後悔とベーグル⑤
「えー、またこの硬いパンなのー? いつもの柔らかいパンはー? ベーグルでも良いんだけど―」
聖女こと聖沢ヒカリは最近鬱憤がたまっていた。
自分の恋人であるクリスタルディ・セルリアンの婚約者イザベラ・カーマインを追い出してからというもの、思い通りにいかない事がとても増えていた。
ヒカリは聖女なのだからすんなりとクリスタルディの次の婚約者になれるだろうと思っていたが、残念ながらそうは行かなかった。
王太子であるクリスタルディの婚約者には幼いころからの教育が必要だそうで、クリスタルディよりも一つ年上のヒカリはすでにそこで出遅れているそうだ。
なので王太子妃教育を受けだしたのだが、これが面倒で仕方がない。
挨拶一つにしても角度や秒数、それに相手によって色々と変わるらしく、面倒臭くて仕方がない。
いつも慰めてくれる友人たちはイザベラが居なくなってからヒカリに会いに来なくなった。
きっと仕事が忙しいのだろう、そう思っていたのだが、メイドに話を聞いたところ、皆城からいなくなってしまったらしい。
なんでも新しい仕事に就くための処置らしいのだが、別れの挨拶もせずに出て行ってしまった事に少しだけ不満があった。
(ヒカのこと大事だって言ってたくせにー。みんな噓だったのー? もう、怒だからねー)
突然のことだから仕方がなかったのかもしれないが、ヒカリとは仲が良かったのだ、一言何か有ってもいいのでは?と思ったのが正直な気持ち。
それに皆手紙もくれない。
あれだけヒカリ、ヒカリと可愛がってくれていたのに、やっぱり ”王太子クリスタルディの恋人” になってしまったヒカリには遠慮があるようだ。
(ヒカに失恋しちゃったってことー?なら仕方ないのかな~?)
そのクリスタルディも、仕事が忙しいようでヒカリに会いに来る時間が少なくなった。
イザベラが居なくなった最初の頃は、毎日のようにヒカリの下を訪ねてくれて「可愛い」「好きだ」「愛している」と甘い言葉を吐いてくれたのに、今や一週間に一度、数時間でも顔を合わせれば良い方だ。
会った時だってクリスタルディは「疲れた」「少し黙っていてくれ」「妃教育にもっと力を入れてくれ」と苦言ばかり。
それに最近のクリスタルディは目の下に隈まで作っていて何だか覇気がない。
王子様が急に年を取った、そんな感じで残念過ぎる。
そして一番の困りごとが食事だった。
これまでニホンと同じような食生活を送れていたのだが、最近は毎日毎日硬いパンばかり。
お肉も臭みのある食べた事の無い肉が出るし、野菜だって青臭く、生で食べる気にもまったくならない。
ヒカリ自身が料理をすればいいのだろうが、セルリアン王国に来る前は母に全てを任せていたヒカリが知らない食材を使って料理など出来るはずもない。
「イザベラさんがいたころは違ったのよねー。やっぱりカーマイン侯爵家って凄いのかなぁ?」
イザベラの実家カーマイン侯爵家が力のある家だとはヒカリも知っていた。
だから可愛くもないイザベラが自分の婚約者に選ばれたのだとクリスタルディが言っていたからだ。
でもイザベラを追い出してから仲良しのローマンは城に来なくなったし、カーマイン侯爵家の話も全然聞かなくなった。
(きっと怒って意地悪してるんだねー。ごはんまで不味くするだなんて、イザベラさんのお父さんだけあってホンと意地悪なんだからー、嫌な人)
聖女という立場から今の国の現状を知らされていないヒカリは、本気でそんな呑気な事を考えていた。
そしてヒカリ自身、自分は違う国の人間なのだから関係ないと、自ら深く知ろうとはしなかったのだ。
「ヒカリ!」
「クリス様ぁ」
ヒカリが物思いにふけっていると、クリスタルディが部屋へ飛び込んできた。
最近はいつも機嫌悪そうにしていたけれど、今日は顔を上気させ以前のような爽やかな笑顔を浮かべている。
「私達の婚約が許可されたぞ!」
「えっ! 本当に?!」
突然の報告に驚くヒカリをクリスタルディがぎゅっと抱きしめる。
私と婚約できることがそんなに嬉しいのかとヒカリの気持ちは急上昇だ。
ゆっくり話をしようとクリスタルディが言うので、二人手を繋ぎヒカリの部屋のソファへと腰かけた。
先程のメイドが気を利かせたのかベーグルをお茶請けに用意してくれたが、以前のものとは見た目から違い余り美味しそうには見えなかった。でも今はそんな事どうでもいいと感じた。
「長く待たせて済まなかったな、ヒカリ」
「ううん、クリス様が頑張ってくれている事分かっていたから、私は大丈夫だよ」
久しぶりの優しいクリスタルディを前にヒカリも優しい言葉を返す。
恋人同士はやっぱりこうでなくっちゃと機嫌も急上昇だ。
「だが、一つだけ問題があるんだ……」
「問題? それはなぁに?」
可愛く首を傾げるヒカリをクリスタルディは申し訳なさそうに見つめる。
青色の瞳がキラキラとして私の王子様はやっぱり素敵ねと、こんな時なのにそんな事を思ってしまった。
「イザベラも……妻に迎えなければならないんだ」
「えっ? イザベラさんも?」
クリスタルディの話を聞いてみれば、イザベラの罪はカーマイン侯爵家の力で無理矢理無かったことにされたそうで、イザベラを妃にと望む声がまだ多いらしい。
あまりこの国のことに詳しくないヒカリを妻にするならば、内情に詳しいイザベラとも結婚するようにと国の役員たちに言われたらしい。
だが実際は、窮地に立たされたクリスタルディがイザベラを必要とし、もう一度婚約者にと望んでいるのだが、勿論そんな事はヒカリに話しはしない。
イザベラが居なければ、クリスタルディ自身が困るだけなのだが、そんな事はヒカリに話す必要はないとクリスタルディは勝手に判断した。
「でも……その、そんなことって出来るの? 二人も奥さんがいるだなんて……」
異世界から来たヒカリからすると、クリスタルディの言うことは浮気のように感じて違和感がある。
自分のことだけを愛していると言ったのに、イザベラの事は好きではないと言っていたのに、そんな相手と結婚する上に、結婚する相手が二人もいるだなんてなんだか憤りを感じる。
「ああ、何とかなる、一人を正妃に、そしてもう一人を側妃とすれば、この国の法律でも、他国から見ても別に可笑しい事ではないんだ」
「側妃?」
「ああ、ヒカリは聖女でこの国の象徴だ。ヒカリには私の妻、正妃となって貰う。そして執務仕事に慣れているイザベラを側妃にする。イザベラは私を愛しているが故にあんな愚かな行為をしたんだ、妻にしてやると言えばきっとどんな形でも喜ぶだろう」
クリスタルディの話を聞いて何だか違和感があったけれど、ヒカリは執務仕事をイザベラがするということに飛びついた。
「じゃあ、イザベラさんが難しいお仕事を全部してくれるってこと? だったら正妃になったヒカは何をすればいいの?」
「アハハ、ヒカリは聖女なんだよ。私の隣にいて笑ってくれているだけでいいんだ。それだけで国民皆も喜んでくれるさ」
「ええ?そうなの?!」
なんといい話だろう!
ヒカリはその提案に乗ることにした。
嫌な仕事は全部イザベラさんがやってくれて、自分はニコニコしているだけで後は自由にして居て良いという。
これならきっと前のような生活に戻れる。
友人たちも戻ってくるだろうし、クリスタルディだって優しい姿に戻るだろう。
それに食事も、前と同じ美味しいものが食べられる。
味気ないベーグルも、前と同じ美味しいものに変わる筈。
イザベラが見つかったと報告を受けて浮かれているクリスタルディの言葉の危うさに蓋をし、ヒカリはクリスタルディからの提案を受け入れることにした。
きっと自分たちの未来には幸せが待っている。
そう期待しながら。
その日の夜、クリスタルディとヒカリは二人きりで祝杯を上げた。
イザベラが見つかった。
その報告がここまで追い詰められていたクリスタルディの心を大きくさせていた。
甘くねっとりと舌にまとわりつくような高級ワインに、少し味気ないベーグルと魔獣のお肉で作ったらしいハムとサラダ、それと微妙に臭みのあるチーズだったが、それでも愛おしい人と結ばれる。
ヒカリはその事が嬉し過ぎて、他はどうでも良いと思った。
「ああ、やっとヒカリを私だけのものに出来るのだな……」
今日のクリスタルディはお酒の力もあってか、とても色っぽい。
透き通るような青い瞳に見つめられると、頬だけじゃなく、体まで火照ってくる様なそんな気分になった。
「ねえ、クリス様ぁ……私を、クリス様だけのものにしてくれるぅ?」
クリスタルディの腕の中、思わずそんな言葉を呟いてしまう。
イザベラがクリスタルディの婚約者として戻ってくる。その事が少しだけヒカリに焦りを感じさせていた。
だからか、今日は凄くクリスタルディに傍にいて欲しいとそう思ってしまう。
もっと強く抱きしめて自分だけを見つめて欲しい。
普段とは違う濃厚な口づけも、もっともっと体中に浴びたいと、そう思ってしまった。
「ヒカリ、良いのか?」
「うん、クリス様にならヒカ……全部を上げたいと思うの……」
見つめ合う二人。
もう他は何も目に入らない。
相手のすべてが欲しい。
それはクリスタルディも同じ気持ちだった。
「ヒカリ……愛しているよ」
「クリス様ぁ……私もです」
その夜、二人は本当の意味で結ばれることになった。
ヒカリが目を覚ますと、横にはクリスタルディが眠っていた。
規則正しい寝息を立てぐっすりと寝ているその横顔に、ついうっとりと見つめてしまう。
(こーんなカッコいい人がヒカの旦那様になるんだ~、うふふ~)
金色の髪に青い瞳。
その上身分は本物の王子様。
ヒカリは元居た世界ではごく普通の平凡な学生だった。
それなのにこの世界に来て、聖女様と皆に崇められ。
その上こーんなにも素敵な人を手に入れた。
なんて幸せなんだろう!
「うふふ、クリスぅ、だーいすきだよー」
寝ているクリスタルディの胸に飛び込み、素肌のままの胸元に頬擦りをする。
「うーん……ヒカリ、もう起きたのか……」
寝ボケ眼でヒカリの頭を撫でるクリスタルディにとびっきりの笑顔を向ける。
「クリス、おはよう。昨日はとっても素敵だったわぁ」
そう伝えた瞬間、ヒカリはクリスタルディに蹴飛ばされた。
「誰だお前は! 何故ヒカリの部屋にいる! ヒカリをどこへやった!!」
突然の暴力にゲホゲホと咳が出る。
蹴飛ばされた腹が痛くて涙が滲む。
「誰か! 誰か! 侵入者だ!」
クリスタルディの言っている意味が分からず、手を上げ答えようとするが、その手さえクリスタルディにはたかれた。
「私に触ろうとするな! この不埒ものめ!」
私がヒカリだよ。
そう言いたいのに痛みとショックから言葉が出ない。
「殿下! いかがいたしましたか!」
数人の騎士が部屋へ飛び込んでくる。
ベット下に落とされたヒカリは裸のままだったので、慌てて体を隠した。
「こいつが、この女が、勝手に部屋に入ってきたのだ!」
騎士達がチラリとヒカリへ視線を送る。
ほぼ裸という事で、騎士たちもジロジロとは見てこなかった。
「殿下、この方は聖女様です。不審者ではございません」
そう答えた騎士の横「はっ……?」と間抜けな声を出すクリスタルディを見て、物凄い恐怖を感じたヒカリだった。
「ふむ……ヒカリ様の聖なる魔力が無くなっておりますね、昨夜何か有りましたかな?」
クリスタルディの気が狂ったかと、騎士達が慌てて癒し人を呼んでみたところ、そんな事を言われ呆然とするクリスタルディとヒカリ。
「昨日は……その……」
「ヒカリとは……夜を共にした……」
癒し人を前に俯きそう答える。
婚約を前に肌を許す行為は貴族的にも一般的にもこの世界では恥ずかしいこと。
流石のクリスタルディも言葉にすると自分の愚かさが分かって頬が赤くなる。
「ふむ、つまりヒカリ様は昨夜聖女ではなくなった、ということですね」
「は?」
「えっ?」
呆然とする二人を前に癒し人はため息を吐く。
「いいですか、聖女とは聖なる乙女を示すもの。男性と通じた女性を乙女とはもう呼べません。つまり聖女ではなくなったヒカリ様を見て、クリスタルディ様は驚いた。これまでずっとお近くで聖女様の魔力を浴びていらっしゃったのです。急にそれが感じられなくなったら別人と思うのも当然でしょう。こればかりは仕方が無い、もう二度と聖なる力は戻らないのですから……」
ヒカリもクリスタルディも開いた口が塞がらない。
聖女でなくなった。
その言葉が理解できず、処理が上手く出来ない。
「元々ヒカリ様は魔力の扱いが余り上手では無かったようですね。ですので近くにいた方たちには大きな影響力があった。しっかりと魔法を学んでいればこんな事にはならなかったのですがね……誠に残念でなりません。まあ、もう済んだ事ですがね」
またため息を吐き、困ったような顔を受かべる癒し人。
クリスタルディはその言葉をどうしても受け入れられなかった。
「まて、ではヒカリはこのままだと? 聖女ではない上に、貧相な体の、こんな平坦な顔の女が私の婚約者になるのだと?そう言うのか?」
クリスタルディの余りの言葉にヒカリは驚く。
昨日まではあんなにも可愛い可愛いと褒めてくれたのに、聖女の力がなくなった途端、切り離すような酷い言葉を言う。
「だったら、だったら、ニホンに返してよ! ヒカをお家に返して! こんなとこにいたくない!」
クリスタルディの言葉に傷ついたヒカリはこんな人とは一緒にいられないと、癒し人に掴みかかる。
だが癒し人は首を横に振る。
「ヒカリ様、それはどう願っても無理な事です」
「えっ?なんで?」
「聖女でなくなったヒカリ様を元居た場所に送ることは出来ません。魔力が無いのですから」
「えっ……?魔力……」
癒し人の無慈悲な言葉にヒカリはガックリと膝をつく。
もう戻れない。
ニホンに帰れない。
その現実に絶望した。
「殿下も聖女様のお力を奪ったのですからきちんと責任を取らなければなりませんよ」
癒し人はクリスタルディの肩をポンと叩き、失礼しますと行って部屋を出て行った。
「そんな、そんな、こんな女と一生を共にするのか……」
ヒカリの横にクリスタルディも膝をつく。
クリスタルディは俯くだけでヒカリの顔を見ようともしない。
「こんなの酷いよ……ヒカは幸せになりたかっただけなのに……」
ぐすんぐすんと泣き出すが、誰も慰めてくれる者はいない。
クリスタルディはもう自分のことで精一杯だ。
聖女であったヒカリとの婚約はもう消し去ることは出来ないだろう。
聖女の力まで奪ってしまったのだその責任はとても重い。
力あるカーマイン侯爵家のイザベラを蹴って聖女のヒカリを選んだのだ。今度こそ無かったことになど出来ないだろう。好きでもなくなった相手をずっとそばに置く。
何の為にイザベラとの婚約破棄問題を起こしたのか分からない。
その上クリスタルディは聖女の力を奪ってしまった。
まだ何の成果もあげていない聖女の力を、身勝手な行動で奪ってしまったのだ。
国にとって取り返しがつかない行為。
世界中から笑われることは想像がつく。
「イザベラ……」
「イザベラさん……」
意図せず二人同時にイザベラの名を呟く。
『どうぞ聖女としてのご自覚を持ってください。このままでは大変なことになりますよ』
夜会でのイザベラの言葉が思い出され、苦し紛れの言葉だとあざ笑っていた自分達が嫌になる。
昨日に戻れたならば……
あの夜会の日に戻れたならば……
そんな二人の願いは永遠に叶うことは無いのだった。
それから、ヒカリは王城の奥でひっそりと暮らした。
夫となったクリスタルディには相手にされず、性女にもなれない元聖女と、使用人たちから陰口を言われ笑われた。
毎日のように泣いて過ごし、国に帰りたいと無理な願いを乞うていた。
そしてセルリアン王国が無くなる前に、その命を落とした。
心の病による病死と言われているが本当のところは分からない。
ただ最後まで幸せになれなかったことは確かだった。
そしてクリスタルディは、優秀な婚約者を追い出し、その上聖女の力まで奪った事で間抜けな王子と呼ばれ、即位してからも間抜けな王だと馬鹿にされ続けた。
国が荒れ、国内が荒れても、何の策も出さず、無能者はどこまで行っても無能だったと、そう言われ続け味方にも呆れられた。
国内で暴動が起きた際、国を捨て真っ先に逃亡したクリスタルディは、最期は農民の手によって襲われ命を亡くしたと言われている。
どこまでいっても自己中心的な性格は治らなかった様で、彼を慕う国民はいなかったと、そう歴史に記録されてしまった。
無能王。
それがクリスタルディの異名となった。
「あの時に戻れたならば……」
そう溢したクリスタルディの言葉は多くの者に笑われたそうだ。
これでこの物語は終了です。あと二話、その後の麦の家のお話を投稿します。m(__)m