婚約者とブリオッシュ③
「んっ……」
何度も口づけを落し、舌を絡ませ、ベルを堪能する。
ベルの柔らかい唇が、ベルの花のような香りが、リックの理性を壊し、酷く興奮させる。
「リック様……」
吐息を漏らすように名を呼ばれゾクリとし、ベルとまた唇を重ねた。
どちらの息遣いなのか分からない程、ベルと何度も口づけを交わし、お互いを確かめ合う。
「ベル、リック、と呼んで……」
耳にそっと囁き、願いを乞う。
ベルが他の男を名で呼ぶ度、羨ましいと、そう嫉妬していた思いをここで打ち明ける。
「……リック……」
ただ名を呼ばれただけなのに、ぎゅうっと心臓を鷲掴みにされ、ビリビリと体に痺れが走るような衝撃を受ける。
「ベル、もう一度……」
「……リック……」
ギュッとベルを抱きしめ、幸せを体全体で感じる。
キスを重ねながら押し倒すようにソファに倒れ込み、ベルを胸の中に閉じ込める。
もう離したくない。
誰にも渡したくない。
セルリアン王国の王太子などに渡すものか。
ベルの温もりを感じる程、自分が彼女をどれほど愛しているのか、彼女をどれだけ大切に思っているのかが分かる。
ベルの肌に髪に唇に触れたことで、それを深く実感した。
「ベル、大好きだ。愛している」
「リック……私もです……私も、貴方が好き」
愛しい女性が、自分を愛してくれている。
その奇跡が、幸せが、リックの心を満たしてくれる。
ベルの頬に、額に、耳に、首筋に
何度も口づけを落し、自分のものだと印を刻む。
ドクドクと全身が心臓になったように熱を持ち、いつもよりもずっと速く脈を打つ。
理性が保てない程、ベルが愛おしく。
何もかもどうでも良くなるほど、ベルしか見えない。
ベルの髪に触れ、細い肩や首筋に触れ、そして柔らかな女性らしい部分に触れていく。
ベルとリック、二人だけの世界に夢中になっていると、コンコンコンと遠慮がちなノックの音が聞こえ、リックは現実に舞い戻った。
「えーっと、ベルさん、じゃなかった、えーっと、イザベラ? 部屋にいるのかな? 俺だけど、って、えーっと、ザックお兄ちゃんだけど、ちょっといいかな?」
甘く、情熱的で、魅惑的な世界が崩れ、ベルと二人重なり合ったまま扉へと視線を向ける。
「ねえ、マイク、二人ってお家デート中なんでしょう? 俺、邪魔したくないんだけど、恨まれるじゃん」
扉の外からはザックの小さな呟きが聞こえ、マイクに願われて扉を叩き、ベルとリックの邪魔したことが窺えた。
「婚約者同士なんだからさ、ほっとけばいいじゃん」
リックとベルは慌てて身を起こすと、視線を合わせ、気恥ずかしくって顔が赤くなる。
さっきまではあんなにも夢の中にいるみたいだったのに、今はザックの声で冷静になれた。
乱れた服が恥ずかしい。
今日はずっと二人きりだと安心していたけれど、護衛のマイクがベルを放置するはずはなく、どこからかは分からないが、ベルとリックの行動は見守られていたようで、羞恥から顔に熱が集まっていく。
「えっ? マティルダ様に怒られる? マティルダ様は怒んないでしょう優しいし。えっ? ウォルターが怖い? それは、まあ、分かる気がするけどさー」
お邪魔虫はごめんだとマイクに話しかけながらも、ザックは諦めたようにもう一度扉をノックする。
コンコンコン。
「えーと……イザベラ、俺もリックさんに会いたいんだけど、挨拶しても良いかな?」
真っ赤な顔と乱れた呼吸を落ち着かせるように、リックとベルは冷めたお茶に手を伸ばし一気に飲み切った。
どちらからともなく視線を合わせれば、なんだか可笑しくなってクスリと笑う。
「あー……ベル、この続きは結婚してからかな?」
「……はい、そうですね、リック様、楽しみにしていますね」
照れた顔を見せながらベルはそんな嬉しい言葉を溢す。
どこまでも可愛さしかないベルは、リックの頬に軽く口付けを落とすと、名残り惜しそうに立ち上がりリックから離れていった。
姿見でチラリと自分の姿を見て、髪や服に乱れがないかを確認しベルは扉へと向かう。
ベルが少し離れただけで、もう寂しさを感じる。
もっとずっとベルを感じていたい。
知ったからこそ、その甘美がまた欲しくなる。
ベルのパンもベル本人も、もうリックには無くてはならないものになっていた。
けれどそれは暫くお預けだ。
結婚式までの楽しみとしよう。
リックもベルに倣い、自分の乱れた衣服を直し、澄ました顔を心掛ける。
楽しみにしています。
ベルのその言葉が嬉しくて、頬が自然と緩み、隠しようがないほど口元がにやけてしまう。
(ザックに止められなかったら危なかったな……)
ザックのノックの音が二人の世界に割り込んでこなければ、きっと今頃リックはベルを抱え寝室へと向かっていただろう。
これまで自分は理性的だと自負していたが、ベルの前だと自分はどこまでも愚か者になってしまうようだ。
それにベルも、自分に触れられることを全く嫌がらなかった。
それどころかまるで早く抱いて欲しいと、そう言っているようで、リックの理性は簡単に壊れてしまった。あれほどの魅力の前だ当然だろう。
「えーと……リックさん、おじゃましまーす」
「あ、ああ……ザック、その、どうぞ、遠慮なく」
遠慮がちに部屋へと入って来たザックに、ぎこちない言葉を返してしまう。
それだけで何かを察したのか、ザックの笑顔は微妙に引き攣っていた。
「えっと、ごめんね?」
謝られると何だか恥ずかしいが、頭に手を置きぺこぺこと何度も頭を下げるザックの姿が、売込中の商人のようで面白く見える。
ザックの後ろからはベルの護衛マイクと、ザックの護衛となったトニー、それとリックが良く知るシャトリューズ侯爵家の騎士ダミアンも入ってくる。
三人とも何故かリックとは視線を合わせない。
気まずいと思っているようだ。
一体どこから見聞きしていたのか、あとで問いただそう、そう決意した。
無言のまま壁際に逃げようとしたトニーとダミアンは、護衛対象であるザックに引っ張られ、ザックの席の後ろに立たされる。
特級冒険者から逃げようなど無理な話だ。
トニーとダミアンは何かを諦めたのだろう。
天井だけを一身に見つめザックの後ろに立った。
そしてマイクは「俺は御者なんで、この辺で」と上手く逃げようとしたのだが、笑顔のベルに掴まった。
「マイク、お茶を入れたわ。それに新作のパンもあるのよ。良かったら食べてみて感想を聞かせて頂戴」
マティルダに似た笑顔を向けられマイクの顔が引き攣る。
「……いえ、私は……」
断ろうとするマイクに「マイク、お願い」とベルがもう一度願った。
「あの、はい……分かりました」
守るべきお嬢様に願われてはマイクも断れないらしい。見た目がマティルダに似ているのも後押ししているようだ。
そんな様子にクスリと笑いマイクに視線を送れば、すみませんという風に頭を下げられ苦笑いを返された。
どうやら邪魔をしたことを申し訳なく思っているようだが、ある意味助かったのはリックの方だ。
もしあのままベルを望み続けていたら……
リックの首は物理的に飛んでいたかもしれない。
ベルの保護者達は最高の布陣なのだから。
「わあ、このパンすっごいバターのいい香りがするねー」
ベルがテーブルにブリオッシュを出すと、ザックから感嘆の声が漏れる。
今はザックの素直さが有難い。
居た堪れない空気が緩和される。
ベルからシャトリューズ侯爵家のバターをたっぷりと使っているパンだと聞き、ダミアンもトニーも興味津々な様子だ。
さっきまでの無表情はどこへ行った。
パンを見つめるその顔を見て、そう突っ込みたくなったリックだった。
「さあ、マイクもトニーもダミアンも席について、新作パンの感想を聞かせて頂戴、私の為にね」
ベルの声掛けを聞き、リックが一人掛けのソファへと移ると、マイク、トニー、ダミアンが三人掛けのソファへと座る。
体を鍛えている三人が一緒に座れば、三人掛けのソファは窮屈そうに見える。公爵家の立派なソファなのにだ。
ただそこは、先程までベルとリックが横になって居た場所で……
そう思うと何だか恥ずかしく、色々と思い出されて口元が緩み、それを誤魔化すように先程食べたはずのブリオッシュをまた口に運んでいた。
「美味い! ベルさん、じゃなかった、イザベラ、このパンもめっちゃくちゃ美味しいよ!」
ザックの声を聴き、確かにそうだとリックは頷く。
そう言えば先程は味が良く分からなかったと思い出す。
気持ちが落ち着いた今ならば、ベルのパンの味が良く分かる。
これはリックが大好きなロールパンにも負けない美味しさだ。きっとイーサンも欲しがるだろうが暫くは内緒にして居たい。それぐらい今日の出来事は一人占めしたい思い出だ。
「イザベラ、リックさんと結婚しても俺に美味しいパンを食べさせてね、絶対だよ」
兄というよりは、甘えん坊の弟のように願うザックに対しベルは笑顔で頷いた。
「ウフフ、勿論よ、ザックお兄様。私は麦の家のオーナーだもの、パン作りは一生やめないわ」
そう言って笑ったベルの顔はとても美しい。
リックはその笑顔に惹かれ思わず見つめてしまう。
(ああ、俺の婚約者は強くて優しくて、とても素敵な人だな……)
もう何度目か分からない、惚れ直し。
リックは彼女のことも大好きだが、やっぱりベルの作るパンが大好きだと、その笑顔を見て改めて感じた。
「ベル、君の作るパンを俺に一生食べさせて欲しい」
特に何かを意識したわけでもなく、そんな言葉が自然と口から洩れた。
マイク、トニー、ダミアンの、パンを食べるスピードがなぜか急速に進み、ザックからは「うひょー」と変な呟きが漏れる。
部屋にはもぐもぐと咀嚼音だけが聞こえているが、ベルがリックを見つめる温かな眼差しの前ではそんな事は気にならなかった。
「ええ、勿論。リック様、私は貴方の為に美味しいパンをずっと作り続けるわ」
ベルにそう返され、心が弾む。
美味しいパンと愛しい婚約者を前に、自分は世界一の幸せものだと、そう感じたリックなのだった。
残念です。お預け。リックなので当然ですね。