主人と従者 1
空と海の境界線がわからなくなるほどの青い景色が、縦にも横にも伸びている。澄んだ緑を纏う木々が道の脇を控えめに飾り、風の力で響く涼やかな葉の音が、歩く人の目と耳を楽しませてくれる。
南に位置した小さな街の【22番都市】は、特別栄えていたり変わったものがあるわけではない。しかし、だからこそ好かれる街だと訪れた者は言う。そしてそこに住む人々は皆、慎ましく穏やかな生活を送っていると。
一人の青年が、城門の外で門番と話している。常に気温の高い南の地では生きづらそうな黒髪を持ち、濁りのない青い目は、この街自慢の海を宿しているかのようだった。
服装は黒シャツの上にシンプルな白のジャケットを着て、袖はまくっている。左の腰には刀を下げ、その柄の頭には、紫の羽飾りが音もなく揺れていた。
「ご職業は? 傭兵さんですか?」
爽やかな笑顔を浮かべ、世間話感覚で尋ねる門番の男性に、青年は首を横に振る。
「移住できる場所を探しています。どこか良い街はないかと思って」
「移住、ということは、他の大陸から来た方ですか?」
「そうです」
「これはこれは……。ようこそ、カレスティア大陸へ」
丁寧な歓迎をしてくれた門番に対し、青年も同じように返す。その後いくつかの会話を重ねて、入門の許可を得た。
街は人工的に植えられた樹木や草花に満ちており、歩く人の数も多すぎない。〝のどか〟という一言がとてもよく似合う、そんな雰囲気だった。
暑っ……と垂れる汗を拭った青年は、まず最初に宿屋を目指した。入り口付近には街の案内図を表した看板が建てられており、それをじっくりと見つめる。
そのあとに宿屋があるほうへと向かったつもりだったが、どうやら気づかないうちに道を間違えたようで、結局人に尋ねてようやく辿り着いた。
そこは一階が小さな酒場で、二階以降が宿屋となっていた。宿泊料は安いがそのかわり食事代は含まれておらず、酒場で飲み食いする必要がある。
二階へ上がり、カウンターに立つふくよかな体型の女将に、三泊四日の滞在を申し込む。場合によっては日数が増えたり減ったりするかもしれないと青年が伝えると、女将は優しく承諾してくれた。
青年は女将が出した手続き用紙に、自分の名前を記入する。〝シリウス〟と。
木の温もりを感じるデザインの部屋に通されたシリウス。太陽はもう少しで頂点に達するところまで来ていた。
真っ白なシーツに感激し、すぐにでも寝転がりたい衝動を抑えてまずはシャワーを浴びる。それからゆっくりと、清潔なベッドを全身で堪能した。
ここより前に泊まった【2番都市】はなかなか治安が悪く、宿屋も多少マシな独房といった感じで、あまり落ち着いて休めなかった。
加えて街を歩くと、シリウスの荷物を狙う輩に絡まれた。これに関しては難なく撃退したついでに、逆にこちらから金品をよこせと脅迫した。輩たちは命惜しさに、へっぴり腰で応じた。
そう考えると、ここはだいぶ居心地がよさそうだ。まだ来たばかりなので断言はできないが、とにかく街は綺麗で人も親切だった。自分が他の大陸から来た人間だと知っても、嫌がる様子を見せない。
あえてマイナスな点を上げるとすれば、シリウスは海が苦手だった。けれど、そこまで隣接しているわけではなかったので、なんとか許容できる範囲だった。
「さて……。あとはいい加減、信頼できる奴を一人くらい欲しいところだが……」
天井を眺めながら、シリウスは呟く。
長いこと一人旅を続けて、それを不便に思ったことはないが、やはり己のそばにいてくれる存在に恋しくなる。
シリウスが育ったのは、人が人に仕えるのが当然のところだった。使用人として、用心棒として、その他別の役割として。また、養子も積極的に迎える国だった。
シリウスは、そこそこ裕福な家で暮らしていた。両親と、姉が二人と妹が一人。のちに知ったのだが、元々は父子家庭で、旦那に先立たれて娘たちと暮らす身分の高い女性と再婚したらしい。つまり母と姉と妹は、義理の家族だったのだ。
しかし、シリウスは幸せだった。母は本当の息子としてかわいがってくれて、姉二人も弟ができたと喜び、妹も兄と呼んでくれた。使用人も皆、優しかった。当然、父も。
シリウスという人間は、生まれの親も育ての家族も、どちらも心から愛し、愛されたのだ。
では何故、そんな離れがたい場所を離れてここまで来たかと言うと、滅んだからである。
カレスティア大陸は大陸遵行隊による、いわゆる軍事政権で統一されているが、そこは二つの国に分かれており、やがて戦争が始まった。シリウスの家は、戦争によって滅んだのだ。
徴兵令が発せられ、戦争に駆り出されたシリウスだが、兵士に扮した父の手引きで逃げることを決めた。だがそれが原因で、別行動をしていた母たちが自国の兵に捕まって殺されてしまう。そして父と二人で、戦争から逃げるための船に乗る寸前で兵に見つかり、父はシリウスをかばって撃たれ、亡くなった。シリウスは、たった一人でカレスティア大陸まで逃げ延びたのだ。
いや、厳密には一人ではない。唯一共に生き残ったのは、父から贈られた刀。父がシリウスのために職人に造らせ、母の教えに従って名前をつけたものである。愛刀の名は『シオン』。
それからは『シオン』を心の支えにして、今日までずっとずっと、生きてきた。
そして現在。シリウスはカレスティア大陸の28都市を回り、安定した拠り所を探す旅をしている。訪れた都市の印象や経験を手帳に記録して、最終的にここだと決めた都市に住もうという計画だ。
第一印象として、この【22番都市】は歴代候補の中でも上位に君臨している。といっても決めつけるのはまだ早いので、残りの日を使ってじっくり見定めようと思ったシリウスは、そのまま眠りに落ちていた。旅の疲れは確かに溜まっていたようだ。
少し、楽しい夢をみた。顔はわからないが、誰かと一緒に、奇妙な街を観光する夢だった。
次に目を覚ますと、窓から差し込む光が西日に変わっていた。わりと長い時間眠ったようだ。もったいないという気もしたが、おかげで瞼が軽い。身体の疲れも取れた。
陽が完全に落ちるまで部屋の中で過ごしたあと、一階の酒場で夕飯を食べた。海が近い街ということで魚介類が豊富らしく、大きなエビの入ったグラタンを注文した。大変美味であった。
それからまたシャワーを浴びて、『シオン』の手入れを始める。小さな薄い布で汚れを拭き取り、別の柔らかい布に油を染み込ませて刀身に塗る。照明の光を背景にきらりと輝く刃は、喜んでいるように見えた。よかったな、とシリウスも笑った。
『シオン』をベッドの脇に置き、小型のナイフを枕の下に隠してから、シリウスはベッドに潜る。
「良いところだ……」
しみじみと呟く。外からはチンピラの喧嘩や酔っ払いの叫声は聞こえず、ただ静かに夜の時間を刻んでいる。
一度深く息を吐いたシリウスは、また長く長く眠った。