公爵夫人とフランスパン
「イザベラ、いらっしゃい。久しぶりね。元気そうでなによりだけど、貴女もっと我が家に遊びにきても良いのよ。皆待っているのだから」
「叔母さま、有難うございます。店に従業員も増えましたので、これからはお言葉に甘えて遊びに来させていただきますね」
「ええ、そうして頂戴。ウチは男の子だけだったでしょう。男の子って大人になるとつまらなくって。その点、イザベラは可愛い女の子ですものねー。話も合うし楽しいわ。それにウチの使用人達は貴女のパンの大ファンなのよ。貴女が来る日を心待ちにしているんだから」
「それは光栄ですわ。今日は叔母さまお気に入りのフランスパンと、新作の今月のパンもお持ちしました。皆様で召し上がって下さいませ」
「まあ、有難う。フフフ、催促したみたいでごめんなさいね。でもイザベラのパンを食べたらそれも仕方がないことだと思うのよ。だって他にはない美味しさなんですもの」
「ウフフ、有難うございます」
ベルは毎月、自身の身元保証人となってくれている公爵夫人の元へ通っている。
彼女の名はマティルダ・ウィスタリア。
ビジリアン王国の第二王子に嫁いだセルリアン王国の元王女である。
ベルの祖母とは姉妹であり、ベルにとっての大叔母であるのだが、マティルダは末姫だったためまだとても若く、大叔母と呼ぶより叔母さまと呼ぶ方が丁度いい年齢だ。
実際、現セルリアン王国の国王はマティルダの甥にあたるが、年齢は国王の方が一つ年上である。
なのでベルはマティルダの事をビリジアン王国での母のように思い慕っており。
マティルダもまた自分と良く似た容姿のベルを可愛がっていた。
そんな大叔母のお気に入りのパンであるフランスパンを持って、ウィスタリア公爵邸へとベルはやって来た。
大叔母お気に入りのフランスパンは、前世のパリジャンのイメージに近いパンだ。
バターや砂糖を使わないベルのフランスパンは、店でも一番人気のパンとも言える。
外は固めでカリッとしており、中はふわふわと柔らかくて、嚙めば嚙むほど味がでる。
この世界の人たちは固いパンになれているため、毎日食べるならば食パンよりもフランスパンの方が好きだと、ベルの店でも言っている客は多い。
大叔母も長年固いパンを食べ続けてきただけに、フランスパンがお気に入りのようだ。
それになによりかわいい姪であるベルの手作りのパンということが、一番喜んでもらえる部分の様だった。
「店も繁盛しているようだし、従業員とも上手くやっているようだし、安心したわ。でももっと頼ってくれても良いのよ。せっかく保証人になったんだもの、出来ることはしてあげたいわ」
「叔母さま、有難うございます。叔母さまがそう言って下さるだけで心強いですわ」
「もう、イザベラったら、そう言うだけで何でも自分で解決してしまうんだもの、つまらないわ。ふう……でもね、本当に困った時は絶対に頼って頂戴ね、約束よ」
「はい、有難うございます。叔母様」
嬉しそうに笑顔を浮かべるベルを見て、マティルダもまた相好を崩す。
ベルがビジリアン王国へと足を踏み入れるまでは、会った事もなく手紙でしか交流して来なかった二人だが、今では本当の親子のように仲が良い。
ベルはセルリアン王国の王太子と婚約した際、ある覚悟を決めていた。
それは自分の人生を手に入れる覚悟。それだった。
最初は優しかった元婚約者。
このまま順調にいく、もしくは聖女が現れないかもしれない、そんな可能性も夢見た。
どんな未来になってももしもの準備は必要だ。
この先婚約者達との仲が悪くなりベルが断罪された場合、高位貴族令嬢が市井で一人で生きていく、それは無謀だとベルには分かっていた。
最悪の結末では処刑されるだろうが、その時はその前に逃げてしまおう、そうも思っていた。
修道院に送られることになっても、従うつもりもなかったし、平民に落とされたとしても、好きなように生きていこう、そう決意していた。
その為、資金を貯める為にまずはビスク商会と懇意になった。
そしてもしもの時の逃亡先として他国にいるマティルダを頼ることにした。
これ以上に頼りになる人などいない。
マティルダは知れば知る程、そう思える存在だった。
マティルダへの最初の手紙は、王太子の婚約者になった事と、マティルダの姉の孫である自身の紹介だった。
大叔母といえば気軽に話が出来そうだが、マティルダは元王女であり、大国であるビリジアン王国に嫁いでおり、そして他国の公爵夫人でもある。
小国の王子の婚約者でしかないイザベラから話しかけて良いような相手ではなかった。
なので王太子の婚約者になった事は、手紙を送る理由として丁度よかったのだ。
ベルは当然生まれてから一度もマティルダとは会ったこともなかったが、城に残されていた肖像画をみて自分と良く似ている姿に驚いた。
それに他国に、大国であるビリジアン王国に嫁いだマティルダならば、自分の味方になってくれるかもしれない、そんな勘が働いたのだ。
一か八かの手紙にマティルダは応えてくれた。
婚約の挨拶と共に、マティルダと個人的に仲良くなりたいと言うベルの想いを乗せた手紙に、マティルダは返事をし交際を受け入れてくれたのだ。
それからはベルは遠慮はしなかった。
心強い後見人が出来たのだ、断罪されてもどうにかなると、強い気持ちが持てた。
ビスク商会と何か商品を開発すれば一番にマティルダに送り、喜んでもらった。
そしてそんなビスク商会が男爵位をビリジアン王国でスムーズに取れたのも、公爵夫人である大叔母の推薦があったからだ。
段々と元婚約者との関係が悪くなり始めても、それをマティルダにだけは素直に伝えられた。
信じてもらえない。
言葉が伝わらない。
何をしても憎まれる。
そして聖女が来て益々ベルの立場が悪くなると、マティルダはすぐにでもビリジアン王国へ来るようにと言ってくれた。
勿論直ぐにでも逃げ出したかったが、王太子の婚約者という立場では人の目が有り、そう簡単には逃げ出せなかった。
そして遂に断罪の日がやって来た。
婚約者達が密かに計画している事は分かっていた。
あの聖女の計画だ、ベルが気付かぬはずがなかった。
「出ていけ!」
元婚約者のその言葉は、ベルがずっと欲しかったものだった。
やっと自由になれた。
もう苦しまなくていい。
頑張らなくていい。
そう思うベルの心は晴れやかだった。
そしてビリジアン王国へと無事に着き、マティルダと初めて会うことが出来た。
「イザベラ待っていたわ。お帰りなさい、よく頑張ったわね……」
「……叔母様……」
優しいマティルダの「お帰りなさい」のその一言で、ベルはこの国こそが自分の住むべき場所だとそう思えた。