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奴隷屋の日常  作者: 坂牧 祀
52/53

さざなみ 3


 犯人は一度も振り返ることなく、何も迷わずに逃走している。それはまるで、奪ったあとはここを通るよう、あらかじめ経路が決められているみたいだった。


「てめえこの野郎! 待ちやがれ!」


 その証拠に、刀の持ち主が追いかけてきている現状にも、うしろから飛んでくる怒声にも、全く動じていない。

 窃盗が発生したという事態を察した周りの者たちが、なんとか犯人を捕まえようと勇ましく挑む。しかし犯人はそれらを容易にかわし、やがてたどり着いたのは、運河の上に架かる大きな石造りの橋だった。


「おう! こっちだ!」


 すると、『シオン』を盗んだ犯人と同じく、上から下まで真っ黒な服に身を包んだ別の男が、手を振って自分の位置を知らせる。その男は馬を用意しており、それを使って逃げるという計画が、嫌でも理解できた。


「まずい! 今の時間帯は、他の都市から物資が運ばれてくる頃だから、城門が開きっぱなしだぞ!」


 近くにいた商人の言葉に、シリウスは血の気が引いた。街の外に逃げられては、もう追いつけなくなってしまう。相手は馬に乗っているのだから、余計に。


「……『シオン』……!」


 シリウスの声が震える。

 戦争からたった一人で生き延びて、家族も誰も彼もを失った自分にとって、『シオン』だけが心の支えだった。

 昨夜ライファットから、最近窃盗が多発しているという情報を得ていたはずなのに。そんなこともすっぽりと忘れて、結果、このような目に遭っている。


『シオン』を持つほうが仲間と合流し、馬に飛び乗る。そうして手綱(たづな)を握るほうが馬の腹を蹴り、二人はシリウスとの距離をさらに広げた。


「はっはっは! もうこの街から奪うモンはねえ! あばよ!」


 馬の背には、おそらくこれまでに盗んだ品が入っているのであろう、大きな袋が積まれていた。

 焼きつくような焦燥感(しょうそうかん)。いっそ泣きたくなるほどの失意。己の無力さをただ呪い、シリウスはぎゅっと目を閉じて、愛刀の名を叫ぶ。


「『シオン』……!」




「俺に任せてください」


 だが、そのとき。

 風のように現れた白い姿に、シリウスの黒髪がふわりと揺れた。


 ライファットは、とても人間の足とは思えないほどの速度でシリウスを追い抜き、数本のクナイをまっすぐに投げる。それらは全て馬の臀部(でんぶ)に突き刺さり、強い痛みを感じた生き物はたまらずに叫んだ。


「うおっ!?」


 甲高く鳴き、制御不能となった馬を手綱(たづな)のみで抑えようとするが、無意味であった。

 犯人と馬は横転し、盗品たちも豪快に散らばる。そして、今さっき奪ったばかりの刀も、犯人の手から離れた。


「あっ……」


 ゆっくりと宙を舞う『シオン』は、青空を背景に、その美しい白を輝かせる。

 しかし『シオン』は、橋の外で踊っていた。そのまま高く上がり続けるかと思われたが、徐々に重力に従い、下へ下へとおちていく。


 運河の、元へと。


「……っ!」


 シリウスは、全力で手を伸ばした。けれど、あまりにも届かなかった。

 紫色の羽飾りが、助けを求めるようになびく。それを、ただ見ているだけの時間。


 シリウスには、届かない。

 救えない。

 助けられない。



 だんっ!



 ライファットが、欄干(らんかん)と呼ばれる橋の手すりに足を乗せた。

 なんの迷いもなく強く踏み込み、跳ぶ。

 ライファットの右手は、シリウスよりも更に遠くへと伸びる。指先が羽飾りに触れ、掴んだ。


 それは、自身の落下も意味していた。


「ラ……」


 シリウスが何かを言う前に、ずっと事の成り行きを傍観していた神さまが、世界の針を無理やり停止させる。

 ぎ、ぎ、と耳障りな音を響かせ、今この場にいる者たちの視界に、黒い砂嵐を巻き起こす。

 シリウスの声も、喉に詰まって上手く吐き出せずにいた。しかし神さまが、ぱちんとイタズラに指を鳴らしたことによって、針の動きが再び解き放たれる。瞬間、忘れていた呼吸を取り戻すように、一気に感情が放出された。


「ライファット!」


 大きな水しぶきをあげて、『シオン』とライファットは落ちた。周りからも悲鳴があがった。

 シリウスは急いで、欄干(らんかん)から運河を覗き込む。

 本来であればシリウスにとって、その行為すらも恐怖に値するものだった。何かの拍子で、水の底に落ちるかもしれないという想像に支配されるからである。

 しかし今は、そんなことも言ってられなかった。従者と愛刀が、自身が最も恐れるものの中に沈んだのだ。

 水面は不自然に揺蕩(たゆた)い、水泡がぶくぶくと浮かぶ。だが、無事を確認したい二つの存在は、いつまで経っても現れない。


 シリウスは、首が絞められる思いがした。


「お、溺れてる……! なあ! あいつら溺れてるって!」


 我を忘れたシリウスが、すぐとなりにいた住民の男性の腕を掴んで、激しく訴える。

 兄ちゃん落ち着け、とその男性は説得したあと、他の者にも協力を促す。


「誰か! 小舟は出せねえか!?」

「いや、俺が直接行って助けるぜ!」

「ま……待て、あれを見ろ!」


 一人が指をさした先には、観光客を乗せた遊覧船があった。

 一部始終を目撃していた船頭は、急いでライファットが落下した地点へと向かう。他の船員も、客が落ちたときのための救出道具を準備していた。


「急いでくれ! きっとまだ間に合う!」

「この川はわりと深いから、下には衝突しないはずだ!」


 男性や住民たち。通報により駆けつけ、犯人を取り押さえた大陸遵行隊たいりくじゅんこうたい。皆が落ちた青年の無事を願う。

 無論、シリウスも。


「……」


 水面が、また不自然に揺れた。

 そこから黒い影が段々と浮き上がってきたとき、ばしゃりと白い髪が飛んだ。


「ライファット……!」


 都市を漂う動揺と混乱の空気が、安堵と歓声に変わった。

 お兄さんこっち、と声をかける船頭に気づき、ライファットは遊覧船まで泳ぐ。そうして無事に引き上げられるところを見て、よかったな、とシリウスのとなりにいた男性が背中を叩いてきた。

 シリウスは、


「……」


 シリウスは、ただ呆然と立ち尽くしていた。



 + + +



 男性に案内され、遊覧船乗り場までやってきたシリウス。

 先ほどまでは青空が広がっていたはずなのに、いつの間にかうっすらとオレンジ色が交わっていた。カラスが、陽が傾いていることを知らせる。

 少し待つと、遊覧船が戻ってきた。桟橋(さんばし)の前にぴたりと止まり、船頭の指示に従って乗客たちが次々とおりていく中で、


「……我が主」


 一番最後に、従者が歩いてきた。

 シリウスが、何か言葉をかけようとする。けれど、くぐもった声が漏れるばかりで、全く伝えられなかった。

 そんな主人の前に、ライファットはおもむろに(ひざまず)く。

 そして、ずっと大事に持っていた白い刀を丁寧に差し出し、


「『シオン』は無事です」


 にっこりと微笑む顔は、達成感に満ちあふれていた。


「……」


 シリウスは無言で、そんなライファットを見おろし、黙って受け取る。

 それから糸が切れたように、がくんと膝から崩れ落ちた。


「わ、我が主っ?」


 支えようとしたライファットだが、ずぶ濡れ状態の自分を思い出し、何もできない手をあわあわと無駄に動かす。

 シリウスにとって『シオン』がどれほどの存在かは、多少なりともわかっているつもりだった。ゆえに絶対に『シオン』を助けなければと、そのためならば身を投げ出す価値は十分にあると、そう思ってライファットは迷わずに跳んだ。

 だからこそ、『シオン』がこうして無事に戻ってきて、よほど安心したのだろうと。ライファットは、そう解釈した。


「……お前さぁ……」


 しかし、うつむくシリウスの口から出たのは、ライファットの予想とは違うものだった。


「お前なんで、そんな……。なんなんだよ、マジでさぁ……。俺が海苦手だって、知ってるくせによぉ……」

「は、はい」

「『シオン』もお前も、そんなびしょ濡れで……。頭が、おかしく……。……しんどいって、マジでぇぇ……」

「……?」


 情けない声でぐずぐずと無理やり繋げる言葉は、伝わるようでよく伝わらない。

 まだ頭が混乱しているのかもしれないと思ったライファットは、とりあえず安心させなければと、若い主人を落ち着かせる。


「俺は大丈夫ですよ、我が主。俺は、えっと……泳げるので」

「……」

「怪我もしてませんし、全然平気です。それよりも『シオン』のほうが大事じゃないですか? 早く拭いてやらないと、()びてしまうかも……」


『シオン』を(かか)えながらうずくまっていたシリウスは、ふと、ライファットの一言に耳を動かす。

 確かにシリウスにとって、『シオン』はかけがえのないもので、何よりも優先すべき存在である。昔から支えられている拠り所で、宝物だ。



 しかし今は、少し、違う。



「……お前さ……」

「はい」

「俺は、そこまで薄情じゃねえんだよ」

「……はい?」


 つい先ほどまでの弱々しい声はどこかへいき、うっすらと、何故か怒気のようなものを感じる。


「『シオン』は大切だ。それについては、今も昔も変わらねえ。けど昔と違うのは、今の俺には、お前がいるってことだ」

「……」

「お前を買ったばかりのときはさ、正直、俺の役に立てばそれでいいかなって思ってた。お前は戦えるっぽいし、大陸についても詳しいし。奴隷扱いはしないけど、本当にただの〝従者〟としてだけ見ていた」


 怒気は消え、次はやたらと冷静に話を続けている。

 ライファットは口を挟まず、ただ聞くことに徹する。


「けど、なんだろうな……。最近のお前は、ちゃんと自分の意見を言うようになったよな。特に名前を与えてからは、妙に明るくなったというか……。レストランのときだって、おかわりしたいなんてさ、以前のお前だったら絶対に言わなかっただろうし。だから俺も、お前を見る目がますます変わったよ」

「……はい」


 冷静な口調から、穏やかな雰囲気に変わる。

 ころころと様子が二転三転するシリウスに、うかつなことはしゃべれないと無意識に判断したライファットは、とにかく黙って頷く。


「旅のお供が欲しいと思って、お前を選んだあの日から、今日までずっと二人で歩いてきて、こんなに楽しくなるとは夢にも思わなかった。それだけ俺にとって、お前はもう、単なる従者じゃなくなったってことなんだな」

「わ、我が主……!」


 じんと胸が熱くライファットは、小さく感動する。

 ライファットにとっても、それだけシリウスという存在が大きなものとなっていたのだ。


「だからな、ライファット」

「……はい」


 従者としてこれ以上ない喜びに揺れて、ライファットは正座をして次の言葉を待つ。

 髪に隠れたシリウスの口もとは、柔らかく笑っている。

 そうしてゆっくりと、ゆっくりと顔をあげて、




「あのまま死んでたらどうすんだ! この、バカヤロォ!!」

「……えっ」


 突然の罵倒に、従者は目を丸くした。


「心配させやがってクソが!『シオン』が助かったとしても、お前が流されてたらどうするつもりだったんだ! ああ!?」

「た、確かにその可能性もありましたが……。でも、あのときはそこまで考えてる余裕がなかったので……」

「ようやく仲良くなれたと思ったのに……。途端にこれかよ! 俺から離れるんじゃねえ馬鹿! このアホ食い野郎!」

「あ、アホ……!」

「ビーフシチューだって食わせてやんねえぞ! お前はもう俺の〝今後〟に加わってるんだから、そのことをちゃんと自覚しやがれ! ボケが!」

「そ、そんなに怒らないでくださいっ!」

「怒ってねえよ!」

「怒ってるじゃないですか!」

「うるせええええっ!!」


 (なか)ばやけくそ気味のシリウスは人目も(はばか)らず、駄々をこねる子どものように、張り裂けるほど大きな口を開けて叫んだ。




「お前の無事を喜んでるんだよおおおおっ!!」




 ……その後も言い合いを続ける青年二人を、離れた位置から住民たちが見守る。

 会話のすべてが聞こえているわけではないが、住民たちからすると、仲の良い友達同士によるかわいらしい喧嘩にしか見えなかった。くすくすと笑う主婦、ご機嫌に腕を組む船頭。

 なんとも微笑ましく、いっそ(なご)やかな光景だと、皆が優しい眼差しで、若い二人を包んであげていた。



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― 新着の感想 ―
ライファットさんを買うエピソードの時はライファットさんよりシオンの方が大切そうな描写もあったけど、もうシリウスさんにとってシオンもライファットさんも同じくらい大切な存在になってきてるんですね!(*'ω…
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