話題の店とクリームパン
「いらっしゃいませー。パン屋【麦の家】ただいま開店でーす」
ビリジアン王国王都の片隅に、最近開店したパン屋【麦の家】がある。
小さな店ではあるが、いつも清潔に掃除され。
店からは食欲を唆る良い香り漂っている。
そんな人気店の開店を宣言した女性店主が今日も笑顔で客たちを出迎える。
パン屋を営む平民にしてはキラキラと艶があり明るすぎる赤髪と、やはり平民にしては明るく瞬い金色の瞳。そして平民服を着ていてもごまかしきれない色白で美しい肌と、整った顔立ちをした女主人、それがパン屋【麦の家】の店主ベルだ。
ここビリジアン王国では、一般的なパン屋の開店時間がお昼前であるところ、ベルのパン屋【麦の家】は、通勤客を掴むため朝早くに開店し人気を博している。
それは店主ベルの持つ特別な記憶から決められた開店時間でもあった。
その案を登録する商業ギルドで相談したところ、最初は小ばかにされた物だったのだが、ベルの予測通り多くの通勤客を取りこめたパン屋【麦の家】は、今では商業ギルドでも先見の明がある店主だと一目置かれる存在となっていた。
そして、ベルには注目されるもう一つの理由がある。
それはパン屋【麦の家】だけの独自のパンだ。
ベルの作りだすパンは従来のパンとは比べ物にならない位とても柔らかく、なのに口に含めばもちもちとして噛みごたえもあり、その上微かに甘みまである不思議なパンなのだ。
貴族の食卓にも並ばないほどの極上なパン。
ベルの記憶の中では当たり前である店のパンも、この世界では特別で極上。
そう、【麦の家】のパンはその製法を真似できない程の摩訶不思議でとっても美味しいパンなのだ。
そんな ”特別” を武器に、ベルは今日も店を開店させる。
この店はベル一人で切り盛りしている為、商品は粉違いの食パン二種と、ロールパン、フランスパン、胡桃パンと、品数はまだ少ないが、その美味しさから連日大盛況の麦の家であった。
勿論、今日も今日とて、店の前には行列が出来ている。
美人店主に美味しいパン。
例え王都の端にある小さな店であっても、【麦の家】が話題になる事に不思議はないのだった。
「やあ、ベル、おはよう。あー……今月のパンは、このクリームパン? ってやつかな? これはどんな味のパンなんだい?」
戸惑い気味にベルに話しかけてきたのは、パン屋【麦の家】の常連客の一人、騎士団所属の男性リックだ。
今月の新商品を手に取り、その不思議な形から困惑気味な表情でベルに話しかけて来た。
リックは騎士として鍛え上げた逞しい身体と、それに似合わないともいえる、優し気で整った顔立ちをもっている。
その上一般的な髪色ではなく、王子様然ともとれる輝く金色の髪に、緑の瞳という、正に乙女が恋しそうな風貌を持ち合わせる美男子の王道を行っているため客として店に来れば自然と女性たちの目を引く。
なのでこの場がもし ”ベルの捨てた故郷であるセルリアン王国” ならば、攻略対象者ではないか? とリックを警戒するところだが、ここはビリジアン王国であり、ここではその必要も心配もないとベルは知っている。
なのでベルは自然と安心しきった笑顔を向け、リックに答えた。
ただその笑顔が美人店主と呼ばれる所以に繋がるとても美しい物だとは、ベル本人のあずかり知らぬものだった。
「リック様、おはようございます。はい、今月の新商品はそのクリームパンです。そのパンの中には卵と牛乳で作った甘いクリームを挟んであるのです。ですので名前はクリームパン。甘いものが苦手でなけば試してみてくださいね。あ、でも、日持ちしませんので今日中に召しあがって下さいね」
「へー、甘いパンか。面白いな。うん、試してみるよ。ベル、有難う」
「いえ、こちらこそ、ご購入有難うございます」
ベルに爽やかな笑顔を向けたリックは、ワクワクする様子を隠すことなく、毎朝決まって買っていくロールパン六個入りと、クリームパンを手に取ると購入してくれた。
この世界では甘いものは庶民が手にする事は難しい。甘味は良いところ果物ぐらいだろう。
ベルはそれもあって庶民でも銅貨二枚で食べられる甘味としてクリームパンを作ってみた。
中のクリームは砂糖少なめだが、優しい甘さで十分に美味しいと自信がある。
残念ながらバニラビーンズは高いので使ってはいないし、クリームパンというよりはパンにちょっとクリームが入っている、という方が正しい名前なのかも知れない程度だ。
でもそれでも食べた人達は皆「おいしいおいしい」と笑顔を浮かべてくれ、パン屋の主としてはとても嬉しかった。
また明日と行って颯爽と店を出ていくリックを手を振り見送りながら、新商品のクリームパンを気に入ってくれればいいなと思う。
物語の王子様、いや、騎士様のようなリックは今日もとても素敵だった。
最初は妙齢の男性という事で、もしかして……とちょっとだけリックを警戒していたベルだったが、定休日以外毎日のように店に通い。新商品を楽しみにしてはベルに話しかけてくるリックの姿を見て。その考えが過剰反応だったと反省した。
(リック様ってただパンが大好きなだけなのよねー。)
馬に乗り仕事場へと向かうリックの背を見ながら、ベルは小さく微笑む。
余りにも神経質になり過ぎている自分に苦笑いだ。
だがベルが自意識過剰気味になり妙齢の男性を見ればアプローチされているのでは? と思うのも当然で。
ベルは、ベル自身が初めて自分を見た時から飛び切りの美人であり。その上手足がスラリと伸びた人目を引くに申し分のないスタイルまでも持っていた。
そして大人になった今現在では、R指定や規制が必要なのでは? と本人でさえ思う程、女性らしいプロポーションまでもを身に付けている。
リックのことは別の意味(攻略対象者かも?)でも意識していたが、ベルが男性全般に対し意識を向け気を付けているのは仕方がないことだった。
何故ならこの店を開店してから男性に声を掛けられた事は数知れず。
中にはプロポーズを突然にして来た強者までいる。
まあ、この見た目では良い意味でも悪い意味でもこの世界の男性は放っておかないでしょうね……とベル自身があきれてしまう程、ベルことイザベラ・カーマインは、美人で完璧な悪役令嬢だった。
セルリアン王国で生まれ元侯爵令嬢であったイザベラ・カーマインは、何を隠そう悪役令嬢と呼ばれる存在だったのだ。
周りから嫌われ、断罪される悪役令嬢。
それが自分だと知った時のベルは、転生させた神を呪い、自身の未来を嘆き悲しんだ。
だが、幸福な未来を望み、努力の末どうにか最悪のシナリオを回避出来たベルは、今は平民としてこのビリジアン王国内で逞しく生きている。
それに喜ばしいことに、大国であるビリジアン王国内では、小国のセルリアン王国内の悪役令嬢など、どうでもいい存在なのだ。
私はもう侯爵令嬢でも悪役令嬢でもない。
それに彼の方の婚約者でもないのだ。
不遇だった過去を思い出し、過去にしっかりと蓋をしたベルは、賑わう店の中今日も笑顔で客と向かいあい、自分で手に入れた幸せを存分に感じるのであった。