ブリオッシュとその中身
「……失敗、しただと……」
セルリアン王国王太子の執務室。
夜も深けた遅い時間だというのに、クリスタルディは一人呟いた。
秘密裏に届けられたその手紙。
誰にも見られない様にと気を使い、こんな時間になりやっと封を開けた。
だが、そこにはクリスタルディが期待した文字は並んでおらず。
ただ「失敗」とそう書かれているだけだった。
「失敗? 失敗などあり得ない、たかが一人の女を攫うだけだぞ」
クリスタルディが使える間者の中から一番信用が置ける人物に、イザベラを連れ戻す計画を話したのはもう半年も前のこと。
大国ビリジアン王国に睨まれてからというもの、クリスタルディは表立ってイザベラの話をすることは無くなった。
どうやってかビリジアン王国の公爵家と養子縁組を結んだイザベラに、クリスタルディが近づくことはもう叶わない。
あの悪魔のようなビリジアン王国の王子と、若き公爵に睨まれても尚、イザベラを欲することはクリスタルディの今の状況では出来なかった。
「クリス、まだ寝ないの……?」
ノックも無しに、ヒカリが執務室に顔を出す。
王太子の部屋へ入るマナーもまだ分からないのかと、思わず舌打ちが出てしまい、ヒカリの顔色は悪くなる。
聖女の力を奪ってしまったという事で、婚約という形を持って責任を取ったクリスタディだが、体が結ばれたあの日から、ヒカリの顔を見ると苛立ちが隠せない。
これまで可愛いと思っていた仕草も、粗野で躾のなっていない平民の女のように思えて仕方がない。
特徴のないヒカリの平凡な顔や体を見ると、何でこんな女が自分の婚約者なのだと、嫌な気持ちになる。
癒し人に相談してみれば、それは制御出来ていない聖女の力を近くで浴び過ぎた弊害だと言われ、益々ヒカリに憎しみが湧いた。
反対に思い出すのはイザベラのことばかり。
イザベラが居たころは何不自由なく生活を送ることが出来たし、クリスタルディの未来は光り輝くものだった。
何よりイザベラは美しく聡明で、クリスタルディの隣に立っても遜色がなく、貴族としての気品も兼ね備えていた。
なのにあの夜から全てが一変してしまったのだ。
ヒカリに惑わされたおかげで、クリスタルディは美しい婚約者も、約束された賢王としての未来も、心強い側近たちも、全て失い今は途方に暮れているのだ。
「……まだ仕事中だ……先に寝てくれ」
ヒカリの顔を見ることなく、そっけない態度でそう答える。
「……分かった……」
力なくそれだけ答えたヒカリは、パタンと大きな音を立てて扉を閉める。
その音がまた不快で、チッと舌打ちしてしまう。
どうしてあんなにも行動が乱暴なのだろうと嫌気がさすし、二度と会いたくないとまで思ってしまう。
ふーと大きくため息をつき、クリスタルディは心を落ち着かせる。
手の中にある手紙にもう一度視線を送れば、やはり変わりなく「失敗」の二文字が書かれていた。
(何故失敗した、私の作戦は完璧だった。もしや裏切り者でもいたのか?)
自分に自信のあるクリスタルディは自分の作戦が穴だらけであることに気づかない。
盗賊団の名を借りてベルを誘拐し、セルリアン王国に運ばれたところでクリスタルディが颯爽と助けだし、イザベラに再度婚約の話をする。
今も尚イザベラはクリスタルディを愛しているはずなのだ。結婚を申し込めば嫌とは言わないだろう。
イザベラが、イザベラ・ウィスタリアと名を変えていたことはある意味幸運だったのかもしれない。
イザベラ・カーマインを悪女だと追い出した手前、同じ女性を婚約者にしたなどと知られれば、クリスタルディは世界中に笑われてしまう。
フレッドに力を借りたのは、念の為だ。
この作戦がバレた時、クリスタルディの為にとフレッドが勝手にやったことにすれば、クリスタルディが責任を問われることは無い。
それにフレッドは今、貴族籍を抜けただの平民になっている。
彼が何を言おうが取り合うものなどいない。
フレッドのクビを切るなど簡単なこと。
クリスタルディは己の幸せだけが大事だった。
金も、誰にも分からないように用意してやった。
フレッドも逃げやすいように盗賊団には話を付けた。
ビリジアン王国には魔法を使えるものなどいないのだ。フレッドが居ればイザベラを攫う事など簡単なはず。
そう思っていたのに、何故こんな結果になるのだ。
失敗の二文字が、全ての答えだった。
次の日、クリスタルディは寝不足を感じながら目を覚ました。
側近が全ていなくなってしまったクリスタルディは、休むことも許されない程忙しい。
イザベラがいたころは、サインだけすればよかった書類も、今は一つ一つ目を通さなければならない始末。
新しい側近をと募ってみたが、王太子付きは荷が重いと良い返事が返って来たことは無い。
「朝食は要らない」
メイドにそう声を掛け、部屋を出る。
ヒカリがクリスタルディと食事を共にしたいと待っている事もあって、最近は朝食を抜くことが多い。
朝からあの顔を見るのは気が重いのだ。
話しかけられても、笑いかけられてもイライラしてしまう。一日の始まりが台無しになる行為をわざわざ選ぶはずがない。
だったら自分一人で食事を簡単に済ませた方がましだった。
なのにヒカリはその事を理解せず、何度も一緒に食べたいと声を掛けてきて、クリスタルディには憂鬱な想いがたまる。
(フレッドにヒカリを押し付ける筈だったのにな……)
ヒカリに直接会っていないフレッドは、今も尚ヒカリを想い続けているらしい。
ならば作戦が成功した暁にはヒカリをフレッドに下賜すれば良い。きっと喜ぶ。
ヒカリもクリスタルディの側にいるよりは幸せだろう。
そしてクリスタルディは、最初の予定通りイザベラと結婚すればいい。
最初はそうなる予定だったのだ。ただ元に戻すだけ、簡単なことだ。
「殿下、国王陛下がお呼びです」
執務室に着いた途端、待っていましたとばかりに王の側近に声を掛けられた。
後でと断りたかったが、問答無用で謁見室へと連れて行かれる。
それも連れて行かれた先は秘密裏に王と会う、小さな個室。
窓もないその部屋に通されると、何だか自分が犯罪者にでもなったかのような嫌な気持ちになる。
一体何があった。
母上がまたヒステリックに騒いだのだろうか。
面倒くさいと思いながら、クリスタルディは父に頭を下げる。
「父上、いえ、陛下、お呼びと聞き馳せ参じました」
「クリス……タルディ……」
顔を上げて見た父親の顔色はとても悪かった。
青白いというよりも青黒く、病人か何かかと勘違いしそうなほどに弱っていた。
クリスタルディの名を呼ぶ声も弱々しい。
まるで死にゆく前のようだ。
余りの父の様子に、クリスタルディは許可を得ることなく椅子に座る父親に駆けよった。
「父上、何か有ったのですか?」
父イルクタルディの背に手を置き、慣れない手つきで摩ってやる。
ここ数ヶ月ですっかり痩せてしまったイルクタルディは、服の上から触れただけでもその細さが分かり、年老いたように感じた。
「大国が……断交を宣言してきた……」
「……えっ……? なんですって?」
弱る父の声は聴き取り辛く、クリスタルディは父に顔を近づける。
「我が国は……このセルリアン王国は、もう終わりだ……」
「えっ……」
ぐしゃぐしゃに握りつぶされた紙を父に差し出された。
そこにはビリジアン王国からの断交が記載されており、ビリジアン王国の国王陛下の名で宣言されていた。
(もしや、イザベラの件か……)
誰にも話していないイザベラ誘拐の件が脳裏をよぎり冷や汗がでる。
だがこんなに弱っている父に正直に話すほどクリスタルディも馬鹿ではない。
それこそ父の息の根を止める可能性がある。
まだ持ち直しが出来ていないセルリアン王国にはイルクタルディの存在が必要だった。
「ち、父上、ビリジアン王国と断交したとしても、大国は他にもあります、我々の生きる道はーー」
言葉の途中でイルクタルディが首を横に振る。
父から受け取った紙をよく見てみれば、ビリジアン王国だけではなく、残り二つの大国からも断交宣言証が届いていた。
「そ、そんな……いや、でも、まだ他の国がーー」
期待を込めてそう言ってみたが、大国が断交を宣言したと知れば、他の国も続々とセルリアン王国から手を引くだろう。
小さな国であり、力の弱いセルリアン王国が自国の力だけで生き延びるのは難しい。
生産性が少なく、特筆した何かがあるわけでもない小国セルリアン王国。
強いて挙げれば魔法使いが生まれる国。
それだけが強みだろうか。
だが、今他国に魔法使いを派遣すれば、この国から出て行くのは間違いない。
引き抜きされれば引き留めようがないのはクリスタルディにも分かる。
何の旨味も無い落ちぶれた国にいるよりも、大国で自由に研究できる方が生きがいがあるからだ。
そう思うと、手のひらからザラザラと大事なものが零れ落ちるような感覚に陥った。
イザベラが消えたと聞いたあの日と同じ感覚に陥り、クリスタルディは青くなる。
「私は、退位する……」
「えっ……父上?」
何を言っているんだと耳を疑う。
「私は国の端にある王領に行き、王妃と共に蟄居する……それでどこまで大国から許されるかは分からないが、何もしないよりはいいだろう……」
「ち、父上……」
何の感情もない顔を上げ、イルクタルディがクリスタルディを見つめる。
クリスタルディとよく似た青い瞳には、何の気力もなく希望もなく、全てを諦めているような、そんな色だった。
「良かったな、明日からお前が国王だ……」
「そんな、父上、それはいくら何でもーー」
「フフ、何故だ? これがお前が望んだ事なのだろう?」
イザベラを追い出し、ヒカリを王妃とする。
イルクタルディはその事を言っているのだろう。
けれどクリスタルディが望んだものは、こんな惨めなものではなく、もっと華々しい、誰からも羨まれるそんな未来だった。
「父上?」
イルクタルディがフラッと立ち上がる。
もうクリスタルディの声は聞こえていないのか、あえて聞こうとしていないのか、部屋を出ていく時も振り返りもしない。
「父上、お待ちください!」
クリスタルディが手を伸ばすが、イルクタルディの護衛に止められてしまう。
「父上!」
もうこの国には誰も頼れるものが居ない。
去っていく父の背中を見てクリスタルディはその事を実感した。
「そんな、違う、私は、こんな状態で国王になどなりたい訳では無かった」
ドンとテーブルを叩いてみたが、何かが変わるわけではない。
明日イルクタルディが退位を宣言すれば、クリスタルディが王となるのは決定だ。
きっともう逃げることは出来ないのだろう。
「イザベラ、イザベラさえいれば……」
自ら追い出した元婚約者の名を語る。
彼女が居ればこんな事にはならなかった。
クリスタルディが望む戴冠は、こんな惨めな物ではなく、国中に祝われる華々しいものだった。
自信に満ち溢れたクリスタルディの横には、美しく気高い王妃が立ち。
その後ろには頼もしい側近たちが控える。
そうなる筈だった。
あの日、あの時、聖女の話だけを聞かず、イザベラの言い分もきちんと聞いていれば。
そんな変えられもしない過去をクリスタルディは只々悔やんでいた。
「イザベラ、許してやる、戻ってこい……」
クリスタルディのその言葉に反応するものは誰もいない。
セルリアン王国の最後の王クリスタルディは、一人ひっそりと王座についたのだった。
この後、セルリアン王国の衰退は一気に進む。
国王となったクリスタルディは正に裸の王様。
彼の傍には誰も支える者などいなかった。
「イザベラ……」
王位継承と共に聖女と結婚した後も、クリスタルディはヒカリの名を呼ぶことはなく、元婚約者の名をことあるごとに呼び続けた。
ヒカリとの仲は自国を表すように冷めて行き。
肌を合わす事など結婚してから一度も無かったそうだ。
クリスタルディの子が生まれなかったことは、ある意味幸運だったのかもしれない。
けれどクリスタルディがどんなに望んでも、もう一度イザベラに会うことは叶わなかった。
それが許される程、世界は甘くはないのだ。
愚王クリスタルディ。
彼の在位期間は歴代の国王の中で一番短いものだった。
こんにちは、夢子です。
ここまで麦の家を読んで下さった読者の皆様、有難うございます。
これにて本編は終了となります。
ベルとリックの物語を書き始め、ここまで長い話になるとは私も思っておりませんでしたが、皆さまの応援あって続けることが出来ました。本当に有難うございます。
良いねやブクマ、誤字脱字報告など、読者の皆様との交流は、とても嬉しく作品作りにおいて力となり、頑張るぞと気合いを入れるヤル気を頂きました。
ベルが幸せになれたのも、読者様のお陰だと思っております。
また私に書くことが楽しいという気持ちを与えて下さったこと、感謝しかありません。
この後、人物紹介を流し、また1日おきにエピローグを投稿させて頂きます。
また新作も準備しておりますのでそちらも読んでいただけると嬉しいです。
今後もゆっくりではありますが、投稿を続けたいと思っております。
どうかお時間のある方は、夢子の他作品にも目を運んでいただけますと幸いです。
皆様とまた次回作でお会いできますように。
夢子