランジュ」だと聞いて、ベルはああと納得する。


 アイザック・オランジュと言えば国を跨いで活躍する有名な冒険者だ。

 小さな子供でも名前を知っている程の人物。


 ただ冒険者を平民よりも下に見るベルの故郷セルリアン王国にはアイザック・オランジュは来た事は無い。でもその名ぐらいはベルだって知っている。


 勇者に一番近い男。

 若き英雄アイザック・オランジュ。


 そんな二つ名も持つほどの冒険者なのだ、ザックはこの世界の子供たちの憧れと言っても良いぐらいの存在だった。


「それで……ミア、そのザック様が店に来たからどうしたと言うの?ただお客様として店に来ただけなのよね?」


 ベルからすると買い物に来た芸能人を見かけたに近い感覚なのだが、ミアの余りの興奮具合から他にも何か有ったのだろうと考えた。


 でもきっとザック本人は大げさに騒がれたくはないだろうし、有名な冒険者が来たからと言ってベルが騒ぐこともない。


 ただ、ベルは冒険者になりたかったと言う憧れがあったので、国を跨ぎ自由に生きるザックを羨ましいと思う気持ちがない訳ではない。


 でもそれはそれ、有名人に会ったからと言ってベルの世界が変わるわけではない。


 なのでそれがどうしたの?と首を傾げてみせると、ミアだけでなく興奮していなかったルカまでもが驚いた表情を浮かべていた。


「ベルさん、特級冒険者ですよ、特級冒険者!特級冒険者のザック様が来たんですよ!」


 興奮するミアの言葉にベルは「うん、凄いわね」と答えるのが精一杯。乙女が持つミーハーな気持ちは残念ながらベルにはない。これは悪役令嬢期間が長かった弊害なのかもしれない。


「えっと、それで、ミアはそのザック様と会えた事に興奮しているだけなの?」


 ベルの言葉にミアはハッとし、首を横に振る。

 話の本題はやっぱりここからだったらしい。


 ベルは会計カウンターをルカに任せ、まだ興奮気味のミアを休憩室へと引っ張って行き、じっくり話を聞くことにした。


「実はですね、実はですね!ぐふふ、あの特許冒険者のザック様が、麦の家のパンにすっごく驚いたんですよー!」

「……」


 凄いでしょうと自慢げに胸を張り、感情を乗せた声で話すミアに苦笑いが溢れる。


 麦の家に来る客の殆どが最初はそのパンの味や柔らかさに驚いているのだが、ミアにはザックだけが別腹のようだ。


「それでですね、なんとあのザック様にこのパンを作った職人は誰だって聞かれたんですよー」

「えっ?」


 ベルの胸がドキリとなる。

 なんだか嫌な予感までしてきた。


「あんたかって聞かれたから、並んでいるパンを作ったのは私とルカだけど、このパンを作り出したのはベルさんだって、この店のオーナーだってザック様に話したらなんだかすっごく嬉しそうでした」

「そ、そうなの……」

「はい!」


 いい仕事をしたぞとニコニコと笑うミアを前に、ベルの心では警報が鳴っているようで落ち着かない。

 そう、まるでザックはベルが作るパンの味を知っていて、作った人間を探っている、そんな気がしたからだ。


「それで今日ザック様が豆を持ってくるからその豆でパンが作れるかベルさんに見て欲しいって言ってて」

「えっ?」


「麦の家のパンを作った人なら自分が食べたいパンを作れるかもしれないってザック様がそう言いだして」

「えっ?……という事はつまり?」


「はい!今日ザック様がベルさんに会いにきます!凄いですよね、ベルさんご指名ですよ!はぁー、ザック様どんな豆を持ってくるんでしょうねー、すっごく楽しみですね!」


 夢見る乙女のような表情を浮かべ胸の前で手を組むミアを見て、ベルは頭が痛くなる。


 まさかしっかり者のミアにこんなミーハーな部分があるだなんてと、苦笑いだ。


 それとともに、すぐにでも電話のような通信出来る魔道具をビスク商会に作って貰わなければと、脳内でメモを取る。体面を重んじる貴族にとって当日に聞かされる面談予定ほど怖いものはないからだ。


 そう、ベルはちょっとだけその ”ザック様” に会うのが怖かった。





「こんちわ~っス、ミアちゃんいるー?約束通り豆持ってきたよー」


 お昼休憩も終わり、夕方の忙しい時間に向け準備を始めたころ、麦の家に ”ザック様” がやってきた。色めき立つ店内。どうやらベルほどにザックを知らない人間はこのビリジアン王国にはいないようだ。


 有名な冒険者であるアイザック・オランジュは、その見た目からも注目を集める存在だ。

 身長はリックよりも少し低いが、女性が魅力的だと感じるほどには背丈もあり立派な体躯といえる。


 夜の空のような深い紺色の髪には冒険者とは思えない程の艶があり、瞳は夜に浮かぶ月のような薄い銀色だ。

 もしザックとの初対面がセルリアン王国内であれば、きっと攻略対象ではないかと身構えるところだっただろう。


 ミアと和気藹々と話すザックを前に、ベルは緊張気味な笑顔を浮かべ近づいた。

 そしてミアが「こちらがウチのオーナーのベルさんです」と紹介した瞬間、しっかりとした礼をとる。


「特級冒険者であるアイザック・オランジュ様、初めまして、麦の家のオーナー、ベルと申します。どうぞお見知りおきを」


 特級冒険者は各国の王族にも一目置かれる存在。

 なのでベルは貴族女性らしく敬意を払った礼を見せたのだが、ベルの顔を見た瞬間、ザックの表情が固まった。


「へっ?えええっ?あ、悪役令嬢のイザベラ・カーマイン?!えっ?えええっ?!な、なんで?なんで悪役令嬢のイザベラがここにいんのぉ?!」


 目を見開き大声を上げ驚くザックを見ながら、嫌な予感が的中したことを悟ったベルだった。

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