死にたい悪魔くんと救いたい天使ちゃん
進藤琢磨は死のうとしていた。
校舎の屋上の、自殺防止用のフェンスの上に登って、今まさに飛び降りようとしていた。
(未歌……俺も死ぬよ……そして謝らせてくれ……)
未歌もこんな景色を見ただろうか……と考えながら、足を1歩踏み出そうとした。
その時――
「ダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
バァン!と大きな音がしてドアが開いた。
と同時に、女の子が叫びながら走ってきた。
女の子は琢磨の足元まで来ると、1歩踏み出そうとして残っていた片脚を掴んで、フェンスから無理やり引きずり下ろした。
「うわっ!」
校舎の下に落ちるはずだった琢磨の体は、屋上の上へと落ちていき――
「痛ったぁ!」
2人同時に尻もちをついた。
「な、なにしてんの!?」
尻もちをついて座り込んだ状態のまま女の子が聞く。
よく見てみれば、知っている顔だった。
名前は天堂永瑠。琢磨と同じクラスの女の子だった。
絵に描いたような美少女で、クラスどころか学校1と称される美少女だ。
茶色味がかった髪は、肩ほどの長さできれいに切り揃えられ、絹のようにさらさらとしていて動くたびについ見惚れてしまう。
女子にしては身長も高く、程よい肉付きで、脚も長く、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んでいて、スタイルも良い。
白くきれいな肌は、彼女に『透き通った』という印象を与え、『天使』だとか、『妖精』だとか、『1000年に1人の逸材』とか言われているのを聞いたことがある。
明るい性格で、男子にも女子にも人気があるのだが、その『透き通った』印象のせいか、いつの間にか消えてしまいそうな、どこか儚げな雰囲気も持っていた。
「建物から飛び降りたらねぇ! 死んじゃうんだよ!?」
びっくりして気が動転しているのか、当たり前のことを言っている。
死ぬのを回避できて腰が抜けたのか、ぺたん、とへたり込んでいる。
顔は今にも泣き出しそうで、目には涙を浮かべている。
「なんで!? なんでこんなことしようとしてんの!?」
なんで、と言われれば理由はある。
進藤琢磨は、幼馴染を殺した。
別にナイフを刺したわけでも、首を絞めたわけでもない。
でも、結果的には殺した。
進藤琢磨の幼馴染――市ノ瀬未歌は、細い体に長い黒髪の、幼馴染の琢磨から見ても、まあ……それなりに? かわいいんじゃない? と思う女の子だった。
隣の家に住んでいて、小さいころからいつも一緒にいた。
幼稚園も、小学校も、中学校も、いつも一緒だった。
でも、死んだ。
琢磨が殺した。
あれは、中学2年生のころ。
琢磨にある噂が立った。
それは、「隣のクラスの女子が進藤琢磨のことを好きらしい」というものだった。
噂の本人である琢磨には、全く身に覚えのない話だった。
だって、相手は派手な格好こそしていないものの、人間をジャンル分けすれば「ギャル」に分類される女子。
琢磨とは別世界の人間だった。
しかし、最初は友達とともに「うっそだー」と笑っていた琢磨も、次第に噂を信じていった。
ギャルの子は、明らかに目が合うたびに「キャー!」と言って、一緒にいる友達と喜んでいるのだ。
これを見て、琢磨も、琢磨の友達も、すっかり本気にしてしまっていた。
未歌が死んだのはそのころのことだ。
あるとき、琢磨がいつものように未歌と一緒に帰っていると、「ちょっと来て」と手を引かれていった。
その先は、『悪魔の塔』
『悪魔の塔』――どう見ても西洋のお城にある塔にしか見えない、苔むした廃墟だ。
「絶対悪魔かなんか住んでるでしょ」と言われ、誰も近付かない場所だ。
そのわりに、小高い丘に建っていて、付近を通る高速道路からよく見えるので、知名度だけはある場所だった。
琢磨と未歌は、この場所を秘密基地として昔から使っていた。
小さいころ、「悪魔が住んでいて誰も近付かない場所」というわりに、普通に道がついているのを発見した。
理由は塔の入口の看板を見ればわかる。ここの正体は「無線中継所」。つまりただの通信会社の設備だ。
ただもう長い間放置されているのは確実で、誰も来ないし、自分たちのお城が手に入ったみたいで、とても気に入っていた。
未歌は、黙ったまま、琢磨の手を引いて塔を登っていった。
塔を登り切って屋上に出ると、だいぶ日が陰ってきていた。
琢磨と未歌は、町を一望できるこの場所で、いつも遊んでいた。
今も以前持ち込んだものが辺りに散らかっている。
未歌は、塔の縁に町を見下ろすように腰かけ、琢磨もそれに倣った。
しばらく、他愛のない話をした。
未歌は、なんだかソワソワしていた。
そして、話題も尽き、日も暮れてきたころ、未歌は深呼吸をして気合を入れると、顔をあげ、真剣な眼差しで、勇気を出してついに言った。
「付き合ってください」
琢磨はびっくりして、未歌の顔を見た。
夕陽に照らされた未歌の顔がきれいで、思わずドキッとした。
琢磨に断る理由はなかった。
琢磨だって未歌のことは好きだったし、ずっと一緒にいてすでに付き合ってるようなものだったから「なにをいまさら」という感じだった。
しかし、この時の琢磨は、例の噂を鵜呑みにしていた。
もしかしたらギャルと付き合えるかもしれない、という一縷の望みを感じてしまっていた。
そしてそれ以上に、長い間家族同然に連れ添った幼馴染に、改めて面と向かって告白されるという状況に、なんだか気恥ずかしさを覚えてしまった。
そしてつい、心にもないことを言ってしまった。
「お前と付き合うとか、ないわー」
言った瞬間に後悔した。そして今も後悔している。
琢磨は、告白されたうれしさと恥ずかしさが入り混じった感情で半笑いだったが、未歌からすれば嘲笑にしか見えなかっただろう。
「え……」
その時の未歌の、びっくりして目を丸くした顔を今でもはっきり覚えている。
脳裏に焼き付いて忘れられない。
未歌は小さく「そっか……」とつぶやくと、黙りこくってしまった。
琢磨は、なんとか取り繕おうとしてあれこれしゃべったが、未歌の耳には届いていないようだった。
そのうち暗くなって、気まずくなった琢磨は「帰ろう」と未歌に言ったが、未歌は座ったまま動かなかった。
仕方なく琢磨は1人で帰った。
次の日、未歌は死んだ。
『悪魔の塔』の下で死んでいた。
誰がどう見ても明らかに自殺だった。
メディアは「悪魔が殺した」と騒いでいた。
悪魔じゃない、琢磨が殺した。
琢磨のせいで、未歌は死んだ。
琢磨が未歌を殺した。
悪魔は、琢磨だ。
それからずっと、琢磨は後悔して生きてきた。
噂のギャルと未歌は仲が悪かった。
小学校のとき、いつも琢磨と一緒にいる未歌に、ギャルがいちゃもんをつけた。
「学校でイチャイチャすんな」とか「彼氏がいなきゃ生活できないのか」とか……
それで友達を巻き込んで大ゲンカをしたことがあった。
琢磨は知らなかった。未歌が死んでから、未歌の友達に教えられた。
だから未歌は告白した。ギャルと琢磨が噂になってたから。
ということも、琢磨は未歌の友達に聞かされた。未歌が死んでから。
そして結局、噂のギャルも勘違いだった。
ギャルが好きだったのは、琢磨の友達の方だった。
目が合うたびにキャーキャー言ってたのは、琢磨の友達に対してだった。
隣にいたから、目が合ったと勘違いしただけだ。
噂も同じ勘違いから生まれたものだった。
思い上がりと恥ずかしさで人を殺した琢磨は、高校2年生になっていた。
高校2年、進学のこと就職のことも本格的に考え始めるこの時期に、琢磨も将来のことを考えた。
考えれば考えるほど、未歌のことばかり考える。
琢磨は、未歌の未来を消した。
未歌がいれば、一緒にどこの大学行こうかとか悩んでたかな、とか。
未歌がいれば、大学出たあとは、もしかして、結婚してたかな、とか。
いろいろ考えるうちに、未歌を殺した俺が生きてていいのか、という思いにいたった。
未歌を殺しておいて、俺は誰かと結婚したりするんだろうか……?
そんなこと、許されない。
未歌は俺のことが好きだったのに……それを断っておいて幸せに暮らす、なんとことはできない。
俺も、死のう……
死んで詫びよう……
未歌は、こっち来るな、って言うかもしれない。
そもそも詫びを聞いてくれないかもしれない。
でも、このまま生きているよりはいい。
このまま、のうのうと生きているよりはずっといい。
未歌が聞いてくれなかったら、人殺しの悪魔として、地獄で永遠の罰を受けよう……
未歌と同じように、飛び降りて死のう……
という、立派な理由があって琢磨は死のうとしていたわけだが、このことを馬鹿正直に天堂永瑠に話しても止められるだけだろう。
黙っておくか。
と思って黙っていたら、なにか人に話せない悲しい理由があるんだ……、と察した天堂永瑠は泣きだした。
しばらく無言で見つめ合ったあと、琢磨は突然抱きしめられた。
「辛いことがあるなら話聞くからね……話す気になったら話してね……」
と泣きながら耳元で言われた。
天堂永瑠のさらさらの髪は、とてもいい匂いがした。
突然、美少女に抱きしめられて、琢磨は固まってしまった。
「もう絶対こんなことしないで! わかった!?」
ぐずぐずと鼻水を出した声で天堂永瑠が言う。
琢磨は死ぬのを止める気はなかった。
だから、わかった、とは言えずに黙っていた。
「わかった!? 約束して!」
天堂永瑠は顔をあげ、琢磨の肩をガッチリ掴んで、真剣な顔でじっと目を見る。
大きくて丸い、パッチリとしたきれいな眼は、泣いて赤くなっていた。
天使と呼ばれる美少女の顔が、キスでもできそうなくらい目の前にある。
こんなに女の子と近付いたのは、いつ以来だろう。
と、ふと考えたとき、未歌の顔がよぎった。
そうだ、未歌が死んだあの日だ。
未歌が告白して、俺が嘘をついて殺したあの日だ。
夕陽に照らされたきれいな顔と、俺の言葉にびっくりした未歌の顔が思い浮かぶ。
未歌――
琢磨は、未歌を殺しておいて他の女の子にドキドキしたことを恥じた。
(やっぱり死ななきゃ……)
そして琢磨は、その場しのぎに、うんうん、と頷いた。
また嘘をついた。
それにしても、なんで天堂永瑠がこんなところにいたんだろうか?
琢磨は不思議に思った。
ここは、理科室や音楽室などの特別教室が集まるエリアの奥の奥。
空き教室しかない、どん詰まりの屋上で、誰も来ることなんかないのに。
次の日――
琢磨は、理科準備室にいた。
未歌と同じで飛び降りて死のうと思っていたが、昨日止められてしまったため、違う手段で死ぬことにした。
死ねる薬品があれば、それで死ぬことにした。
もしかしたら、「熱心に理科の自習をしようとして事故死した」、ということで軽く片付くかもしれない。
――普段から真面目にやってないのにそれはないか……と、琢磨は自分を笑った。
理科準備室は薄暗く、あまり開けられることもないため、空気も淀んでいる。
それに加え、今では使われなくなった人体模型や動物の標本が不気味さを増している。
薬品は戸棚に整然と並べられていて、なんの薬物なのかわかるようにしっかりラベルも貼られている。
しかし、誤算があった。
どの薬品が死ねるのか、琢磨にはわからない……
まさか真面目に授業を受けていなかった弊害がこんなところに出るとは……琢磨はため息をついた。
「まあ、そもそも死ねる薬品の授業なんてないか……」
琢磨は、自分を嘲るように鼻で笑った。
琢磨にわかるのは塩酸くらいだった。
塩酸――皮膚を溶かすくらい強い酸だというのは琢磨にもわかる。
塩酸を頭からかぶれば死ねるだろうか?
そう思いつつ、塩酸の容器を手に取る。
容器のラベルには「1L」と書かれているが、実際に中に入っているのは、半分より少し多いくらいだ。
こんな量をかぶったところで、たかが知れている。
皮膚が溶けて、火傷はするだろうが、死にはしないだろう。
それでは飲んだらどうだろうか。
琢磨はフタを開けてみた。
「うえっ!」
開けた途端、強烈な刺激臭がして、思わず顔を背けた。
思わず顔を背けたその先には、天堂永瑠がいた。
廊下を歩いている天堂永瑠と、教室の入り口の扉にはめられているガラス越しに、バッタリ目が合ってしまった。
「あああああ!!!!」
天堂永瑠がこちらを指さして叫んでいる。
また見つかってしまった。
「な、なにしてんの!?」
言いながら天堂永瑠がやってくる。
「まさか!? また死のうとしてんの!?」
琢磨の手から塩酸の容器を奪い取る。
「昨日、もうしないって約束したじゃん……」
「い、いや、これは、違くて……」
琢磨が弁明しようとする前に、天堂永瑠は泣きだしてしまった。
「なんで嘘ついたの……悩みがあるなら言ってって言ったじゃん……」
天使と呼ばれる美少女の叫び声と泣き声を聞きつけ、なんだなんだと人が集まってきてしまった。
(え、なんで『天使ちゃん』泣いてんの!?)
(なんか、約束破ったとか嘘ついたとか言ってたけど……)
(え、まさか浮気!?)
なんだかあらぬ噂が立ちそうな雰囲気だ。
今日のところはもう、琢磨は死ぬどころではなくなってしまった。
次の日――
学校に行くと、やはり昨日のことが噂になってしまっていた。
琢磨が教室に入るなりざわついた。
琢磨は自分の席に座ると、チラッと右斜め後ろの天堂永瑠の方を見た。
特に気にしている様子はない。
人に騒がれるのは慣れているのだろうか。
と、その時、琢磨が見ていることに気付いたのか、天堂永瑠もこちらも見た。
なんだか気まずくなって、琢磨が目を逸らすと、天堂永瑠はそのままこちらにやってきた。
天堂永瑠は、座っている琢磨の前に立つと、上から見下ろしながら言った。
「今日から進藤くんのこと、『監視』することにしたから」
「はっ? 監視?」
天堂永瑠は得意げな顔をしている。
「だって進藤くん、約束破るんだもん」
「今日からわたしがずっと見てるから、もうあんなことしないでね」
それだけ言うと、天堂永瑠は席に戻っていった。
教室のざわめきが大きくなる。
おい、どういうことだよ!? 付き合ってんのか!? 『天使ちゃん』って実は束縛系なの!? とか色々言われていたが、琢磨には聞こえてなかった。
(か、監視って……また俺の自殺を止める気なのか……? 未歌を殺した俺に、生きてる意味なんてないのに……)
琢磨の思考がぐるぐるする。
なんとか『監視』の目を掻い潜る方法を考えねば。
琢磨は考えた。
そうだ、トイレの中で死ぬのはどうだろう。
ずっと監視してるとは言っていたが、さすがにトイレの中にまでは入ってこられまい。
琢磨はそう考えた。
授業中。
現代社会の先生は寡黙な人で、別に怒られているわけではないのに、沈鬱な雰囲気に包まれている。
まるで一言でも発すれば殺されてしまうかのように、みんな押し黙っていた。
そんな重苦しい空気のなか、琢磨はおずおずと手を挙げた。
先生は板書をしていたため、しばらく気付かず、琢磨は重い空気のなか、しばらく手を挙げ続けるはめになった。
「ん? どうした進藤?」
やっと先生が気付いた。
「ちょっとお腹が……」
琢磨は立ち上がると、お腹をわざとらしくさすりながら言った。
「ああ、わかった。じゃあ……」
「はい先生! わたしが保健室に連れていきます!!」
先生の言葉を遮って、天堂永瑠が手を挙げながら勢いよく立ち上がった。
(はぁ!? ついてくる気か!?)
琢磨は振り返って、天堂永瑠を睨んだ。
天堂永瑠はニヤリと笑った。
琢磨は保健室のベッドに寝かされていた。
途中、トイレに行きたい、と言ったら「ダメ!」と言われてしまった。
「ほんとにトイレしたいんだったら中まで行ってドアの前で見張ってる」とまで言うので、負けてしまった。
そして琢磨は、特に意味も無く保健室のベッドに寝かされているというわけだ。
午後の時間帯。
みんなが授業を受けているときに、ベッドで寝ていると、なんだか不思議な気持ちになる。
天堂永瑠は、ベッド脇の椅子に座っていた。
窓からカーテン越しに差し込むやわらかい光に包まれ逆光ぎみの天堂永瑠の横顔は、どこか愁いを帯びた顔をしていて、目を離したら消えてしまいそうで、そしてとてもきれいだった。
こういうのを見て『天使』とか言われてんだな、と琢磨は思った。
「教室、戻んないのか……?」
沈黙に耐えられなくなってきた琢磨が聞いた。
「わたしが帰ったらまた死のうのするでしょ」
天堂永瑠が琢磨の方も見ないまま言った。
確かにそのとおりだった。
ここには使えそうなものがいっぱいある。
またしばらくの沈黙。
そして今度は、天堂永瑠の方から琢磨に聞いた。
「ねぇ、進藤くんはさ……『悪魔の塔』って……知ってる……?」
琢磨はその言葉に、突然胸を突き刺されたかのような衝撃を受けた。
天堂永瑠が、なんで『悪魔の塔』を知ってる……?
――いや、知っていてもおかしくはないか……。
あそこは名前だけは有名だし、ニュースにもなっていた。
しかし、なんでそんな質問をしてくる……?
「あそこで、昔、死んじゃった女の子がいたんだって」
その話を、俺にするのか……
天堂永瑠は無言の琢磨に関わらず、話を続ける。
「その子はね、好きな人にフラれて、自殺しちゃったんだって……」
やめてくれ……その話は……
琢磨は錯乱しそうになりながら聞いていた。
「進藤くんはさぁ……好きな人とか、いる?」
天堂永瑠の質問に、琢磨は「知らねぇよ」と言って、寝返りを打って背を向けた。
なんで……なんで俺にその話をする……? どうして……? やめてくれ……その話は……なんで? なんで俺にその話を……? なんで……? どうして……?
琢磨は、動揺して混乱して動転して錯乱しそうになっていた。
次の日――
琢磨は、体育館にいた。
昨日、天堂永瑠はどうしてあんな話をしてきたんだろう?
目的がわからずずっと考えていた琢磨は、なんだか責められているような気持ちになっていた。
昨日は結局、天堂永瑠に止められてしまったが、そもそも天堂永瑠がいなければ止められることもない。
そう思って今日は早朝に学校にやってきた。
早朝。午前6時。
7時からは部活の朝練が始まってしまう。
かといって5時とかに来ても誰もいないので、学校の鍵がしまっている。
というわけで体育館を自由に使えるのはこの時間だろう、と琢磨は考えた。
案の定、体育館には誰もいない。
校舎に先生たちはいるが、忙しそうにしていて体育館に来そうな気配はない。
やはり今がチャンスだ。
体育館には、琢磨が以前から目を付けていた物があった。
体育館を中央で仕切るためのネットだ。
体育の授業のとき、男子と女子を分けたり、ボールが飛んでいかないようにするために使う巨大なネットだ。
あれは使えそうだなぁ、と前からぼんやり思っていた。
巨大なネットは一束にまとめられ、体育館の端へと寄せられている。
ギャラリーに上がれば容易に届く。
琢磨はギャラリーに上がり、ネットを手繰り寄せ、眺めてみる。
うーん、どう使おうか……
ネットの目は、5cm四方ほどで、頭は通りそうにない。
やはり首に巻き付けるしかないか。
何度か試行錯誤してみると、なんとか首を吊れそうな形が見つかった。
ネットを使えば、もしかしたら事故死で片付くかと思っていたが、この形では少々、不自然だ。
でも、仕方ない。あまり悩んでいると朝練の時間になってしまう。
琢磨は、ネットを首に巻き付けたまま、ギャラリーのフェンスの上に立った。
できれば未歌と同じ死に方をしたかった。
同じ苦しみを味わいたかった。
でもここから飛び降りても、ケガはしても死にはしないだろう。
首の締まる苦しみで、どうか許してほしい。
琢磨は、一度体育館を見渡した。
誰も来ていないのを確認すると、ついに飛び降りた。
ネットはしっかり首に食い込み、琢磨の首を絞めつける。
苦しい、息ができない……絞めつけられることによって顔の血がパンパンになり、はち切れそうになる。
苦しくて、もがくほど、自分の体重によって締めつけはどんどん強くなり、琢磨の視界は次第に薄れてゆく――
だんだんと、意識も薄れ、苦しみの感覚もなくなり――
ドサッ、と地面に落ちた。
琢磨には、落ちた感覚があった。
落ちた感覚で、意識が戻った。
朦朧としながら、体を起こす。
どうなった? もう死んだのか?
あたりを見回すと、そこはどう見ても体育館だった。
「はっーはっはっはっ!! 甘いな進藤くん!!」
琢磨が、声のする方を見ると、そこにはあいつがいた。
「な!? 天堂永瑠!?」
天堂永瑠が、ギャラリーでドヤ顔で仁王立ちしていた。
窓から差し込む朝日を背にして立つその姿は、とても眩しく、神々しい。
ネットは天堂永瑠の手によって下ろされ、琢磨はそのネットの中に埋もれていた。
「朝ならわたしは来ないと思ったんでしょう! 甘い、甘いよ進藤くん! しっかりと学校に向かっていくところ、見てたよ!!」
「そ、そんな馬鹿な!?」
朝、学校に来るとき、琢磨はしっかり天堂永瑠のことを警戒していた。
常に四方八方をキョロキョロして、学校にも正門からではなく裏から入り、体育館へ直接来た。
琢磨は、犬の散歩をしているおじさん以外、誰も見かけなかった。
どこで見てたんだ? と考えるが、怪しいところは1つもない。
「でもこんな時間だと、わたしも大変なんだからね……? もうやめてね……?」
天堂永瑠は、ふわぁ~、と大きなあくびをした。
「さ、朝練の人たちの邪魔になっちゃうから、もう行こ?」
琢磨はネットを片付けさせられ、教室へと手を引かれていった。
次の日――
琢磨は、自室にいた。
学校が終わった放課後。
琢磨は、そそくさと家に帰ってきていた。
今日は学校でも大人しくしていた。
天堂永瑠は常につきまとっていて、トイレに行くにも男子トイレの前で待っていたし、ジュースを買いに行くのにもついてきて、1本奢らされた。
でも特になにもしなかった。
もう学校で死ぬのは諦めた。
天堂永瑠は常についてくるし、理科室のことで噂になってから、誰かの注目を集めてしまうようになったので、学校で死ぬのはもう無理だ。
だから家で死ぬことにした。
本当は、親を驚かせてしまうから家では死にたくなかったが、もはや仕方ない。
できるだけ、ショッキングじゃない方法にしようと思って、睡眠薬を入手した。
どれくらい飲めば死ぬのか、琢磨にはわからなかったので、とりあえず1ビン飲み干すことにした。
できるだけ、ショッキングじゃない死にざまにするため、ベッドに横たわって飲むことにした。
一見すれば寝ているだけに見えるだろう。
琢磨は、ベッドに入り、薬を水で流しこむ。
全部飲むのは途方もない量だ。
そのうえ、苦い。
琢磨は、涙目になりながら飲んだ。
苦さと水の飲みすぎで、半分を過ぎたところで吐きそうになった。
なんとか押し戻し、時間をかけつつも、なんとか全部飲み切った。
全部終わったころには、涙と鼻水と口からこぼれた水で、顔がべしょべしょになっていた。
顔を拭いて、ベッドに横たわる。
吐きそうになるのを堪えていると、徐々に深い眠りへと落ちていった――
そして、目が覚めた。
琢磨は、一瞬理解できなかったが、目が覚めてしまった。
どう見ても、そこは天国ではなく、見知った天井が目の前にあった。
自分の部屋だ。
おかしい。あんなに苦労して飲んだのに。
1ビンでは量が足りなかったのだろうか?
琢磨が、疑問符を浮かべながら体を起こすと、そこには驚くべき光景が広がっていて、琢磨は固まってしまった。
天堂永瑠が寝ている……。
天堂永瑠が、自分の部屋で寝ている――
もちろん琢磨と同じベッドではなく、寝ているのは床の上でだ。
ベッドのなかで隣に寝ていたら、琢磨は飛び上がっていただろう。
全く状況が飲み込めず、琢磨が固まっていると、天堂永瑠も目を覚ました。
「あ……おはよう……」
天堂永瑠は体を起こし、眠たげに目をこすっている。
「な……!? お前、なんで……!?」
琢磨は混乱して、うまく言葉が出なかった。
「なんでって、お隣さんだからだよ!」
全く答えになっていない。琢磨の頭は混乱するばかりだ。
「また俺の自殺を邪魔しにきたのか……?」
「えっ? 自殺?」
天堂永瑠は首を傾げる。
「違うよー! お隣さんだから遊びにきたんでしょ! さっきまで一緒に遊んでたじゃん!」
ほら! と言わんばかりに天堂永瑠が指をさす。
そこには確かに遊びかけと思われるゲームが置いてあった。
琢磨には全く意味がわからなかった。
よく見ると、さっきあんなに苦しんで飲んだ薬のビンも、水を入れていたコップも、べしょべしょになった顔を拭いたティッシュも、すべて跡形もなく消え去っている……
そもそもお隣さんという言葉も意味がわからなかった。
隣は未歌の家だし、近所に同年代の子はいないはず……
「なあ、お隣さんってどういう……」
琢磨は寝起きで朦朧として混乱している頭で聞いた。
「どういうもなにもそのままの意味だよ。隣に住んでるからお隣さんでしょ? 去年引っ越してきたじゃん!」
「まあ確かに今まで接点はなかったけどさ! せっかく仲良くなったんだからと思って遊びに来たんじゃん! 『監視』もしなきゃいけないし!」
そうだったか? 琢磨は自分の記憶を呼び起こしてみるが、隣にいた記憶はない。
天堂永瑠は、なんだか楽しそうに体を揺らしながら、屈託のない顔で笑っている。
琢磨は、なんだか自分の記憶に自信がなくなってきていた。
薬を飲んだせいかもしれない……。
そうだ、薬のビンは天堂永瑠が片付けたんだろうか?
そのことを聞こうとすると――
ご飯だよー、と母親が呼ぶ声がした。
「あ、ご飯だって! わたしもお呼ばれしてるんだ! はやく行こ!」
琢磨はよくわからないまま、天堂永瑠に手を引かれて、下へと降りていった。
次の日――
よくわからないが昨日も結局、天堂永瑠に阻止される形になってしまった。
自室でもダメとなると、あとはどこだろう。
琢磨は、考えた。
家で1人になれるところ……風呂か!
琢磨は、風呂で死ぬことにした。
睡眠薬という生ぬるい手段では確実には死ねないことがわかったので、手首を切ることにした。
親には迷惑をかけてしまうが……風呂なら多少なりとも処理が楽だろう。
幸い、琢磨が風呂に入る順番は最後だ。
長く入っていてもそんなに怪しまれない。
琢磨は、カッターをポケットに入れ、家族にバレないように脱衣所に持ち込んだ。
今日は天堂永瑠は来ていない。
ここに来る前に家中覗いたがどこにもいない。
今日こそ死ねるだろう。
琢磨は、風呂に入る前に両親の姿を見た。
おそらく、見納めになるだろう。
心の中で、さようなら、を言って、風呂に入った。
とりあえず、体は洗った。
禊という奴だ。
未歌に会いに天国に行くんだからやっておいた方がいいかな、と思った。
でも、人殺しの悪魔だし、地獄行きかな? と琢磨は悲しげに笑った。
琢磨は、湯船に入ってから手首を切ることにした。
その方が血の巡りがよくて、すぐに死ねそうな気がしたからだ。
琢磨は、湯船に浸かり、血が巡るまでゆったりとお湯を堪能した。
そしていろいろ、考えた。
未歌は会ってくれるだろうか? いや殺した奴に会おうとは思わないだろうなとか、でも会えたらなんて言おう? とか、人殺しは何地獄に行くんだっけ? とかいろいろ考えた。
いろいろ考えて、のぼせたころ、琢磨はカッターを手に取った。
ついに死ねる……
琢磨はカッターの刃を手首に当て、大きく息をつくと、思いっきり掻き切った。
最初は失敗した。
やはり自分の体を傷つけることに無意識の恐怖心があり、うまくいかなかった。
2回目からは痛くてうまくいかなかった。
しかし、ここまで来て止められない。
未歌はもっと痛くて、怖かっただろう。
痛みで泣きながら、何度か切りつけ、ようやくうまくいった。
これで死ねる。
やはり血の巡りをよくしたせいか、気が遠くなるのが早い。
未歌――
琢磨は未歌のことを思いながら、湯船に沈んでいった。
ドン! ドン! ドン! という音で、気が付いた。
あれ!?
琢磨は心の底から驚いた。
死んでない!?
普通だ。普通に湯船に浸かっている。
洗い場の床にも、湯船のなかにも、全く血がない。
そんな馬鹿な!? と思って腕を見ると、あんなに付けた切り傷が、きれいさっぱりなくなっている。
あの痛みは、絶対に夢ではなかった。
ドン! ドン! ドン! と浴室のドアが叩かれる。
「おーい! 進藤くーん! 生きてますかー!?」
琢磨は驚いた。
まただ、また天堂永瑠だ!
さっきまでいなかったのに、なぜいる!? 琢磨は風呂に入る前に確認したことを思い出した。
どこにもいなかったはずだ。
昨日といい、今日といい、おかしい。
死んだはずなのに死んでなくて、そして天堂永瑠がいる。
天堂永瑠が生き返らせているのか……?
いや、そんなわけない。いくら才色兼備の美少女だからってそんなことまでできてたまるか。
琢磨が、考え込んでいると、またドン! ドン! ドン! とドアが叩かれる。
「おーい! 返事しないならぁ……開けちゃうよぉ……」
と遠慮がちに言いながら、天堂永瑠が静かにドアを開けた。
そして中を覗き込む目と、琢磨の目が合った。
「キャー!」と言って、浴室のドアはピシャリと閉められた。
「もー! 生きてるなら返事してよー……み、見ちゃったじゃん……」
ドアの前で天堂永瑠が向こうを向いて恥ずかしそうに言っている。
「なんでいるの?」
琢磨は、特に気にする様子もなく聞いた。
「なんでって……一緒にご飯食べてたじゃん」
はぁ!?
いよいよもっておかしくなってきた。
琢磨はのぼせて、めまいがした。
次の日――
琢磨は、教室の自分の席に突っ伏して、悩んでいた。
どこで死のうとも天堂永瑠が来て死ねない……どうしたらいいんだ……?
天堂永瑠のせいで死ねないなら、天堂永瑠が来ない場所に行くしかない。
誰も来ない場所となると、あそこしかない……。
明日は休みだ。朝からあそこに行こう。
琢磨が、そう覚悟を決めたとき、天堂永瑠が話しかけてきた。
「進藤くん、明日って空いてる?」
次の日――
琢磨は、ショッピングモールにいた。
天堂永瑠と一緒に。
昨日琢磨は、「明日って空いてる?」という質問に対し「予定がある」と返したのだが、「死ぬの以外で」と一蹴されてしまった。
琢磨は、無視して死にに行こうかとも思ったが、なんと天堂永瑠は次の日休みだからという理由で琢磨の家に泊まり込んだ。
「こういうの久しぶりだねぇ」と琢磨の両親もそれを喜んでいた。
天堂永瑠は常に隣にいたし、夜寝るときも、以前琢磨の部屋に来た時と同じように、琢磨のベッドの横の床で一緒に寝た。
「未歌ちゃんがいたときみたい」と両親はまた喜んでいた。
というわけで、琢磨には抜け出す隙はなかった。
そして、天堂永瑠に手を引かれるまま、ショッピングモールへと来てしまっていた。
ここは巨大な複合商業施設で、ショッピングモールだけでなく、ゲームセンターや映画館はもちろんのこと、遊園地や水族館まである、ちょっとした観光地となっている場所だった。
「なにしに来たんだ?」
なんだか妙にはしゃいでいる天堂永瑠に琢磨が聞いた。
「え~? デート、だよっ!」
天堂永瑠はうれしそうに笑う。
「はっ……?」
琢磨の表情が曇った。
天使と呼ばれる美少女とのデートだなんて、一般男子高校生ならば、もう死んでもいいというくらいのイベントだろう。
しかし琢磨は、そんな浮ついた気持ちになれなかった。
琢磨は、幼馴染を殺した男だ。
好きだった幼馴染の女の子の告白を断って、殺した男だ。
ずっとそのことで悩んできて、死のうとしている男だ。
そんな男が、未歌ともしたことのないデートを他の女の子とすることになったって、喜べるわけがなかった。
そんな琢磨の気持ちを、知ってか知らずか、天堂永瑠は、
「なーんてね、これも『監視』だよ『監視』!」
と、いたずらっぽく笑った。
まず、服を見に行くことになった。
天堂永瑠は制服のままだった。
今日の朝、琢磨が目を覚ますと、天堂永瑠は制服のまま寝ていた。
あれ、服は? と琢磨が聞くと、「学校からそのまま来たから忘れちゃった」と言って、えへへと笑っていた。
だから服を見に行くことにした。
天堂永瑠はうれしそうにあれやこれや選んで、合わせてみて、琢磨に「どーお?」と聞く。
どう? もなにも全部かわいい。
もとからかわいいのだ、似合わない、ということがない。
正直、全部似合っているので、琢磨から出る感想は、「かわいい」か「似合ってる」しかない。
そのうち、業を煮やして「もう! ちゃんと選んで!」と怒られたので、琢磨は自分の好みで選んだ。
俺ってセンスあるかもしれないと思うほど、かわいいのを選んだ。
これほどかわいい組み合わせができる男が他にいるだろうか? いやいない。
と、自意識過剰になるほどかわいいのを選んだ。
しかし、せっかく琢磨がかわいい服を選んだのに、天堂永瑠は着なかった。
試着室もあるんだから着替えればいいのに、制服のままだった。
もしかして、気に入らなかったのだろうか?
でも明らかに「めっちゃかわいい!」と喜んでいたのに……
琢磨は気になって、「着替えないの?」と聞いてみたが、「う、うん。あとで着替えるから……」となんとも歯切れの悪い返事だった。
服を見たあとは、ゲームセンターで天堂永瑠が欲しがったぬいぐるみを取るために頑張ったり、フードコートでお昼を食べたりして過ごした。
そして午後は、水族館に行くことにした。
休日の水族館は混んでいて、親子連れとカップルでごった返していた。
琢磨は、混雑している薄暗い館内で天堂永瑠と離ればなれになりそうだったので、手を握って歩いた。
琢磨は、水族館に来たのは久しぶりだった。
水槽のなかにはたくさんの生命がいた。
こんなにたくさんの人を見てもなんとも思わなかったのに、水槽のなかの魚を見て、「生命がたくさんいる」と琢磨は思った。
こんなに小さい魚の方が『生命』だと思うのはどうしてだろう?
すぐに殺せそうだから?
寿命が短いから?
生殺与奪を人間に握られているからだろうか?
琢磨は、自分の命は早く無くなればいいと思っているのに、この小さな魚たちは愛おしく思えた。
天堂永瑠は子供のようにはしゃいでいた。
その顔はとても楽しそうで、水槽の照明に照らされて、より一層きれいに見えた。
そんな天堂永瑠が、一瞬、作り物のように見えた。
もとから存在しない、幻影。
この水槽のなかの人工の海がそう思わせるのだろうか。
それとも、天堂永瑠の人間離れした容姿と、消えてしまいそうな儚さがそう思わせるのだろうか。
ともかく琢磨は、天堂永瑠が存在しないように感じたとき『怖かった』。
「無くしたくない」と思った。
小さな魚たちと同じように、愛おしく思った。
進藤琢磨には、天堂永瑠を大事に思う気持ちが、少し芽生えていた。
水族館には、レストランが併設されている。
水族館の水槽を見ながら食事のできるレストランで、「夕食にはちょっと早いけど食べていこ」って天堂永瑠が言うので食べていくことにした。
店内はカップルでいっぱいだった。
琢磨たちも当然のようにカップル用の2人席に通される。
琢磨たちは、魚料理を注文した。
当然のように魚料理しかなかった。
運ばれてきたお皿には、先ほどまで見ていた魚たちが、無残にも丸ごと揚げられて乗せられていた。
琢磨は、水槽を横目に見ながら、無残な姿になった魚たちを眺める。
あんなに愛おしく思った魚たちが、揚げられている……
この魚たちは、今から死のうとしている男のために殺されたのだと思うと、急に虚しくなった。
琢磨は、魚たちを見つめながら、ため息をついた。
(俺が揚げられればよかったのに……)
(俺が揚げられて、永瑠やこの店のカップルに食べられた方がまだ有意義だった……)
(こいつらはこれから死ぬ男のために死んで、その男の血と肉となる……生命の無駄だ……)
琢磨は、またため息をついた。
そんな琢磨の胸中を察してか、天堂永瑠がおずおずと話し出す。
「あのね、た……琢磨くん!」
「琢磨くん、よく死のうとするでしょ? あれって……どうして?」
琢磨は、魚たちから目をあげ、天堂永瑠を見た。
「あ、いや、そろそろ、話してくれるかなぁ……って。ごめん! 言いたく、ないよね……」
確かに琢磨は、話したくなかった。思い出すのも辛い。
でも、天堂永瑠になら、死ぬ前に話しておいてもいいかな、という気持ちになっていた。
琢磨は、話した。
死にたい理由。
自分が好きだった幼馴染を殺したこと。
自分が生きている価値のない人殺しだということ。
幼馴染に会って謝りたいこと。
思っていること、全部話した。
天堂永瑠は黙って聞いていた。
そして全部聞き終わると、小さく「そっか」とつぶやくと、自分も話し始めた。
「わたしもね、昔、死のうと思ったこと、あるんだ……」
天堂永瑠は悲しそうに、俯きがちに話している。
「昔ね、わたし、好きな人にフラれたことがあって……そのとき勢いで『死んでやる!』って思ったんだ……」
永瑠にもそんなことがあったのかと、琢磨は驚いた。
この美少女の永瑠をフッた奴がいたことにも驚いたし、あの明るい性格で人気者の永瑠でもそう思うのかと驚いた。
「それで、最初に琢磨くんと会った時みたいに、飛び降りようと思ったんだけど、やっぱり最期に思い出すのは好きな人のことで、『死んだらもう会えないなぁ』とか思い出を走馬灯で見たりしたら、やっぱり死ぬのが怖くなって、思いとどまったことがあるんだ……」
そうか、だからあのとき、止めたのか。なんとなく気持ちが分かるから……。と琢磨は思っていた。
「だから、だからね? 琢磨くんが死のうとしてる気持ち……わかるんだ……でも、わたしみたいに止める理由があればきっと死にたいと思わなくなると思うの……」
天堂永瑠は、なんだかソワソワしていた。
「えっと……つまり、なにが言いたいかと言うと……」
天堂永瑠は、深呼吸をして気合を入れると、顔をあげ、真剣な眼差しで、勇気を出してついに言った。
「付き合ってください」
最悪の言葉だった。
琢磨は、この言葉に、胸を撃たれたような衝撃を受けた。
胸を撃ったのは、トキメキではなくトラウマ。
その言葉は、琢磨にとって最悪の呪いの言葉だった。
自分の犯した最悪の罪。
あの日の記憶が突如蘇る。
『悪魔の塔』の屋上。
未歌の夕陽に照らされたきれいな顔。
そして、あの言葉。
自分の過ち。
未歌の驚いた顔が脳裏に焼き付く。
あの日の記憶が一気にフラッシュバックする。
そして、その後の記憶も蘇る。
葬式で見た、血の気の引いた未歌の顔。
傷だらけの体。
いろんな記憶が蘇り、琢磨を責め、罵る。
琢磨は、自分を許せなくなった。
天堂永瑠といて、楽しいと思った自分を恥じた。
大事にしたい、と思った自分を憎んだ。
好きだ、と思った自分を殺してやると思った。
琢磨は、自責の念に潰されそうになっていた。
目を見開いて、過呼吸になっていた
琢磨はもはや気が狂いそうになっていた。
心配した天堂永瑠が触ろうとすると、半狂乱になってレストランを飛び出した。
琢磨は、『悪魔の塔』にいた。
未歌が死んだあの場所。
最大の過ちを犯した、あの場所にいた。
『悪魔の塔』は昔のままだった。
なにも変わらず、そこにあった。
「無線中継所」と書かれた看板も、どう見ても西洋のお城にある塔にしか見えない苔むしたその外観も、琢磨と未歌が以前持ち込んで辺りに散らかったものも、全部そのままだった。
琢磨は、あのとき座っていた、まさにその場所に立っていた。
おそらく、未歌が飛び降りたであろう場所。
琢磨は、下を見なかった。
見れなかった。
まだ下に、未歌がいるような気がして、怖くて見れなかった。
未歌と同じ場所で、未歌と同じように死のうとしていた。
(未歌、もう会いたいなんて言わない。もう許してもらおうなんて自分勝手なことは言わない。俺は地獄で人殺しとして永遠に罰を受けるよ。永遠に謝り続けるよ……)
琢磨は、泣いていた。
(未歌、俺は本当に馬鹿だった。本当にごめんなさい……)
未歌もこの景色を見ただろうか……と考えながら、足を1歩踏み出そうとした。
その時――
「ダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
女の子が叫びながら走ってきた。
天堂永瑠だ。
琢磨は、泣きながら叫んだ。
「またお前か! また俺の邪魔をするのか! もう俺に構うのはやめてくれ……たのむ……」
琢磨は、泣いてしまって、最後まで言えなかった。
天堂永瑠は、きっぱりと首を横に振る。
「ううん。止めないよ。だって死んでほしくないもん」
天堂永瑠は毅然とした態度で、琢磨に近付いていく。
「やめろよ! くるな! なんでそんなにとめようとするんだ!」
琢磨が泣き叫ぶ。
「それはね、琢磨くん。わたしが琢磨くんのこと、す……」
天堂永瑠が言い終わる前に、琢磨は飛び降りた。
「あああああ!!!!」
天堂永瑠は、急いで下を覗き込んだ。
琢磨は、もう手の届かないところまで落ちていた。
「くっ! 間に合ええええ!」
天堂永瑠も飛び降りた。
そのころ、琢磨は走馬灯を見ていた。
生まれてから未歌と過ごした半生。
未歌を殺した日のこと。
天堂永瑠にたくさん邪魔されたこと。
そういえば、天堂永瑠はどうやってこの場所がわかったんだろう?
やはり一番思い出されるのは、あの日の未歌が驚いた顔だった。
ほんとうに、ほんとうにごめん……
琢磨の涙が空中へ散りゆく。
もうすぐ地面だ……と思ったとき。
琢磨の体は誰かに抱きしめられた。
やわらかくてやさしくて、あたたかかった。
琢磨の体は抱きしめられたまま、天へと昇ってゆく。
そうか、もうお迎えが来たのか……と琢磨が思ったとき。
ドサッ、と地面に投げ出された。
辺りを見回すと、そこはさっきまでいた『悪魔の塔』の屋上だった。
そして、琢磨は見た。
大きな白い翼。
頭の上で光り輝く輪。
「天使だ……」
美しくも神々しい、天使が舞い降りるところを。
大きく広げられた白い翼は、夕陽に照らされ、金色に輝いていた。
琢磨はすべてを忘れて見入っていた。
まるで宗教画のような美しさだった。
この情景をそのまま絵にすることができたら、歴史に名を残せるかもしれない。
そこまで思わせるほどの美しさだった。
その天使は、学校の制服を着ていて、先ほどまで琢磨が立っていた場所につま先から舞い降りた。
放心状態だった琢磨は、やっと顔が認識できるようになって、驚いた。
「永瑠……!?」
その天使は天堂永瑠の姿をしていた。
「あーあ、バレちゃった……」
天堂永瑠は悲しげに笑った。
「な……羽……? どう……え……?」
琢磨は目を白黒させ、驚きで声が出ない。
「そう、わたし、天使なの……」
天堂永瑠が自分の白い翼を撫でながら言う。
琢磨には意味がわからなかった。
天堂永瑠が天使? なに言ってるんだ? どういうことだ? 天使って天使か? 天使ってなんだよ?
「ごめんね黙ってて。しかもわたし、『天堂永瑠』じゃないの……」
「は……?」
天堂永瑠がまた意味のわからないことを言う。
そして、混乱する琢磨の目の前で、天堂永瑠の姿が光に包まれ、みるみる変わっていく。
細い体に長い黒髪。
中学校の制服を着た、琢磨のよく知る姿になった。
「未……歌……?」
未歌だった。
誰がどう見ても、未歌だった。
細い体に長い黒髪の、未歌だった。
琢磨の幼馴染の、市ノ瀬未歌に間違いなかった。
天堂永瑠が、市ノ瀬未歌になった……
琢磨には、もう本当に意味がわからなかった。
「私ね! 天使になったの!」
未歌がドヤ顔で翼を広げる。
「いや、いやいやいや! 意味がわからんて! なんでいるんだよ!?」
「まあまあ、説明してあげるよ。座って座って」
琢磨は促されるまま、塔の縁に町を見下ろすように腰かけた。
未歌もその隣に座った。
あのときと同じ場所に座った。
そしてあのときと同じように話しをした。
「私ね、自殺じゃないの」
「え!?」
琢磨はびっくりして未歌を見た。
「ほんとはあの後、『死んでやる!』って思ったんだけど、思いとどまったの」
「さ、さっきも話したでしょ! レストランで!」
未歌はちょっと恥ずかしそうにしている。
琢磨はさっきのレストランでの会話を思い出した。
そうか、あれは天堂永瑠のことではなく、未歌自身のことだったのか。
「で、でも、確かに死体は見て……」
琢磨は葬式で見た未歌の顔を思い出した。
血の気がなく明らかに死んでいた。
「あ、死んだのはほんとだよ?」
「自殺じゃなくて、事故なの」
「は? 事故?」
警察の検分では、明らかに自殺だろうということになっていた。
「飛び降りるのはやめたんだけど、足がすくんじゃって……」
「戻ろうと思ったけどうまく動けなくて……バランス崩して落ちちゃった」
えへへ、と未歌が笑う。
「笑いごとじゃねぇよ!」
琢磨がツッコむ。
あはは、とまた未歌が笑う。
「でも、琢磨、自分のせいだと思ってたんだねぇ」
「それで私に謝ろうとしてくれてたんだ……さっきのレストランで初めて知ったよ」
未歌はちょっとうれしそうだった。
「俺、告白断っちゃったから……そのせいでお前が死んだんだと思って……ずっと、謝んなきゃって……」
琢磨は泣きそうになっている。
未歌は、うんうん、と聞いている。
「確かに断られたのは悲しかったしショックだったけど、思い直したんだから! 琢磨のせいじゃないよ!」
「で、でも、そもそもそこに立たせたのは俺のせいだし……」
「そもそもで言ったらこんなとこに連れてきたのは私でしょ? 私は琢磨のせいだとは思ってないよぉ?」
未歌は琢磨の頭をやさしく撫でる。
「うう……」
琢磨は泣きだした。
殺したのは琢磨ではなかった。
ずっと縛り付けられていた呪いが解かれ、溶けだした。
「そっかぁ……ずっと悩んでくれてたんだねぇ……そっかぁ……」
未歌はまさに、天使のように慈愛に満ちた表情で琢磨を撫でる。
それでもまだ、琢磨は自分を許しきれていなかった。
やはり断ったのは多かれ少なかれ遠因にはなったはずだ。
閻魔さまが見たら、「悪いのは琢磨だ!」って言うかもしれない。
でも、未歌本人が琢磨の罪を否定したのだ。
琢磨は幼馴染を殺した、人殺しの悪魔ではなかった。
悪魔だった琢磨の心は、天使になった未歌によって救われた。
「そ、そうだ! なんで天使の格好してんの!? やっぱり幽霊ってこと?」
琢磨は涙を拭いながら、さっきから気になっていたことを聞いた。
「うーん、ちょっと違うんだよなぁ……」
未歌は顎に指を当て、どこから説明したもんか、と考える。
「私、死んじゃったあと、どうしても戻ってきたくて、神さまに聞きに行ったんだ」
「神さま!?」
琢磨は、一般人でも神さまに会えんの!? と驚いた。
未歌は、こくり、とうなずく。
「上から見てたんだけどさ、結局全部勘違いだったでしょ? 琢磨があいつと付き合うとかなんとか……だから焦ってあんなことしたのに……ただの勘違いで琢磨、誰とも付き合ってないし、私は死んじゃうし……」
「だから悔しくてさ、なんかあいつのせいで死んだみたいだし……だから神さまに聞きに行ったの」
「そしたら、3つ方法があるって言われて」
未歌は指を3本突き出す。
「1つ目が、幽霊になって化けてでる」
「2つ目が、転生して、生まれ変わる」
「そして、3つ目が……」
「天使になる……?」
琢磨が変わりに言った。
「でも天使と幽霊とどう違うんだ?」
「全然違うよー!」
未歌が、しょうがないなぁ、という感じで説明する。
「幽霊はね、見える人にしか見えないの。しかも行動に制限がある。物には触れないし、人にも触れない。できることは恨むことくらいだけ」
未歌は、うらめしや~、というポーズをしている。
「神さまには『お前は未練があるし、これが一番簡単』って言われたんだけど、琢磨、幽霊見えないでしょ?」
確かに、琢磨は霊感がなかった。
だから悪魔が出るとか言われている『悪魔の塔』にも怖がらずに来た。
「でも転生すると、人間には戻れるけど、別人になっちゃうでしょ? 琢磨とは赤の他人になっちゃう……」
「だから天使になるしかなかったの。天使は神さまのお使いだから、ある程度自由が効くんだ。物にも触れるし人間にも触れる。なんならちょっとした奇跡も起こせる。琢磨が死にかけたとき、ちょっと使っちゃった……」
また未歌が、えへへ、と笑う。
そうか、明らかに死んだと思ったのに死んでなかったのは、天使の奇跡だったのか……
「でも、超大変だったー、天使になるの! 試練とか試験とかいっぱいあってさ!」
未歌は、身振り手振りで伝えようとする。
「考えてみれば当たり前だよね。神さまのお使いなんだもん。現世で言えば国家公務員みたいなもんだもんね。ほんとは私みたいなのがなるようなもんじゃないんだよ」
「私は人間につく守護天使コースだったからさぁ、『悪に対する実戦的総合訓練』とかあってさぁ。ほんとに悪魔と戦わせるんだもん。大変だったぁ」
「『人間と接する際のマナー講座』とかもあってさぁ、天使になるのに30年かかっちゃった……」
「30年!?」
琢磨が驚いた。
「あ、あっちでの30年だよ? あっちじゃ時間はあってないようなもんだから。こっちじゃ1年くらいかな?」
未歌が慌てて訂正する。
「でもそんなに頑張って、こっちでなにしたかったんだ?」
琢磨が無神経にも聞く。
「そりゃあ、もちろん……琢磨に……」
未歌は言うのが恥ずかしそうに口ごもる。
「え、俺?」
琢磨がまたも無神経に聞き返す。
未歌はしばらくごにょごにょ言ったあと、怒ったように言い返す。
「琢磨に! 会いたかったの!」
琢磨はまた驚いた。
てっきり嫌われてしまっていると思っていた。
絶対に怒っていると思っていた。
二度と許してくれないと思っていた。
そんな風に思ってくれていたとは思わなかった。
「そっか……俺も会いたかった」
琢磨の言葉に、未歌は恥ずかしそうに目を逸らす。
「でもじゃあ、なんで天堂永瑠の格好してたんだ?」
わざわざ天堂永瑠の格好しなくても、直接会いに来てくれればいいのに、と琢磨は思った。
「それは……私、守護天使の試験に合格して、神さまに『誰か守りたい人はいるか』って聞かれて、すぐに琢磨を選んだんだけど、いざ会うとなったら、告白、断られてるし、き、嫌われてるだろうなって思って……」
未歌は涙声になりながらしゃべった。
「それで……いざ、会うとなったら怖くなっちゃって……守護天使が私の姿じゃ嫌かなって思って……理想の美少女だったら、琢磨も嫌じゃないかなっておも、って……」
未歌の目から涙がこぼれた。
琢磨は自分ばかりが嫌われていると思っていたが、未歌にも同じような思いがあった。
「それで、『天堂永瑠』として、ずっとそばにいたんだけど……琢磨、急に自殺しようとしだして……私、どうしていいか、わかんなくて……何度か救えなくて、あんまり使っちゃいけない奇跡……使っちゃったし……」
「それでも、琢磨と話せるの、うれしくて……それで『天堂永瑠』としてでもいいから、つ、付き合えないかなって思って……それで、また告白したら、また、琢磨に、フラれて……追い詰め、ちゃって……」
未歌は堪えきれず、うわあああん、と泣きだした。
琢磨も泣き出した。
琢磨は未歌に嫌われていなかった。
それどころか、こんなに頑張って会いに来てくれたのに……こんなにも守ろうとしてくれていたのに……本当にごめん未歌――本当にごめん……
琢磨は未歌のことを強く抱きしめ、一緒に泣いた。
一緒にわんわん泣いた。
町まで聞こえそうなくらい大きな声で泣いた。
「これからは一生いっしょだから! 神さまの命令だからね! ずっといっしょにいるからね!」
未歌がわんわん泣きながら叫んだ。
琢磨も泣きながら、こくこく、うなずいた。
「私といっしょで嫌じゃない?」
「嫌じゃない!」
琢磨が間髪入れずに答えた。
「じゃ、じゃあ、今度こそ、私と、つ、付き合って、くれる?」
ああ、もちろんだ。
今度こそ、断らない。
琢磨は、こくり、とうなずいた。
今度は自分から言おう。
2回もふいにした言葉を、最悪の呪いだった言葉を、今度は自分から言おう。
琢磨は、深呼吸をして気合を入れると、顔をあげ、真剣な眼差しで、勇気を出してついに言った。
「付き合ってください」
抱きしめ合う2人の体を、大きな白い翼が包み込む。
そのきれいな翼を、夕陽がやさしく照らしていた。
後日――
高速道路を走っている人たちに、「天使が舞い降りる」様子を多数目撃された『悪魔の塔』は、いつしか『天使の塔』と呼ばれようになった。