最初の一歩とクロワッサン③
婚約式が無事に終わり、リックとベルは正式な婚約者同士となった。
今夜、シャトリューズ侯爵家の家族はウィスタリア公爵家へと泊まることになっており、世間へと両家の繋がりと仲の良さをアピールする。
皆で和やかに晩餐を行い。
たまにウィスタリア公爵家の家族の毒を吐くような冗談にシャトリューズ侯爵の面々が苦笑いを浮かべ、またシャトリューズ侯爵の直球勝負的な行動話を聞き、ウィスタリア公爵家の家族がまるで物語の主人公が目の前にいる様だと喜んでいた。
両家の顔合わせも兼ねた晩餐は楽しい時間で過ぎて行き、ベルとリックに沢山のおめでとうを渡し幕を閉じた。
そしてベルとリックは今、二人だけの時間を過ごす為ベルの自室に来ていた。
婚約者同士とはいえ結婚前のご令嬢となったベルは、リックと以前と同じように気軽な関係で過ごすことは叶わなくなった。平民のお付き合いとは違うのでそこはしょうがないと受け入れられる。
勿論婚約者としての交流はあるが、今までのように気軽に街中デートとは行かなくなった。
それにベルは麦の家から出る形となる為、お家デートということも難しい。
なのでせめて屋敷の中だけでもと、マティルダが二人だけの時間を作ってくれた。
勿論使用人達が傍で控えているが、室内では二人きりだ。
夕食後湯浴みを済ませたベルの部屋に、同じく湯浴みを済ませたリックがワインを持ってやってきた。
お互い少しだけ頬が赤いのは、お風呂の温かさのせいだと思いたいところだ。
「扉は開けさせて頂きます」
リックが何かするとは思えないが、そこは最低限のベルの身の補償と安全と建前をと、メイドが部屋の扉を開けて出て行ったので部屋には本当に二人きり。
湯浴みの香りも相まって、何となく気恥ずかしさを覚えた二人だった。
「あー……ベル、星でも見ようか」
リックにそう提案され、手を繋ぎテラスへと出る。
秋の空とあって、空が澄んでいてとても美しい星空だ。
「ベル、寒くないかい?」
テラスに設置してあるベンチに腰かけながら、リックが心配気に聞いてくれる。
リックはこんな時も常にベルの事を心配し気遣ってくれる。それが嬉しい。
こんなにも優しい人の傍に居れる自分に喜びを感じながら、ショールを羽織っているので大丈夫ですとベルが答えれば、リックはそうかと優しく微笑んだ。
「……俺は、ずっと怖かったんだ」
暫く無言のまま星を見ていれば、突然リックがそんな事を呟いた。
何が怖かったのだろう。
ベルが平民のフリをしていたことが?
それとも王太子の元婚約者だったことがリックを追い詰めたのだろうか?
そんな不安に駆られていると、リックがちょっとだけ泣きそうな瞳をベルに向けて来た。
「俺はずっと、君にフラれるんじゃないかと……婚約破棄されるんじゃないかと、それが怖かったんだ」
「えっ……?」
悪役令嬢であるベルが婚約破棄されるならばまだしも、リックがベルに婚約破棄される?
リックの言葉の意味に理解が追いつかないベルは、驚いた顔のままただリックを見つめた。
「俺は、以前、婚約の約束を、結婚の約束をしていた女性に、婚約を破棄された過去があるんだ……」
「えっ……?」
リックの話では、実際に婚約を破棄をした側はシャトリューズ侯爵家の方になるらしい。
だが、本当のところは女性側から婚約の解消を願いだされ、相手の女性から男性として魅力がないと手酷くフラれた為、リック的には自分が婚約を破棄された、フラれた感覚でいた様だ。
「俺はずっと怖かった。男として意識されないと言われたことがずっとどこかに引っかかっていて、自分に自信が持てなかったんだ……」
その気持ちはベルにも良く分かるので、思わず頷いてしまう。
悪役令嬢と分かっていても、嫌われ魅力がないと言われることはやっぱり苦しかった。それが仕方がない事だとしてもだ。
リックは丁度フラれた時期が思春期だったことも相まって、男性らしさがないと言われたことは胸に刺さり心の大きな傷となった。
リックはその後、せめて見た目だけでもと周りが心配するほど体を鍛えた。
そしてどんなことが合っても動揺しないようにと、貴族らしい笑顔を身につけた。
女性との関係は最低限にし、婚約の打診があっても断り続けていた。
誰かを愛する自信が無かったからだ。
「でも君に会って俺は少しずつ変われた。ベルは最初俺を異性として意識していなかっただろう? それがちょっと悔しかったけれど、嬉しくもあったんだ」
確かにベルは最初、リックのあまりの美丈夫ぶりに新たな攻略対象者ではないかと疑っていた。
隠れキャラという存在が乙女ゲームにはいる。そんな情報が記憶の中に残っていたため、リックから一歩身を引いていた記憶はある。
なので最初は良く来てくれるお客様として対応し、そして次に街を守る騎士団長として感謝した。
そしてあの事件の後、ベルは自分を守ってくれたリックを友人として見る事が出来た。
悪役令嬢を守ってくれる人が攻略対象者のはずがない。
そう思えたからこそベルも、一歩前に進めたような気がするのだ。
「君の店は……麦の家は、いつ行ってもとても暖かくて、毎日通うのがとても楽しみだったんだ」
勿論パンが美味しい事も理由だけどね。とおどけるリックに、もう泣きそうな様子が無くてベルはホッとする。
「ベルの笑顔が可愛くってつい見てしまって、気付いたら好きになっていて……そんな事今までなかったから最初は戸惑ったけれど、ああ俺は彼女を好きなんだ、大切なんだなって思うと凄く心が温かくなって、ベルの存在は俺の中でどんどん特別になっていったんだ……」
ニコッと笑顔を見せるリック。
嬉しそうにベルを好きだと言ってくれる姿にきゅうっと胸が締め付けられる。
これがトキメキというものなのだろうか。初めての感覚が気恥ずかしい。
無事に婚約式を迎えられたことで、これから先ベルを失うことは無いとリックは心から安堵し、嬉しかった。いや、婚約を正式に結んだことで、何が合ってもベルを離さない、そう決意出来たのかもしれない。
そう話すと、リックはベルの前で跪く。
そして優しく手を取ると、以前見せたように、まるで何かを願うかのような様子でベルの手の甲に額を乗せた。
「イザベラ・ウィスタリア公爵令嬢、私ことマーベリック・シャトリューズは貴女を心から愛し、一生傍にいて守りたいと思っております」
「……はい……」
ベルの返事を聞くと、リックが顔を上げる。
夜空に浮かぶ星のせいか、リックの緑色の瞳は酷く輝いて見えた。
「ベル、私は貴女のことが好きです。大好きです。臆病者な私ですが、どうか貴女の結婚相手に私を選んで頂けないでしょうか。私は貴女の傍でずっと貴女の笑顔を見て居たい、貴女の作るパンを一生食べて居たい、貴女に愛される許可を私に……いえ、この俺に下さい」
喉の奥から込み上げて来るものがある。
嫌われるはずの悪役令嬢が今、愛を囁かれている。
幸せになってもいいんだ……
リックの手をとってもいいんだ……
これまでの苦労はこの愛を受け取るために有ったのかもしれない。
そう思えば過去の出来事など、もうどうでもいい記憶だとさえ思えたベルだった。
「……はい、はい、リック様、勿論です。私も貴方の傍にいたい。私は貴方の事を誰よりも愛していますから」
「ベル! 有難う」
リックがギュッとベルを抱きしめた。
これまでの挨拶のハグとは違う、強い力で抱きしめる。
ベルもリックを抱きしめ返す。
リックの傷ついた心を癒したくて、温めたくて、ベルの力の限りきつくきつく抱きしめた。
「……はあー、どうしよう幸せ過ぎて怖いぐらいだ」
耳元でそんな言葉を囁かれ、ドキリとする。
きっと緊張していたリックは、ベルに告白を受けて貰えたことでやっと緊張がほぐれたのだろう。
ご飯を食べて満足そうな大型犬を思い出し、思わず笑ってしまう。
クスクスと笑うベルに、笑ったなっとちょっと拗ねた顔を見せるリックはとても可愛い。
可愛いは正義だとそんな不思議な記憶があったが、今のリックを見ていればそれが分かるような気がした。
「ベル……君に、もっと触れてもいいだろうか?」
少し怯えた声でそう呟かれ、頬に熱が集まるのを感じながらもベルは頷く。
承諾を受けたリックはそっとベルの頬に触れる。
大切な宝物を扱うように、壊さないようにと気を付けている姿がとても愛おしい。
そっと触れるようなキスをされ、恥ずかしくってフフフ……と小さく笑ってしまう。
不器用ながらも出来るだけ優しく接しようとするリックが、とても愛おしかった。
それから何度も何度もキスを落とされた。
唇だけでなく、額や、頬、首元にまで。
今まで我慢していたからと訳の分からない理由で何度もキスを落される。
クロワッサンに練り込んだバターのようにとろけるようなキスを重ねる度、リックのことが愛おしいと、愛しているとそう感じた。
「ああ、ダメだ、歯止めきかなくなりそうだ……」
顔を赤くして残念そうにリックがそう呟く。
眉毛がへにょりと下がっていてまた大型犬を思い出し、笑ってしまう。
自分たちはまだ婚約者でしかない。
目の前にいるベルがどれ程可愛くて魅力的であろうとも、これ以上先に進むわけにはいかない。
リックはどうにか理性を保ち、自分にそう言い聞かせた。
(ああ、早く結婚式を迎えたい……)
その時はベルを世界一幸せにするんだ。
リックの想いは強固なものだった。
「あの、リック様……実は私もまだお話したい事が有って……」
「えっ……?」
今までベルを苦しめて来た悪役令嬢としての記憶。
前世のそんな記憶はベルの力にもなってくれたが、苦しくもあった。
何も知らなければ、元婚約者や幼馴染たちと過ごすことももっと気が楽だったかもしれない。
けれど知っていたからこそ、今こうして幸せでいられる。
リックならばきっとベルのこの記憶を受け止めてくれる。
リックならばきっとこの苦しみを分かってくれる。
そう思ったベルは今こそ言うべきだとそう感じた。
「実は私は……」
とそこまで言いかけた時、ノックの音が二人に届いた。
「マーベリック様、そろそろお時間でございます」
執事の良く通る声が二人の居るテラスまで届く。凄い肺活量だ。
「ああ、いや、ちょっと待って、今大事な話があってーー」
「なりませんよ、マーベリック様。お二人はまだ夫婦ではないのです。淑女のお部屋に遅くまでいてはなりません。さあ、ご自分のお部屋へ戻りましょう。この私がご案内いたしますので」
「いや、ちょっと、待ってって、ああ、ベル! ベル~!」
細身の執事のどこにそんな力があるのかと驚いた。背の高いリックの首根っこを掴み部屋から引き摺って行く。大柄なリックを子供のように扱うその姿に、微笑ましくって面白くってクスリと笑ってしまう。
「イザベラお嬢様、お休みなさいませ」
「あああ、ベル、お休み! 話しはまた明日聞くから!」
慌ただしく去っていくリックを見送りながら、ベルは小さく手を振りおやすみなさいと答えた。
そう、自分には明日がある。
リックと過ごす新しい未来が待っている。
絶対に幸せになろう。
リックと二人で幸せを掴もう。
これから訪れるであろう輝かしい未来に期待を込め、ベルは「明日も頑張りましょう」と一人呟くと、星が輝く夜空を見上げ、希望に胸を膨らませたのだった。




