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公爵夫人とフランスパン②

「さてと……イザベラ、今日は貴女に大事な話があるのよ」


 マティルダのその一言で傍にいた使用人達がサッと部屋から出ていく。


 豪華な応接室に残されたのはマティルダとベルのみ。


 物音もなく静かになった室内では、先程まで何も感じなかった茶器を扱う音が微かに響く。


 ピチチチと鳥のさえずりが外から聞こえ視線をふと窓の外へ移すと、カチャリとカップをソーサーに戻した音がしてマティルダとベルの視線が合い、大叔母は意味ありげに微笑んだ。


「イザベラ、あなた、ウチの子になりなさい」


「えっ……?」


「私の娘に、養女になりなさい」


 これまでベルが平民でいることに何も口出さなかったマティルダが、養女と口にしたことにベルは驚く。


 自由に生きたい。


 自分の幸せを掴みたい。


 そう思いこのビリジアン王国にやって来たベル。


 平民となったからには自分で生計をたて、夢だったパン屋を始めたい。

 そんなベルの想いを一番尊重し理解してくれたのがマティルダだった。

 

 そのマティルダが、今またベルに貴族の世界へと戻れと言っている。


 あの息苦しかった世界へと、戻れと……


 その言葉を受け入れられないベルは返事もできず、味方であるはずのマティルダをただ見つめていた。


「イザベラ、貴女が今幸せなのは理解しているわ。それに貴女が今の生活を手放したくないことも良く分かっている。もちろん店が大事な事もね」


 でも……とマティルダは言葉を止めると、一通の封書をテーブルに置いた。


 その手紙の蝋印を見てベルはハッとする。

 Kのイニシャルにサルビアの花の模様の入った蝋印。


 それは幼いころから何度も目にして来た忘れる事の出来ない蝋印。


 王城に届くベルの父と母、それから弟からの手紙。

 それには必ずこの蠟印が押されていた。


 幼い頃は楽しみにしていた手紙だったが、いつしかなんの感情も持たなくなった。


 何故なら家族からの手紙は愛娘へ送る愛のある手紙ではなく、未来の王太子妃に向けての義務のような手紙で有ったから。


 それでも楽しみにしていた時期のあるベルが、実家の蝋印を見間違うはずがなかった。


「貴女がこちらにいないかとカーマイン侯爵がたずねて来たわ」


「……父が、ですか?」


「ええ、私の甥っ子がね」


 あり得ない。


 そんな言葉が出かかったが、ベルは呑み込む。

 実際今目の前に手紙があるからだ。

 

 これまで父がベルを心配して手紙をよこすなど一度もなかった。

 季節の挨拶で届く手紙には未来の王太子妃としてちゃんとやっているか。王家へと迷惑はかけていないか。とただそれだけだった。


 なのに今更娘を心配して遠い場所にいる叔母に手紙を送る?

 心配から? ベルの身を案じて?


 いやそれは無いだろうとベルには分かった。

 あの父が娘としてベルを見るはずがない。


 ならばどんな理由で?


 ベルは一つの可能性に行き当たった。


「もしかして……私の罪は、無かったことにされたのですか……?」


 もちろんベルへの罪は無実で、実際に何かを起こしたわけではない。冤罪も良いところだ。


 長い時間娘ではなく、未来の王太子妃としてベルを扱ってきた両親が、今更ベルの心配をするはずなど無いだろう。


 ならば父が、両親が、ベルを心配する理由は一つしかない。


 カーマイン家の娘が王太子妃にならないことだ。


 だとしたら、あの日起きたあの愚かな断罪自体を、カーマイン家の力を使い無かったことにする可能性は十分にある。カーマイン家にはそれだけの力があるのだから……


 その場合、ベルはイザベラ・カーマインとして再びあの国に呼び戻される事だろう。


 それはまた以前のように、ベルが王太子の奴隷となり、カーマイン家の生贄となるに等しい行為だ。


 以前の優しかった幼馴染達はもういない。


 今は皆聖女の下僕と成り下がってしまった。

 目が曇り、常識が通用しない。

 そんなもの達の尻ぬぐいをまたやれというのだろうか。


 この国へ来て自由を手に入れ、やっと自分らしく生きれるようになり幸せを知った今。

 それを捨ててまであの国へ帰りたいとはもう思えない。


 ベルはベルらしく生きていたい、自分の人生を楽しみたい。


 けれど大叔母の養女となるということは、あのドロドロとした貴族社会へと戻るということだ。


 ビリジアン王国はセルリアン王国とは違うとは分かっていても、まだ心に傷が残るベルはすぐに「はい」とは答えられなかった。


「……叔母様……私は……」


 そこまで声が出たが、どう答えて良いか分からない。


 でも今のままでは確実にあの国に戻される、それは分かっている。


 俯き唇をぎゅっと結ぶ。


 誰かに尽くして生きる……そんな人生はもう絶対に嫌だった。





「イザベラ、何も今すぐに答えなくってもいいのよ」

「……叔母様……」

「貴女には店もあるし、直ぐにうちの子になるだなんて無理だと私にだって分かっているわ」


 ベルの心を知ってか、目の前にいる大叔母は柔らかに微笑んだ。


「ねえ、イザベラ、私の過去を知っていて?」


 大叔母の言葉にベルは頷く。

 セルリアン王国の王女であったマティルダの話は有名で、貴族の子女であればだれでも知っているそんなエピソードだ。


 小国の王女であったマティルダはその美しさから他国でも有名であった。


 そこで一目ぼれしたのがビリジアン王国の第二王子。前ウィスタリア公爵だ。


 だがマティルダには幼い頃から結婚の約束をした婚約者がいた。

 熱烈な恋では無かったが、その仲の良さは有名で、良き夫婦になるだろうとそう言われていた。


 けれどその当時の国王は大国ビリジアンとの繋がりを望んだ。


 その為マティルダの婚約は無かったことにし、ビリジアン王国へと嫁がせた。

 マティルダの気持ちなど尊重することもなく、当然の行いとして……


「フフフ……表向き私には婚約者などいなかった、そう言われているでしょう? あの国は昔からそう、王の都合で全てが動く、そういう国なのよ」


 そう、マティルダのことを詳しく調べたベルだから事実を知っているが、一般の貴族社会ではセルリアン王国の赤薔薇とそう呼ばれていたマティルダが、ビリジアン王国の王子に一目ぼれされ恋に落ちた、そう言われている。


 乙女の憧れを刺激するような恋物語。

 マティルダはその主人公なのだ。


「ねえ、イザベラ、父はね、婚約者と別れさせた後私に言ったの、嫁ぐ前で良かったなと、お前でも国の役に立つことが出来たなって、まったく悪びれることもなくね」

「それは……」


 セルリアン王国では女性の婚姻に自由は無い。


 国の為、家の為、夫の為に尽くすことが当然。そう思われている。


 ベルの時でさえそうだったのだ、マティルダの時代であったならば尚更だっただろう。


 微笑みを浮かべる大叔母の目には、今も忘れられない思いがあるようだった。



「でもね、この国へ嫁がせて貰った事は感謝しているのよ。私の過去を知った夫は私に頭を下げたの。あの国では考えられない事でしょう? 私も驚いたわ。フフフ、それにね、夫はとても優しかった。誰よりも私を思ってくれた。急な婚姻で心が追いつかない私に、無理強いする事など絶対に無くて、いつも微笑んで優しく見守ってくれたの。大事にされている事が実感できて、それが何より嬉しかったのよ」


 そう言って大叔母は飾られている前公爵の肖像画へと視線を送った。


 今でも愛している。


 大叔母の笑みはそんな気持ちを表した表情だった。



「きっとあの国で元婚約者に嫁いだとしても幸せにはなれたでしょうね、当時の私は無知だったから。でも夫と出会って今以上の幸せはないことを知ってしまった。夫以上の人はいなかった、それは絶対だと言えるわ。それにね大国であるこの国に嫁いだことで、父より、あの甥よりも私は上の立場となれたのよ。それが何より嬉しかったの。散々馬鹿にされてきたから……フフフ、だってあの国では女だからというだけで私があの愚か者たちよりも価値が下がるのよ。そんなことはこの国ではないのだもの。それだけで幸せだと思えるわ」


 大叔母はクスクスと可愛らしく笑ってはいるが、その目はまったく笑っていない。


 きっと過去には今の話以上に色々とあったのだろう。

 ベルにも経験があるのだ。

 大叔母の気持ちは十分に分かった。



「でもね、それとこれとは別よ。幾ら今幸せだからと言って私はあの者たちを許すつもりはない。絶対にね……」

 

 大叔母とて貴族の女性として、国の為、そして家の為に嫁ぐことは当然と分かっているのだろう。

 だからこそ逃げ出すことなくビリジアン王国へと嫁いだ。


 けれどあの者達はそれが当然だと言って大叔母の心を踏みにじった。

 あの国で耐えて来たベルだから分かる。


 大叔母はセルリアン王国の姫ではあったけれど、ベルと同じく国の奴隷だったのだ。


 ベルにはそう思えた。



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― 新着の感想 ―
[気になる点] そう言って大叔母は飾られている前侯爵の肖像画へと視線を送った 多分前公爵よね?唐突に侯爵が出てきて混乱したけど
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