話題の店とクリームパン③
「やめろっ!」
「……っ! リック様!」
リックは麦の家の騒ぎを聞きつけ飛んできてくれたのだろう。まだ息が弾み額には汗が浮かんでいる。
リックは当然のようにベルの前に立ち、騒ぐ男が振り下ろしたその手を力強く掴んだ。リックの様子から走ってくれて来たことが分かり胸に温もりがわく。
これまでのベルは、誰かの前に立ち護る事はあっても、護られる事が少なかった。
なので店を守ることも当然で、男に叩かれても仕方ないとさえ思っていた。
だから尚更リックのこの行動はとても嬉しく、そして新鮮に映った。
勿論以前侯爵令嬢であったベルを守る護衛騎士は傍にはいた。けれど今のリックは何の立場もない平民のベルを心配し守ってくれているのだ。嬉しいと感じてしまう。
勿論リックとしてみれば騎士としての仕事の一環なのかもしれないし、市民を守る、ただそれだけの気持ちなのかも知れない。
けれどまわりが敵ばかりだったあの日の出来事が今もベルの心を傷つけている状態で、リックに当たり前のように庇われたその行動は、ベルにとっては胸が温かくなり、心の傷がそっと癒されるとても嬉しい出来事だった。
「貴様、どんな理由があるかは知れないが無防備な女性に力ある男が暴力を振るおうとするなど言語道断だ! その上店の商品にも手を出したんだ、きっちり罪は償って貰うからな!」
リックの怒声が店内に響き、見守っていた客たちからは歓声と拍手が起こる。
ベルがホッとして周りを見渡せば、石や枝を持った女性客などが居て驚いた。きっとベルと男性の間に入ろうとしてくれたのだろう。貴族に立ち向かうなど平民からすれば命懸けだ。ベルを守ると言っているようなそんな様子にもベルの胸はジーンと熱くなった。
「お、俺はっ、い、いや、私はエクル男爵家の執事なのだぞっ! 私にこんな事をしたらお前の首が飛ぶぞ! その女だって、ど、どうなるか分からないからな!」
リックに後ろ手に掴まれた男が、苦し紛れに主人の名を出してしまい、ベルもそしてリックでさえも呆れた表情を浮かべてしまう。
この場でその名を出せば、自身だけでなく主にまで責任が問われることになるだろうし、多くの目があるいま、言い逃れも出来ない。
平民相手だからとこの男が高をくくっているのかもしれないが。平民相手でも店の商品を壊してしまった時点で、この男は罪に問われる。
まあ金銭で片付けられる程度の問題とも言えなくはないし、貴族に優しい法律の上での罰だともいえるが、この話はきっと王都の庶民たちにすぐに広まり、店を営む商人からはエクル男爵自身も警戒される存在となるだろう。
つまりはこの男の行動は主であるエクル男爵の恥となる事は確かだった。
(本当に浅はかな方ね……)
過去の幼馴染数名のような行動だと呆れてしまうベルの様子に考えが読めたのか、リックはチラリとベルの顔を見た後、リックを睨みつけている男に対し「そうか」と答え名乗りを上げた。
「では本日のこの事件は、ビリジアン王国第三騎士団騎士団長であるマーベリック・シャトリューズが受けもとう。貴殿の話は兵所でなく騎士団の詰め所でしっかりと聞く。必要ならばエクル男爵も呼び出そう。それならば貴殿も文句はないだろう」
「なっ! だ、第三騎士団?!」
「そうだ。貴族家執事相手の取り調べであっても騎士団長の私ならば不足は無いだろう?」
第三騎士団と聞き男はガックリと項垂れる。
兵士相手ならば貴族である主の名を出して脅し、少し金を掴ませれば、平民相手の事件などどうにでも出来ると思っていたのかもしれない。
だが相手が騎士となれば話が違う。
それも第三騎士団の団長だ。
やっと自身の浅はかな行動が分かったらしい。
顔が青くなりフルフルと震えだした男にベルは少し同情してしまう。
だが店を守るためには心を鬼にしなければならない。それに甘い顔をすると相手がつけあがることをベルは身をもって知っている。
ここはリックに任せる事が一番だろう。
宜しくお願いしますと頭を下げた。
けれど、それにしても、だ。
まさかリックがシャトリューズ家の子息とは。
シャトリューズ侯爵家といえばこの国だけでなくベルの祖国セルリアン王国でも耳に入ってくるほどの有名な侯爵家である。
文武両道。それを体現したような家、それがシャトリューズ侯爵家。
なので男性がリックの名を聞き、青くなり震えるのも仕方がない事だと思えた。
大叔母相手とまではいかないが、彼の未来が辛いものになるのは確実だった。
「あー……ベル嬢」
「はい」
駆けつけた兵士に男を預けると、リックがベルに話しかけて来た。
今日は普段の装いとは違いラフな格好をしているので、きっと休日だったのだろう。その姿もまた似合っていた。
ただだからあの男もリックの事をただの兵士か何かだと勘違いをしたのかもしれない。
けれどリックが自然と醸し出す高貴な振る舞いは、簡易服を着ていても到底平民には見えないので、やはりあの男は貴族としての目がなかったのだろう。
ただし隠しきれない高貴な雰囲気を持つ人に自分も当てはまっているのだとは、ベル本人は全く気が付いていないようだった。
「駆けつけるのが遅くなって済まない。怖かっただろう?」
「いえ、そんな、助けて頂いて有難うございました。お礼が遅くなって申し訳ありません。本当に助かりました。リック様が来てくださってとても心強かったです。」
「そうか……なら良かった」
そう言って照れたように笑うリックの顔は年齢よりも幼く見え、ベルは思わずドキリとしてしまう。イケメンには十分に耐性がある筈だが、自分の好みの男性のはにかんだ笑顔というのはまた違った衝撃があるようだ。
顔が熱くなり鼓動が速まりそうなところをグッと息を呑みベルは堪える。
男性に好意を抱くような愚かな行為は二度としない。あの事件でそう決めた。
自分の気持ちなどどうにでも誤魔化せる。
深呼吸をし無意識で胸をトントンと叩いているベルをみて、リックは心配そうにのぞき込んだ。
「もしかしてどこかに痛みがあるのかい?」
女性にしてはベルは背が高い方だが、それでもリックは背をかがめベルの顔を覗き込む。
いいえ大丈夫ですと慌てて答えたが、頬に熱が一気に集まることをベルは押さえる事が今度は出来なかった。
心配された上にイケメンの急接近だ。
男性に免疫のないベルには、その行為は自分をむしばむ猛毒に等しい物だった。
(イケメンの破壊力って危険すぎるわ)
「あ、ごめん。近すぎたね……」
「い、いえ、とんでもないです。あの、心配してきて下さったことを十分理解しておりますので……」
自分と距離が近づいた事でベルの頬が赤く染まったことに気が付き、リックがパッと身を避ける。
貴族の男性だけあって、女性への接し方をリックは心得ているようだ。これが平民の男性であったならばこれ幸いにともう一歩ベルに近付いたことだろう。
だがリックはベルからもらい赤面をし、視線を泳がし、わざとらしい咳払いをする。思わず近づいてしまった不躾な行為に自ら気がつき恥ずかしくなったようだ。
ふとお互いに視線が合うと、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「あー、実は今日は俺は休日で……」
そうだと思っていたとベルは頷く。
その気軽な服装が何よりの証拠だろう。白いシャツに落ち着いた色のパンツ。シャツの第一ボタンは開けているし、着ている素材は一流品の為その辺りにいる平民とは思えないが、まあ庶民だと言われれば見えなくもない。勿論リック自体が貴族然とした風貌なのでその頑張りは微妙な所ではある。
「その、君を夕食に誘おうかと、そう思って、いたりしたんだが……」
「えっ……」
「だがこんな事件のあとだ、それはまたの機会にさせてもらうよ。先ずはあの男を締め上げないとね……それじゃあベル、気を付けて。それと今度あんな奴が現れたら立ち向かうのではなく出来れば逃げて欲しい。殴られそうになっている君を見た時は、恐ろしかった……頼むから自分を大事にしてくれ、本当に、お願いだよ……」
そう言って懇願するかのようにベルの手を優しくつかむリックを前に、ベルは素直に「はい」と答えていた。
自分を大事にだなんて誰からも言われたことなど無かった。
他人の優しさに目の奥が熱くなる。
王妃教育がこんな時にも役に立つのだとベルは今日初めて知った。
涙など自分にはもう無いと思っていたが、嬉しい時ほど泣きたくなるのだと、ベルは温かいリックの手を握り返しそう感じていた。
その後は込み上げるものがあり、もしかしたら事情を聴くために騎士団に来てもらうことになるかもしれないとのリックの言葉に、ただ頷く事しか出来なかった。
兵士と共に去っていくリックの背中を見つめる。
ふと気が付くと、足元には赤いリボンのついたピンク色のチューリップの花が一輪落ちていた。
それはビリジアン王国で愛の告白の際に使われるもっともポピュラーな一輪の花。
花言葉は愛の芽生え。
花を手に取ったベルの心にリックへの想いがふわりと広がった。
けれどそれを恋だと気づく勇気は、今のベルにはまだないのだった。