婚約者とブリオッシュ②
ベルとの約束をした後リックはやっと休日を迎え、浮かれ具合を誤魔化しながら今日ウィスタリア公爵家へとやって来た。
ベルの髪色である赤薔薇の花束を抱え、馬車から降りれば愛しい婚約者であるベルが出迎えてくれた。
リックの瞳の色であるグリーンのワンピースに身を包んだベルが笑顔でリックを迎え入れてくれる。
公爵家の令嬢らしいドレス姿ではなく、街に行く時のような簡素ワンピースを着たベルは少しだけ幼く見えた。
「リック様、お待ちしていました」
馬車から降りて来たリックに抱き着いてくるベル。
いつもならば挨拶を終えて軽いハグをするのが定番なのだが、今日は待ちきれないとばかりにリックをギュッと抱きしめる。
久しぶりの逢瀬なのだ。リックだってベルに会いたかった気持ちは同じ。
お返しにとベルを抱きしめ返すと、ベルの頭頂部に口づけを落した。
赤く艶やかなベルの髪からはリックを誘うような香りがして、ずっと抱きしめて居たい気持ちになるが、ここは玄関前、リックは欲望を抑え込み侯爵家子息らしい笑顔を作る。
きっとイーサンがこの場にいたら「きもっ」と言われるかもしれないが、リックはベルの髪から香る、花のような香りが大好きだった。
「ウフフ……リック様の香りがします。私、リック様のこの香りが大好きです」
己の胸の中にいるベルが、自分の香りが好きだと言いドキリとする。
ベルも自分と同じ様に愛しい人の香りが好きなのかという嬉しさと共に、自分が汗臭くないかと少しだけ心配になった。
(いや、臭くないはず、うん、大丈夫だ)
朝稽古の後はきちんと汗は流したし、メイド達が用意した服は何の問題も無いはずだ。
それにベル自身が良い匂いだと言っているのだ、自信を持とう、きっと大丈夫だ。
「ベル、お招き有難う。花束をどうぞ」
「まあ、赤薔薇ですね、嬉しい、有難うございます」
ベルは薔薇をジッと見つめ、頬を赤くする。
きっとリックの伝えようとした意図に気付いてくれたのだろう。
今日の赤薔薇の数は44本。
その意味は変わらぬ愛を誓う、だ。
セルリアン王国の王太子には絶対に誓えない言葉。
リックはあの男にだけは負けたくなかった。
「リック様、お部屋に行きましょう」
ご機嫌なベルに手を引かれ歩き出す。
いつもならばリックがベルをエスコートし、それを受けゆっくりと歩き出すのだが、今日のベルはリックの手を引っ張るように先へと進んでいく。
リックとの時間を楽しみにしてくれて居たようで、その行動が凄く嬉しい。
それとまるで幼い少女が手を引いているようなその姿が、ワンピースの可愛らしさも相まって、ベルを少女のように見せていた。
(今日もベルが可愛すぎる……)
目の前を歩くベルが愛おし過ぎてリックは仕方がなかった。
「ああ、ベル、部屋に行く前にまずマティルダ様に挨拶をしたいんだけど……」
いつもウィスタリア公爵家への訪問の際は、この屋敷の主ともいえるマティルダへと挨拶をする。
そのマティルダと会うはずの応接室を素通りした時点で、不思議に思ったリックがベルに声を掛けた。
ウィスタリア公爵家へ来てマティルダに挨拶をしないなど許されない。ベルの相手に相応しくないと判断されればリックの人生は終わる。
誘拐事件やちょっとした嫉妬のせいで、最近のリックの評価は落ちているかもしれない。
愛しいベルとの結婚を白紙にされないためにも、ここはしっかり挨拶をしておきたい。
そう思いマティルダの名を出したのだが、リックに思わぬ返事が返ってくる。
「今日は母はいません。観劇に行っています」
「えっ? 観劇? マティルダ様が?」
「はい、私がチケットをプレゼントしました。リック様との時間を誰にも邪魔されず一人占めしたかったんです……」
ポッと頬を赤らめ、ベルがそんなことを言う。
マティルダにはリックが来ることは伝えてあるそうなので、ベルの気持ちは理解されているそうだ。
婚約者ではあるが愛娘を男と二人きりにするのだ。
リックがマティルダに信用されていると思って良いだろう。
うん、そうに違いない。
「お母様には……その、頑張りなさいね、と言われました」
耳まで真っ赤にしてベルがそんな事を言う。
頑張るとは一体何を頑張るのだろう。
聞きたいが怖くて聞けない。
聞いたが最後、リックが理性を保てなくなる可能性が高い。
マティルダがいる。それはリックにとって大きな壁なのだ。
なので答えを聞けば、リックは暴走する自信がある。
いや、もしかしたらリックの答えと、ベルの言葉の意味は違う可能性もある。
面白がっているであろう未来の義母を想像し、リックはどうにか衝動を抑えた。
次回マティルダに会えば、その微笑み全てが悪女の笑みに見えるだろう。
あのロナルドの生みの母である。ただの優しい人であるはずがなかった。
ベルの部屋へ行くのが怖い。
嬉しい気持ちはタップリとあるのだが、自分の理性がどこまで耐えられるのか余り自信がないリックは、負け戦に向かうような心境だった。
「今、お茶を入れますね」
ベルの香り一杯の部屋へ通され、三人掛けのソファへと座らされる。
普段は部屋の中で控えているメイドは何故か誰もおらず、いつもなら少し開いているはずの扉もキッチリ締まっている。
部屋にあるポットでベル自らお茶を入れてくれた。それと一緒にバターの香りが良く香るパンを出してくれる。
「ブリオッシュと言います。これはシャトリューズ侯爵領のバターをたっぷり使っているんですよ」
「有難う、美味しそうだ」
紹介してくれたパンを早速頂こうと手を伸ばす。
ベルはリックが来る日はこうやってパンを焼いてくれる。リックがパン好きと知っての好意には嬉しさしかない。
見るからに美味しそうなパンに食欲をそそられ、ぱくりと食らいつこうとしたその時、ベルに手を掴まれた。
「あの、リック様、私がそのパンを、ブリオッシュを食べさせてもいいですか?」
「へっ?」
頬を染め上目遣いにそう願われ、その衝撃に言葉が出ないまま頷いてしまう。
一度やってみたかったんですと笑いながら、ベルはブリオッシュをちぎりリックの前にパンを持ってくる。
「リック様、はい、あーん」
「あ、あーん」
イーサンに見られたら笑われそうだが、リックはベルの指示に従い口を開ける。
美味しいですか? と問いかけられたが、残念ながら味がイマイチ分からない。
普段のベルならば絶対にしないであろう行動と、周りに人がいない状況にリックの思考は上手く回らない。ベルの様子が可笑しい(可愛い)ことばかりに気が行ってしまう。
「と、とっても美味しいよ」
そう答えるとベルがはにかんだように笑う。なんて可愛いのだろうか。
普段のベルは落ち着いていて大人な女性と表現するのがピッタリなのだが、今日のベルは可憐な少女のようでまた違った魅力をリックに披露していて衝撃が強い。
「良かった、リック様に私が作ったパンを食べて貰えて、とても嬉しいです」
ベルの言葉はブリオッシュに対しての言葉なのだが、動揺中のリックには「私を食べて欲しい」と聞こえて、自分の精神状態が壊れ始めているのが分かる。
(ヤバイ、これはダメだ。危険信号だ!)
理性が崩壊し始めているのを感じたリックは、心の中の英雄を呼び出すことにした。
「ああ、そう言えばベル、今日はウォルターは? ウォルターはどこかな? 挨拶しないと」
助けを求めるようにウォルターの名を出してみる。
このままでは絶対に理性が保てない。
今日のベルの魅力は強すぎる。
強敵に立ち向かう為、リックは心強い味方を傍に置きたくなった。
「ウォルターは、母のお供で観劇に行っております。フフフ……リック様はウォルターとも仲が良いのですね」
フフフと可憐に笑い、ベルが自分の席から移動し、リックの隣に腰を下ろした。
そしてするりと手を絡ませ、恋人繋ぎと噂される手の繋ぎ方を披露する。
その上リックの肩にコテンと頭を乗せ、身を預けてきた。
「ーーっ」
可愛すぎる行動に胸を叩かれたような酷い痛みが走るが、騎士として第三騎士団長としてその痛みにどうにか堪えた。
ウォルターが一匹、ウォルターが二匹と、知能が低下した頭で数を数える。
そうだ、このベルらしくない行動は誘拐事件のせいではないだろうか。
これは不安な心から出る『甘え』なのかもしれない。
だったらここは民を守る第三騎士団長として婚約者の心も守らなければならない。リックは無理矢理そう結論付けた。
「ゴホンッ、あー……ベル。そのー、ベルには何か不安なことや怖いことでもあったりするかい? それに、夜は、その、眠れたりしているだろうか?」
どうにか誘拐事件の事は出さず、声掛けをする事ができた。
自分でも父に似て不器用すぎると分かっているが、思考回路がショート寸前のリックには遠回りな言い方などできなかった。
「私、誘拐されて、考えたんです……」
「……うん……」
やっぱり誘拐事件のせいで甘えたかったのかと、自分の考えが正しかったとリックは納得した。
「俺には何でも話して欲しい」そうリックが伝えればベルは嬉しそうに頷き次の言葉を発した。
「あの時、凄く不安で、もうリック様に二度と会えないかもしれないと、とても怖くなりました……」
「うん、俺もだ」
それはそうだろう。
女性だけでなく、男だって誘拐されれば怖い。ベルの感情は当然だと言える。
それとともに良くパンを焼かせてくれと言えたなと、ベルの心の強さに感心する。
これはリックの母、元騎士のビクトリアにも負けない負けん気の強さだと、そう思った。
「その時、私、思ったんです。リック様にもっといろんなことをしてあげたかったなって……」
「うん」
「それに私ももっとリック様に甘えればよかったなって、遠慮なんかしないで、どんどん甘えてしまえばよかったんだって、そう気づいて……」
「うん」
そこまで言うとベルはリックを見つめ瞳を潤ませた後、抱き着いて来た。
「それに喧嘩のときに……リック様に自分の気持ちを伝えきれていないって気が付いて……」
「気持ち?」
「はい」
リックは抱き着いて来たベルの肩に手を回し、反対の手でベルの頬に触れると、今度はリックがベルの金色の瞳をジッと見つめた。
リックを見つめ返すベルの瞳はとても美しい。
少し潤んでいるせいなのか、妙に色気があった。
「はい、私……大好きも、愛しているも、リック様に全然伝えきれていなかったと反省して……誰よりもリック様の事を愛しているのはこの私なのに、それも言えていませんでした」
「ベルっ」
リックはベルをきつく抱きしめる。
こんなにも自分を想ってくれる女性など他にはいない。
結婚前だとか、まだ婚約中なのだとか、そんな事は頭の中から消えて行く。
自然と唇を重ね、ベルの体に優しく触れる。
ただベルが愛おしい。
今のリックの心の中は、その言葉だけしか浮かんでいなかった。
ベルのターン、押せ押せ
市場のあーんはベルの中では無意識なので数には入っていません。