コーヒーロールとその中身
「まったく……あの方を追い出すなんてあの国は愚かな行為をしたものだ。それが自分の祖国だと思うと恥ずかしいよ」
ダニエルの呟きに秘書が厳しい顔つきで頷く。
秘書の祖国もまたセルリアン王国である。ベルへの愚行を思い出せばあの国の生まれだと口に出すのもはばかられる、そんな気持ちだった。
「今のイザベラ様が幸せな事が救いだな。普通のご令嬢ならばこうはいかなかっただろう」
「ええ、本当に」
あの日の出来事を知っているダニエルは目に怒りを宿し、ギュッとこぶしを握り締めた。
ビクス商会の大恩人ともいえるイザベラ・カーマイン侯爵令嬢。
セルリアン王国の王太子妃になる方であり、そして未来の王妃になる方であったはずだった。
イザベラはその立場に見合った行動をし、彼女が起こした善幸の数々は国中に知れ渡り、民たちから愛されていた。
それ程素晴らしい女性だったのに……
そんな彼女の立場が揺れ動いたのは、聖女という名の少女を王太子が召喚させてからだった。
「ダニエル、私はもしかしたらこの国を追われるかもしれません。その時にこのビクス商会に迷惑をかけたくはないの。もしもの時に備えて私との契約を全て解約した方が貴方の為になるわ……」
ある日イザベラがそんな事を口にした。
未来の王妃として民に慕われ、十分な実績もあり、そして後ろ盾はカーマイン侯爵家というなんの憂いもない女性が国を追われる。
ダニエルはイザベラの言葉が信じられなかった。
だがイザベラの真剣な表情から見て、かなり切羽詰まった真実味のある話だと思えた。
イザベラが冗談でそんな事を言う訳がない。普通に考えてあり得ない話だが、信じないという選択肢はない。
だが商人として、恩を受けたものとしてはいそうですか、とイザベラとの取引を終える訳にはいかない。性急に何か対策を取らなければ、そう思った。
「イザベラ様、でしたら念のためビリジアン王国で契約を結び直しましょう」
「えっ……ビリジアン王国で?」
「はい、我がビクス商会もイザベラ様のお陰であの大国に店を持てるほどになりました。今回支店をビリジアン王国に作る予定でしたが、そちらを本店とさせ、このセルリアン王国にある今の店舗を支店とさせて頂きます」
「そんな、ここは、この店はダニエルのお父様との大切なお店では無いの、それに本店を変えるだなんてそんな大掛かりな事を貴方達にさせられないわ」
こんな時でさえ自分のことよりもただの商人でしかないダニエルのことを気遣うイザベラに感服するとともに、これまでどれ程自分の想いを我慢してきたのだろうと思うと、まだ幼さが残る少女に同情する。
どの道イザベラが国を追われれば、ビクス商会は大打撃を受けるだろう。
その時ビリジアン王国に本店を構えていれば、小さな支店など諦めが付く。
それにイザベラに何もなければ、そのままセルリアン王国で経営を続けていけばいいだけ、何の問題もない。
何もなかった時はいずれ出来るであろうダニエルの子供か、弟子にでも本店を任せ、ダニエルはセルリアン王国の支店をのんびりと経営すればいい。
本心からそんな話を伝えたのだが、イザベラは申し訳なさそうな表情でダニエルを見つめて来た。
「ダニエル、ご迷惑をお掛けしてごめんなさいね。でも……有難う。私にも味方がいるとわかってうれしいわ」
泣きそうなところをグッと堪え、礼をいうイザベラにダニエルは何と声を掛けて良いのか分からなかった。
イザベラの心配が杞憂で終われば良い。
そう思いながら迅速にイザベラとの契約手続きの変更や、本店の移動、そしてビリジアン王国内にて婚約者をもった。
以前から付き合いのあった男爵家の当主に娘との婚約の打診を前もってしていたため、ダニエルの正式な申し出に当主は快く返事をくれた。
そして愛する彼女は平民との結婚を心から喜んでくれた。セルリアン王国ではこうはいかなかっただろう。
着々と準備が進む中、情報収集を異欠かさないダニエルにある噂が流れてきた。
王太子が聖女召喚を成功させた、そんな噂だ。
そしてそれとともに貴族社会の中でイザベラの悪い噂が流れ出す。聖女を邪険にしているとそんな噂だ。
貴族でないダニエルにはその噂を覆すすべはない。
ただ自分の力が及ぶ民の間だけでは真実を流そうと、イザベラの評価が変わらないように手をつくした。
少しでもイザベラの力になれたら。
恩人のイザベラを助けたい。
ダニエルの心の中はそんな気持ちだった。
どうかイザベラがこのまま王妃となれますように……と神に祈るような気持ちでいたところ、イザベラから手紙が届いた。
『次の夜会で断罪される事になる。ビジリアン王国へ行く馬車へ乗せて欲しい』
季節の挨拶もない、たったそれだけ書かれた簡素な手紙。
夜会。
思いつくのは明日王城で開催される王太子の成人の祝いであろうとそう理解した。
だが、他国の貴族も招かれるようなそんな場所でイザベラを断罪する。
そんな愚行がまかり通るのかとセルリアン王国の貴族たちを疑い、ダニエルはやはり信じられなかった。
いや、愛する国の行いを信じたくない、それが本心だったのだろう。
大急ぎで自身の出張の準備をし、夜会の開かれる朝、王城への納品にまぎれイザベラに了承と手配済みの手紙を渡した。
そして夜会が始まってから、仕事を終えたていで、納品の馬車を走らせようと王城内で待機していた。
どうかイザベラが自分の前に現れないように。
どうかイザベラがこのままセルリアン王国の王妃になれますように。
そんなダニエルの願いは、残念ながら叶わなかった。
「ダニエル、無理を言って申し訳なかったわ」
そう言って笑ったイザベラの髪は酷く乱れ、色白のはずの頬は赤く腫れ上がり、足も庇って歩いていた。
いったい何をされたんだ!
イザベラのその姿をみて怒りが沸き上がる。
だが、今は復讐の時ではない。
とにかく早くイザベラを逃がさなければ、そう思った。
「イザベラ様、失礼致します」
ダニエルは痛々しげなイザベラを歩かせる気になれず、失礼だとわかっていながらも抱え荷馬車へと乗り込んだ。
「すぐに出発しろ!」
信頼している店の御者に声を掛ければ、頷き馬車を動かした。
その表情は硬い。
きっと自分も秘書も同じような顔をしているのだろう。
ボロボロになったイザベラを見れば当然だ。
その痛々しい姿だけで只事ではない事が分かるし、直ぐに逃げなければと思った。
(店の馬車で逃げ切れるか?! いやイザベラ様の為に絶対に逃げ切ってやる!)
もしもの時は城門の兵士に大金を掴ませよう。
そう思っていたのだがそんな不安をよそに、祝いの宴で浮かれている城の兵士達は馴染みのあるビクス商会の荷馬車を前にしても何の疑いも持たず、丁寧に馬車内を調べる事などしなかった。
荷物を下ろした後の馬車になど何の危険もない、そう判断したのだろう。
「ご苦労様」
そう声を掛けられ、ビクス商会だと確認が済むと簡単に王城から出ることが出来た。
兵士としては怠慢な姿だが、この時ばかりはそれで良かったとホッとした。
そしてそのまま店には寄らず、馬車を王都の外れまで走らせた。
暗闇に紛れ予め用意していた長距離を走れる馬車へと乗り換える。
ビジリアン王国は隣国とはいえ馬車で一週間はかかる。
荷馬車に今のイザベラを乗せたままでは流石に走れない。どんなに隠しても目立ってしまうからだ。
イザベラには空の馬車の中で夜会用の豪華なドレスから、ちょっと裕福な女性が着るレベルのドレスに着替えてもらい、帽子も被ってもらう。
ダニエルは丁度結婚したばかり、街から街の関所で妻だと言えば皆信じてくれた。
旅の途中、逃げている緊張からかイザベラとはあまり会話も弾まなかった。
それに王城では沢山辛い思いをしたのだろう、そう思うと何を言っていいかも分からなかった。
そうしてどうにかビジリアン王国に着くことが出来た。
逃亡が成功し安心すると、道中碌に話も出来なかったイザベラが心配になる。
あんな大事件があり、無実の罪で国まで追われたのだ、きっと落ち込んでいる……そう思ったのだがイザベラの表情は明るいものだった。
「やっとビジリアン王国に来られたのね。これで私の役目も終わったわ」
イザベラが呟いた言葉を聞いて、ダニエルも秘書も、王太子の婚約者としての役目を終えたのだろうとそう勘違をした。
悪役令嬢イザベラ・カーマイン
この時のイザベラは、やっと悪役から解放されたことに清々していたのだが、ダニエルと秘書がそれに気づくことは無かった。
「ダニエル、有難うございました。本当に苦労を掛けましたし、とても助かりましたわ」
目を輝かせて笑うイザベラを見て、抱えていた不安が消えていく。この方なら大丈夫。不思議とそう思えた。
「イザベラ様、この後はどうなさるのですか? 私の店で良ければイザベラ様にいらしていだいても構いませんが」
ダニエルの言葉は本心だった。
イザベラ程の優秀な女性ならば、ビクス商会で十分に活躍できるそう思った。
「ダニエル、有難う。でも大丈夫よ、私にはツテがあるの」
「ツテ、でございますか?」
「ええ、大叔母がビジリアン王国にいるのよ。暫くはそちらにお邪魔するわ」
イザベラの大叔母であれば高貴な方に間違いないと安心する。
このままイザベラが街に出れば、その美しさで悪目立ちすることは間違いない。危険すぎる。
それに何より、あの愚かなセルリアン王国のもの達がどう出るか分からない。
急ぎでイザベラの行方を探せばビクス商会に辿り着く。その可能性は高かった。
彼らはこの方を失ってはじめてその価値を知るだろう。
その時あの愚かな者たちはきっと後悔をする。それは分かっていた。
ならば簡単に手を出せない、高貴な貴族家に保護されることは願ったりだった。
「イザベラ様、どうかお気をつけて」
「ええ、ダニエル、有難う。落ち着いたらまた店に寄らせて貰うわね。その時はどうぞよろしくお願いします」
「ええ、はい、お待ちしておりますとも」
イザベラに頼まれ、降ろした先はなんと公爵邸だった。
セルリアン王国の侯爵家の娘であるイザベラには、当然王家の血も流れている。
驚きはしたが他国の公爵家と繋がりがあっても、何の不思議もなかった。
「どうかイザベラ様の未来に幸がありますように……」
本店へと向かう馬車の中、ダニエルはそう願わずにはいられなかった。