ロールパンとその中身
「あなた宜しかったのですか? マーベリックに本当の事を話さなくて……」
家族の団欒が終わり、妻と二人きりになった自室で、シャトリューズ侯爵ことアーロン・シャトリューズは、妻であるビクトリアにそんな言葉を掛けられた。
ここ数ヶ月、シャトリューズ侯爵家の三男であるマーベリックの様子が可笑しいことを妻から聞いていた。
調べてみれば、毎日のように通う店があり、そこの店主と仲がいいとの情報が入った。
「マーベリックは平民女に騙されているんじゃないか?」
長男カーソンの言葉にドキリとする。
マーベリックはまだ成人前の幼い頃、婚約相手に手酷く裏切られた。
彼女は評判のいい家の娘だった。
妻の友人の娘。それが婚約の決め手の一つとなった。
会ってみれば控えめで、おっとりとした様子がマーベリックと合うと思った。
マーベリック本人も、二つ年上の彼女の事を気に入ったのか、婚約話を受け入れると言って笑っていた。
長男は家を継ぎ、次男は養子先が決まっている。
そしてマーベリックはいずれ騎士となり己で爵位を持つ予定だったので、年上女房は丁度いいだろうと、妻も自分もこの話を進めていった。
それからマーベリックと彼女は順調に交際を育んでいた。
勿論マーベリックはまだ学生で未成年。
交際と言っても手紙を送ったり、記念日にプレゼントを贈ったりと、そんな可愛いものだった。
二人で出掛けると言っても姉と弟にしか見えない関係に、デートという雰囲気は全くなく。
家族の延長といったそんな微笑ましい様子だった。
それでもマーベリックは幸せそうだったし、あと数年もすればシャトリューズ侯爵の男子らしく男らしい体つきになり、見るからに婚約者同士に見えるだろうと深くは考えていなかった。
「マーベリック様のことは好きです。でも愛することは出来ません。私よりも小さな体ではどうしても男の人には思えないんです。それに声だって可愛らしいですし、異性として見ろという方が無理がありますわ……」
だから他に好きな人が出来ても仕方がなかったと、マーベリックの婚約者はそう言い切った。
その上、お腹には「真実の愛」で結ばれた相手の子を宿しているのだという。
怒りから女性に手を上げたくなったのは初めてだった。
勿論騎士としてそんな事はしないが、首を絞めてやりたいとそんな衝動に駆られる。
妻もその友人も真っ青な顔になり言葉を失った。
令嬢の父親で、子爵である男は床に頭をつけて謝った。
「どうぞお幸せになって下さい」
自慢の息子が全く感情のこもっていない声でそう呟いた。
誰も責めることなく笑って相手を見送るマーベリック。
自分も妻もなんて酷い相手を選んでしまったのかと己を責めたし、残りの息子達は子爵家の管理不足だと憤った。
「もう済んだ事ですから、私は気にしていません」
マーベリックはその日から全く笑わなくなった。
いや心から笑えなくなった、そう言うのが正しいだろう。
前以上に剣に力を入れ、騎士としての力を付けていく。
そして最年少で王城騎士に合格し、街を守る騎士団長として市民にも慕われていった。
けれどマーベリックの傷ついた心が塞がることはなった。
色んな家から婚約打診の話が来たが、マーベリックがそれを受けることは一度も無かった。
「あの子が今度恋をしたら、私は相手がどんな女性でも受け入れますわ」
妻がそんな事を言いだし、私も平民でもなんでもいいから、マーベリックの傍にいて癒してくれる人がいつか現れてくれればいいと、そんな希望を持った。
そんな時に「夢中になっている女性がいる」との噂話だ。
色々な事が頭をよぎった。
部下に調べさせてみれば、二人で市場へ行ったり、公園へ行ったりと愛を育んでいるらしい。
女性の人柄を調べてみれば、気立ての良いとびきりの美人だとそんな話が入って来た。
これはマーベリックにやっと幸せが来たのじゃないかと妻と浮かれた。
相手は平民女性でも構わない。
どこかへ養子に出せば、騎士団長の妻でもどうにか面目が立つだろう。
教育も妻にかかればそれなりに見られるぐらいのレベルには行くはず。
後は本人からの報告を待つだけ。
浮足立つ気持ちを抑えその日を心待ちにしていると、ウィスタリア公爵閣下から声を掛けられた。
『最近妹の店の周りを探っている様だが、侯爵殿は我が妹に何か用事があるのかな?』
一瞬意味が分からず、何のことだとウィスタリア公爵の恐ろしい瞳を見つめてしまった。
どうやらマーベリックが付き合っている女性は、ウィスタリア前公爵夫人マティルダ様の姪にあたるらしく、いずれ彼女はウィスタリア公爵家の養子にするのだと、ウィスタリア公爵は嬉しそうにそう話してくれた。
そしてその時に、マーベリックが本気で彼女のことを愛しているのならば、婚約しないかという打診まで貰い、驚きで口が塞がらなかった。
この国で一番力を持つウィスタリア公爵家。
そんな家と縁づく意味。
マーベリックで大丈夫かと、違う意味で頭が痛くなった。
「ねえ、あなた、マティルダ様の姪子様は……セルリアン王国の王族って事なのかしら?」
妻の呟きを聞いて驚く。
確かにマティルダ様はセルリアン王国出身の元王女。
その姪だと言えば王族でも不思議はない。
直ぐにその存在を調べてみる。
するとセルリアン王国の王太子がしでかした見苦しい事件が耳に入った。
婚約者を断罪し、国外へ追放した。
それも自身の浮気が原因で……
そんな話を聞き、マーベリックの婚約解消の出来事よりも酷い事件に言葉を失った。
件の令嬢は夜会の場で婚約破棄をされたらしい。
それは各国の重鎮も出席していた夜会の場。恥さらしの何物でもないだろう。
我が国ビリジアン王国からも第二王子が出席していた夜会だ。
その話が簡単に集められたのも当然のことだった。
「すぐにマーベリックから話を聞こう」
もしかしたらその件があるからこそ、彼女との関係を自分達に話せないでいるのかもしれない、そう思った。
だが、今日、マーベリックの話を聞き驚いた。
二人はお付き合いどころか、まだそれ以前の関係だった。
マーベリックには彼女への気持ちの自覚はある様で、そこだけはにはホッとする。
けれど余りにも遅いその歩み。
初等科の少年の恋でももう少し話しは進んでいるだろう。
自分の息子ながら心配になる。
マーベリックよ、お前には少し度胸というものが足りないのではないか? そう突っ込みたくなった。
「あの子にはあの子のペースがあるのでしょう……」
妻に諭され、マーベリックは傷ついた心を癒すようにゆっくりと恋を進めている。そんな気がした。
けれどマーベリックの相手が公爵家の関係者と知ってはそのままではいられない。
直ぐに部下たちを護衛に向かわせる。
マーベリックには気付かれず、そっと見守るように。
そんなアーロンの言葉に部下たちは嬉しそうに頷いて見せた。
「前公爵夫人には前向きに検討(健闘)中であることをお伝えしよう。勿論マーベリックの今の様子も一緒にな」
「ええ、そういたしましょう」
妻が嬉しそうに微笑む。
マーベリックが一歩前に進んだことが嬉しいのだろう。
あの婚約者を選んだ罪が少し軽くなった、そんな気がした夜だった。
「マーベリック頑張れよ」
余りにも恋に奥手に育ってしまった大きな息子の背にひっそりと発破を掛ける。
誰も聞いていないアーロンのその声は、期待が溢れるようなそんな声色をしていた。