さざなみ 3
犯人は一度も振り返ることなく、何も迷わずに逃走している。それはまるで、奪ったあとはここを通るよう、あらかじめ経路が決められているみたいだった。
「てめえこの野郎! 待ちやがれ!」
その証拠に、刀の持ち主が追いかけてきている現状にも、うしろから飛んでくる怒声にも、全く動じていない。
窃盗が発生したという事態を察した周りの者たちが、なんとか犯人を捕まえようと勇ましく挑む。しかし犯人はそれらを容易にかわし、やがてたどり着いたのは、運河の上に架かる大きな石造りの橋だった。
「おう! こっちだ!」
すると、『シオン』を盗んだ犯人と同じく、上から下まで真っ黒な服に身を包んだ別の男が、手を振って自分の位置を知らせる。その男は馬を用意しており、それを使って逃げるという計画が、嫌でも理解できた。
「まずい! 今の時間帯は、他の都市から物資が運ばれてくる頃だから、城門が開きっぱなしだぞ!」
近くにいた商人の言葉に、シリウスは血の気が引いた。街の外に逃げられては、もう追いつけなくなってしまう。相手は馬に乗っているのだから、余計に。
「……『シオン』……!」
シリウスの声が震える。
戦争からたった一人で生き延びて、家族も誰も彼もを失った自分にとって、『シオン』だけが心の支えだった。
昨夜ライファットから、最近窃盗が多発しているという情報を得ていたはずなのに。そんなこともすっぽりと忘れて、結果、このような目に遭っている。
『シオン』を持つほうが仲間と合流し、馬に飛び乗る。そうして手綱を握るほうが馬の腹を蹴り、二人はシリウスとの距離をさらに広げた。
「はっはっは! もうこの街から奪うモンはねえ! あばよ!」
馬の背には、おそらくこれまでに盗んだ品が入っているのであろう、大きな袋が積まれていた。
焼きつくような焦燥感。いっそ泣きたくなるほどの失意。己の無力さをただ呪い、シリウスはぎゅっと目を閉じて、愛刀の名を叫ぶ。
「『シオン』……!」
「俺に任せてください」
だが、そのとき。
風のように現れた白い姿に、シリウスの黒髪がふわりと揺れた。
ライファットは、とても人間の足とは思えないほどの速度でシリウスを追い抜き、数本のクナイをまっすぐに投げる。それらは全て馬の臀部に突き刺さり、強い痛みを感じた生き物はたまらずに叫んだ。
「うおっ!?」
甲高く鳴き、制御不能となった馬を手綱のみで抑えようとするが、無意味であった。
犯人と馬は横転し、盗品たちも豪快に散らばる。そして、今さっき奪ったばかりの刀も、犯人の手から離れた。
「あっ……」
ゆっくりと宙を舞う『シオン』は、青空を背景に、その美しい白を輝かせる。
しかし『シオン』は、橋の外で踊っていた。そのまま高く上がり続けるかと思われたが、徐々に重力に従い、下へ下へとおちていく。
運河の、元へと。
「……っ!」
シリウスは、全力で手を伸ばした。けれど、あまりにも届かなかった。
紫色の羽飾りが、助けを求めるようになびく。それを、ただ見ているだけの時間。
シリウスには、届かない。
救えない。
助けられない。
だんっ!
ライファットが、欄干と呼ばれる橋の手すりに足を乗せた。
なんの迷いもなく強く踏み込み、跳ぶ。
ライファットの右手は、シリウスよりも更に遠くへと伸びる。指先が羽飾りに触れ、掴んだ。
それは、自身の落下も意味していた。
「ラ……」
シリウスが何かを言う前に、ずっと事の成り行きを傍観していた神さまが、世界の針を無理やり停止させる。
ぎ、ぎ、と耳障りな音を響かせ、今この場にいる者たちの視界に、黒い砂嵐を巻き起こす。
シリウスの声も、喉に詰まって上手く吐き出せずにいた。しかし神さまが、ぱちんとイタズラに指を鳴らしたことによって、針の動きが再び解き放たれる。瞬間、忘れていた呼吸を取り戻すように、一気に感情が放出された。
「ライファット!」
大きな水しぶきをあげて、『シオン』とライファットは落ちた。周りからも悲鳴があがった。
シリウスは急いで、欄干から運河を覗き込む。
本来であればシリウスにとって、その行為すらも恐怖に値するものだった。何かの拍子で、水の底に落ちるかもしれないという想像に支配されるからである。
しかし今は、そんなことも言ってられなかった。従者と愛刀が、自身が最も恐れるものの中に沈んだのだ。
水面は不自然に揺蕩い、水泡がぶくぶくと浮かぶ。だが、無事を確認したい二つの存在は、いつまで経っても現れない。
シリウスは、首が絞められる思いがした。
「お、溺れてる……! なあ! あいつら溺れてるって!」
我を忘れたシリウスが、すぐとなりにいた住民の男性の腕を掴んで、激しく訴える。
兄ちゃん落ち着け、とその男性は説得したあと、他の者にも協力を促す。
「誰か! 小舟は出せねえか!?」
「いや、俺が直接行って助けるぜ!」
「ま……待て、あれを見ろ!」
一人が指をさした先には、観光客を乗せた遊覧船があった。
一部始終を目撃していた船頭は、急いでライファットが落下した地点へと向かう。他の船員も、客が落ちたときのための救出道具を準備していた。
「急いでくれ! きっとまだ間に合う!」
「この川はわりと深いから、下には衝突しないはずだ!」
男性や住民たち。通報により駆けつけ、犯人を取り押さえた大陸遵行隊。皆が落ちた青年の無事を願う。
無論、シリウスも。
「……」
水面が、また不自然に揺れた。
そこから黒い影が段々と浮き上がってきたとき、ばしゃりと白い髪が飛んだ。
「ライファット……!」
都市を漂う動揺と混乱の空気が、安堵と歓声に変わった。
お兄さんこっち、と声をかける船頭に気づき、ライファットは遊覧船まで泳ぐ。そうして無事に引き上げられるところを見て、よかったな、とシリウスのとなりにいた男性が背中を叩いてきた。
シリウスは、
「……」
シリウスは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
+ + +
男性に案内され、遊覧船乗り場までやってきたシリウス。
先ほどまでは青空が広がっていたはずなのに、いつの間にかうっすらとオレンジ色が交わっていた。カラスが、陽が傾いていることを知らせる。
少し待つと、遊覧船が戻ってきた。桟橋の前にぴたりと止まり、船頭の指示に従って乗客たちが次々とおりていく中で、
「……我が主」
一番最後に、従者が歩いてきた。
シリウスが、何か言葉をかけようとする。けれど、くぐもった声が漏れるばかりで、全く伝えられなかった。
そんな主人の前に、ライファットはおもむろに跪く。
そして、ずっと大事に持っていた白い刀を丁寧に差し出し、
「『シオン』は無事です」
にっこりと微笑む顔は、達成感に満ちあふれていた。
「……」
シリウスは無言で、そんなライファットを見おろし、黙って受け取る。
それから糸が切れたように、がくんと膝から崩れ落ちた。
「わ、我が主っ?」
支えようとしたライファットだが、ずぶ濡れ状態の自分を思い出し、何もできない手をあわあわと無駄に動かす。
シリウスにとって『シオン』がどれほどの存在かは、多少なりともわかっているつもりだった。ゆえに絶対に『シオン』を助けなければと、そのためならば身を投げ出す価値は十分にあると、そう思ってライファットは迷わずに跳んだ。
だからこそ、『シオン』がこうして無事に戻ってきて、よほど安心したのだろうと。ライファットは、そう解釈した。
「……お前さぁ……」
しかし、うつむくシリウスの口から出たのは、ライファットの予想とは違うものだった。
「お前なんで、そんな……。なんなんだよ、マジでさぁ……。俺が海苦手だって、知ってるくせによぉ……」
「は、はい」
「『シオン』もお前も、そんなびしょ濡れで……。頭が、おかしく……。……しんどいって、マジでぇぇ……」
「……?」
情けない声でぐずぐずと無理やり繋げる言葉は、伝わるようでよく伝わらない。
まだ頭が混乱しているのかもしれないと思ったライファットは、とりあえず安心させなければと、若い主人を落ち着かせる。
「俺は大丈夫ですよ、我が主。俺は、えっと……泳げるので」
「……」
「怪我もしてませんし、全然平気です。それよりも『シオン』のほうが大事じゃないですか? 早く拭いてやらないと、錆びてしまうかも……」
『シオン』を抱えながらうずくまっていたシリウスは、ふと、ライファットの一言に耳を動かす。
確かにシリウスにとって、『シオン』はかけがえのないもので、何よりも優先すべき存在である。昔から支えられている拠り所で、宝物だ。
しかし今は、少し、違う。
「……お前さ……」
「はい」
「俺は、そこまで薄情じゃねえんだよ」
「……はい?」
つい先ほどまでの弱々しい声はどこかへいき、うっすらと、何故か怒気のようなものを感じる。
「『シオン』は大切だ。それについては、今も昔も変わらねえ。けど昔と違うのは、今の俺には、お前がいるってことだ」
「……」
「お前を買ったばかりのときはさ、正直、俺の役に立てばそれでいいかなって思ってた。お前は戦えるっぽいし、大陸についても詳しいし。奴隷扱いはしないけど、本当にただの〝従者〟としてだけ見ていた」
怒気は消え、次はやたらと冷静に話を続けている。
ライファットは口を挟まず、ただ聞くことに徹する。
「けど、なんだろうな……。最近のお前は、ちゃんと自分の意見を言うようになったよな。特に名前を与えてからは、妙に明るくなったというか……。レストランのときだって、おかわりしたいなんてさ、以前のお前だったら絶対に言わなかっただろうし。だから俺も、お前を見る目がますます変わったよ」
「……はい」
冷静な口調から、穏やかな雰囲気に変わる。
ころころと様子が二転三転するシリウスに、うかつなことはしゃべれないと無意識に判断したライファットは、とにかく黙って頷く。
「旅のお供が欲しいと思って、お前を選んだあの日から、今日までずっと二人で歩いてきて、こんなに楽しくなるとは夢にも思わなかった。それだけ俺にとって、お前はもう、単なる従者じゃなくなったってことなんだな」
「わ、我が主……!」
じんと胸が熱くライファットは、小さく感動する。
ライファットにとっても、それだけシリウスという存在が大きなものとなっていたのだ。
「だからな、ライファット」
「……はい」
従者としてこれ以上ない喜びに揺れて、ライファットは正座をして次の言葉を待つ。
髪に隠れたシリウスの口もとは、柔らかく笑っている。
そうしてゆっくりと、ゆっくりと顔をあげて、
「あのまま死んでたらどうすんだ! この、バカヤロォ!!」
「……えっ」
突然の罵倒に、従者は目を丸くした。
「心配させやがってクソが!『シオン』が助かったとしても、お前が流されてたらどうするつもりだったんだ! ああ!?」
「た、確かにその可能性もありましたが……。でも、あのときはそこまで考えてる余裕がなかったので……」
「ようやく仲良くなれたと思ったのに……。途端にこれかよ! 俺から離れるんじゃねえ馬鹿! このアホ食い野郎!」
「あ、アホ……!」
「ビーフシチューだって食わせてやんねえぞ! お前はもう俺の〝今後〟に加わってるんだから、そのことをちゃんと自覚しやがれ! ボケが!」
「そ、そんなに怒らないでくださいっ!」
「怒ってねえよ!」
「怒ってるじゃないですか!」
「うるせええええっ!!」
半ばやけくそ気味のシリウスは人目も憚らず、駄々をこねる子どものように、張り裂けるほど大きな口を開けて叫んだ。
「お前の無事を喜んでるんだよおおおおっ!!」
……その後も言い合いを続ける青年二人を、離れた位置から住民たちが見守る。
会話のすべてが聞こえているわけではないが、住民たちからすると、仲の良い友達同士によるかわいらしい喧嘩にしか見えなかった。くすくすと笑う主婦、ご機嫌に腕を組む船頭。
なんとも微笑ましく、いっそ和やかな光景だと、皆が優しい眼差しで、若い二人を包んであげていた。




