ジャムサンドとその中身
「アリア! こんな時間までどこに行って居たんだ! 護衛も付けず! 迷惑をかけおって!」
エクル男爵は怒りから娘の頬を叩いてしまう。
夕方になり、娘の姿が見えないことを疑問に感じ、使用人たちに尋ねてみれば誰もアリアの居場所を知らず驚いた。アリア専用のメイドたちまでもだ。
ただ一番仲の良いメイドのエナもいないことから、もしや家出か? と疑ったが、部屋を見て見れば荷物は何も無くなっておらず、家出ではないと分かってホッとした。
そんな中、アリアの婚約候補にと集められた従僕たちに訪ねてみれば、アリアの居場所を全く知らないと皆が言う。一体お前達は何のための存在なのだと怒りが湧いた。
そして大騒ぎとなった屋敷の中、何事も無かったような顔でアリアが帰って来た。
平民服を着ている姿から、勝手に街へと出かけていたことが分かり頭に血が上った。
怒りから思わず頬を打ったが、その手の痛みからすぐに後悔した。
「お父さん……いいえ、お父様、勝手に出かけたことはお詫びします。申し訳ありませんでした。お父様は私をぶって満足なさいましたか?」
自分をジッと見つめるアリアの顔には泣いた痕が合った。
そして自分を見つめるアリアの冷えた目が、亡くなった妻とそっくりで驚く。
喧嘩した時の自分を見つめる冷たいその瞳。
アリアのその立ち姿までも妻に似ていて言葉にならない。
「あたし……私、お父様にお話があります」
赤い頬を物ともせず、アリアは自分にそう声を掛けて来た。
昨日まで、いや、今朝顔を合わせた時までは、アリアは自分が守らなければならないか弱い娘だった。
それが今やどうだ。
たった数時間目を離しただけで一体何があったのか。
促されるまま自分の執務室へ向かう。
アリアはエナ以外を部屋に入れることは許さず、人払いをした。
「お父様に見て頂きたいものがあります」
アリアはそう言うと、突然着ていたワンピースを脱ぎだした。
父親相手だとしても肌を見せるなど、貴族の令嬢がなんとはしたない事をと止めに入る。
だがアリアは言うことをきかないどころか全部脱いでしまった。
「これを見て下さい、お父様」
目を逸らした私にアリアは現実を見せつける。
アリアの体の足や腕、いたるところに傷がある。
驚きのあまり言葉が出ないでいると、驚愕の言葉をアリアが吐いた。
「全て元家庭教師のベラドナ様に付けられた傷です。いえ、お父様の恋人のベラドナ様とお呼びした方が宜しいかしら?」
「ベラドナ……?」
「ええ、ベラドナ様ですわ」
娘の言葉が信じられなかった。
ベラドナは王都に慣れない自分に様々な事を親身になって教えてくれた心優しき女性。
妻が亡くなって心に隙間風が吹くような虚しさを抱えていた自分を、癒してくれた上品で美しい女性でもある。
だが、娘の体には証拠がある。
後ろに控えるエナに視線を送れば、本当だと涙目で頷いている。
何故自分に情報が入らなかった。
何故アリアがこうなるまで誰も自分に話さなかった。
その答えは簡単だ。
屋敷の使用人の多くは友人やベラドナの紹介。
そもそも王都で知り合った友人の多くがベラドナの知り合いなのだ。
アリアがエクル男爵家の跡取りであることは周知の事実。
アリアを簡単に手なづけるならば、抗えない暴力で抑え込むことが一番簡単だろう。
その考えに行きつくと、アリアの婚約者候補にと集めた男たち全てが汚く見えだした。
全て友人の紹介で我が家に招いた男たち。
家格によって従者や下男に雇い入れてみたが、今日アリアが出かけたことを気付かなかったというだけで、その仕事ぶりは分かるというものだ。
自分が一番大切にしなけらばならない娘。
自分が何よりも守らなければならなかった娘。
そして妻から託された大切な娘。
自分の宝であるはずの娘に、愚かな自分の行為のせいで消せない傷を付けてしまった。
その事が何よりも情けなかった。
「お父様、今日麦の家の店長さんに会ってきました」
「はっ?」
アリアの話が突然飛んで、思わず間抜けな声が出る。
麦の家の店長と言えば、陛下からお叱りの言葉を受ける原因となった店の女将だ。
あの下男が事件を起こしてからアリアは店主に謝るべきだと言っていたが、ただの庶民だと、金は払ったと取り合わなかった。
どうやらアリアは勝手に会いに行ったようで、それに対し少し不快感を覚えるが、情けない自分に何か言うことは出来ない。
それにアリアの姿を見ていると、妻ならばどうしたか……とそう思ってしまう。
「我が家の至らなさをベルお姉様に許して頂きました」
それは当然だ。あれだけの金を払ったのだ。文句など出ようが無いだろう。
平民相手に下手に出る必要など無いのだ。我々は尊き貴族なのだから。
そこでハッとする。
自分はいつからこんな考えを持つようになっていたのだろうか。
領地では領民たちと穏やかに過ごしていた。
それが王都に来て、段々とその感覚が薄れていった。
それが貴族として当然だと知ったから。
友人に諭されて、自分は素晴らしい人間だと分かったから。
娘に消えぬ傷を作ったくせに……何が貴族だ。
自分が愚かすぎて恥ずかしかった。
「ベルお姉様からこの薬を頂きました」
エナがポシェットから小さな小瓶を取出し、アリアがそれを傷に塗る。
するとどうだろう、たちまち傷は消え、美しい肌に戻って行った。一瞬で。
「ア、アリア、それは……」
「今治すのはここだけにしておきます」
アリアはそう言ってやっとワンピースに袖を通す。
エクル男爵はその間、薬瓶をエナから受け取りジッと見つめた。
(ただのパン屋の女将が何故こんな薬を?)
鈍感な自分でも流石に気付く。
王都の事件。
それも一商人との事件に何故王が苦言を呈したのか。
(パン屋の女将は王家と繋がりがある?! 女将というからにはいい歳の女だろう。まさか前王の落とし子か? それとも愛人なのか?)
後者の可能性の方が高いだろうかと思案していると、エナからまた何かを受け取りアリアが自分に差し出した。
それは一通の手紙だった。
「お父様に、ベルお姉様からお手紙です。お父様を守って下さる相手が書かれているそうです。私に出来るのはここまでです。後はお父様が判断なさってください」
でも……
私の行動は間違っていなかったと思います。
アリアはそう言うと、私をジッと見つめた。
亡き妻と同じ黄褐色のその瞳で私を見つめると、そっと部屋から出て行った。
「マリア……」
思わず妻の名が口から零れる。
気が付けば自分の頬に温かいものが流れていた。
自分はどこで道を間違えたのだろうか。
妻との別れの時に、アリアを必ず幸せにすると誓ったはずなのに。
鉱山が見つかり浮かれてしまった。
王都に移る事でアリアを立派な淑女に出来る、そう思った。
だが自分がしたことはアリアに傷を作る事だった。
まだ幼いアリアに合う男をと、無理矢理見合いのような場を作ってしまった。自分と妻は恋愛結婚だったのに。
暫く泣いた後、そっと手紙を開く。
そこには平民のパン屋がとても縁を作れないであろう大物の名が書かれていた。
マティルダ・ウィスタリア前公爵夫人。
亡き王弟殿下の妻であり、セルリアン王国の元王女。
「傲慢とはなんと恐ろしいものだろうか……」
アリアが何も言わず、自分がこのまま麦の家の店長を馬鹿にしたままだったならば、きっと自分は知らずに破滅していた事だろう。
娘が自分を救ってくれた。
愛する妻の忘れ形見が私を守ってくれた。
ベルからの手紙を読みながら、アリアの勇気ある行動と、麦の家の店長ベルの懐の深さに、只々感謝するエクル男爵だった。
その後、エクル男爵は友人たちとの付き合いをやめた。
娘の為にと集めた婿候補たちも、家に帰らせることとなった。
そして自分の恋人であり、アリアの教育をお願いしていたベラドナとは別れた。
娘への虐待を訴えると言ったのだが、最初ベラドナはそれを認めなかった。
だがウィスタリア公爵家から派遣されたアリアの新しい家庭教師を目の当たりにすると、ベラドナの顔色は一瞬で青くなった。
「マティルダ・ウィスタリアと申しますわ。今日から私がアリア嬢を教育致しますのよ。貴女に私以上の教育が出来て?」
そう優雅に微笑んだ前公爵夫人に何か言えるものなどいるだろうか。勿論いるはずもない。
ベラドナはそれ以降我が家に近付くことは無くなった。
勿論友人たちもだ。
「マティルダ叔母様~」
前公爵夫人に遠慮なく駆け寄り抱き着く娘にギョッとする。
アリアの教育の為、週に一度我が家に来るマティルダをアリアは慕っている。
それは分かるのだが心臓に悪い。
口から内臓全てが飛び出しそうだ。やめて欲しい。
「アリア、今日もとても素敵よ。女の子は本当に可愛らしいわね」
今現在アリアはベルお姉様のようになりたいと、熱心に淑女教育を受けている。
ただしお転婆な所は中々改善されないが、前公爵夫人に外では出来ている、家の中ぐらい仮面を脱いでもいいのだと言われ、それもそうかと頷くしか無かった。
「アリアが落ち着いたら次は貴方よ」
前公爵夫人にそう言って微笑まれると非常に怖い。
変な虫がつかないように対策を、たったそれだけのことなのだが背筋にゾクリと嫌な汗が流れた。
きっと愚かな自分を理解しているからだろう。
「叔母様、今度一緒にベルお姉様のお店に行きましょうよ。焼きたてのパンは特別美味しいの、叔母様にも食べてもらいたいわ、ね、エナ」
「はい」
前公爵夫人はベル嬢から店への出入りを禁止されているようだ。
どう見ても目立つ前公爵夫人を庶民の店には招き入れられないそうだ。
平民に化けようが無いから、それも仕方がないだろう。
「そうね、アリアとエナと一緒にベル(イザベラ)に会いに行きましょうか。フフフ、きっと驚くわよ。あの子の驚く顔が今から楽しみね。ね、アリア、エナ」
「「はい」」
街中の人間が驚くから止めて欲しい。
そう言いかけたが、エクル男爵は賢く黙った。
あのベル嬢ならば大丈夫そうな気がする。
直接謝りに行って目にしたその姿は王妃のようであった。
大恩人の姿を思い出し、突然の訪問も乗り越えるだろうとそう期待するエクル男爵だった。