さざなみ 1
青空が、輝いていた。
雲を模したような白い鳥の群れが、綺麗な隊列を作って羽ばたいている。枯れることを知らない緑の海が地上をふんだんに満たし、気持ちのいい風によって健やかに波打つ。
そんな穏やかな世界を、二人の青年が歩いていた。
一人は黒い髪に青い目を持ち、腕まくりをした白いジャケットを着ている。腰には刀があった。
もう一人は白い髪に赤い目を持ち、丈の長いあずき色の上着を揺らす。こちらは二本でワンセットの短剣をたずさえていた。
「もうすぐ次の都市に着きますよ、我が主。俺は行ったことないですけど、確か運河で知られる場所だったはずです」
「……そうか」
どうやら白髪の青年は、黒髪の青年にとって従者にあたる存在のようで、地図を見ながら道案内をしている。それに対し、黒髪の青年はどこか生返事をしたあと、ばつが悪そうに一度頭を掻いた。
「なあ、お前」
「はい?」
「お前の名前だけどよ、本当にいいのか?」
「……ああ、まだ言ってるんですか?」
従者の青年は、柔らかな表情を浮かべる。
「言ったはずですよ。俺は気に入ったって」
「いや、まあ、そうだけどよ……。あんな酔っぱらった勢いでつけたような名前で、本当に後悔しないか?」
「でも、きっと、前々から考えてたものですよね?」
「ん……まあ……」
「なら、ありがたく頂戴しますよ」
そう微笑む従者の青年は、つい最近まで名前がなかった。
そしてつい最近、名前を与えられた。
「俺は〝ライファット〟ですよ、我が主。なのでどうぞ、そう呼んでください」
「……」
主人の青年は、湧いた照れくささをそっと隠した。
それから覚悟を決めたように、大きく深呼吸をする。
「わかったよ、ライファット。じゃあ改めて、これからもよろしくな」
「はい。遠慮なく頼りにしてくださいね」
嬉しさを込めて頷くライファットに、主人の青年……シリウスも、笑って返した。
+ + +
到着したのは【13番都市】と呼ばれるところだった。
門番から許可をもらい、中へ入る。そこは、最後に訪れた【26番都市】と少し似ているようでなんとなく違う、古風なおしゃれさが印象的な街だった。
美しく並ぶレンガの家々と着飾った住民たちが、街の豊かさと治安の良さを示す。そして何より、街を右と左に分けるように運河が大きく伸びており、これが【13番都市】の名物だというのが一目でわかった。
「綺麗ですね。こういうところはたぶん、夜は街灯によってキラキラしてると思いますよ」
「そ、そうか……。それは、まあ、楽しみだな……。うん……」
口では喜ぶ素振りだが、シリウスの顔は明らかに何かが原因で引きつっている。
気づかないライファットは、運河の中からとあるものを見つけて指をさした。
「我が主、遊覧船があります。お金はかかるかもしれませんが、きっとあの小さな船で、街の観光ができますよ」
「ふ、ふ、船……!?」
まるで心を掻きむしられたように動揺するシリウス。
どこかに受付所があるはずです、と辺りを見回すライファットに、ついにシリウスが大声で止めた。
「ま、待て!」
「……はい?」
「お前、さ……。あの船、乗りたい?」
「え、はい……。せっかくなので……」
「ど、どうしても?」
「いえ、そこまでではないですが……。どうしたのですか?」
「……」
シリウスは不安げな様子のまま、刀に手を置いてうつむいてしまった。
そんな主人を前に、何か事情があるのだと察したライファットは、正面に立ってはっきりと告げる。
「従者に遠慮なんかしないでください。決定権は全て、あなたが持っているんですよ」
「う……ううん……」
申し訳なさそうに唸るシリウスに、ライファットは、ただ思ったことを口に出す。
「あなたは、自身のことだけを考えてください。そのために、俺を利用してください。あなたの命令であれば、俺は喜んで受けますから」
「……」
ライファットという従者は、【26番都市】での出来事を経て、この若い主人に、信頼に近い好感を抱いていた。
おおらかで、堂々としていて、腕っぷしも強く、さっぱりとした明るさを持つ人。口の悪さは少し意外だったが、特に不快にはならなかった。むしろ、姉を思い出して懐かしさすら感じた。
だからこそ、シリウスには伸び伸びとしてほしかった。変に気を遣って、胸の中に翳りを作ってほしくなかった。ゆえに従者として、至極当然のことを言う。
「俺はあなたに従います。なので、あなたの都合のいいように、俺を使ってください」
その言葉は、ライファットの本心だった。
所詮は元奴隷だからとか、そんなうしろ向きな理由は一つもない。この主人だからこそ、シリウスだからこそ伝えられる意思だった。
「……」
刀を握ったままのシリウスが、ライファットをじっと見つめる。
この若き従者が、ようやく自分に対して心を開いてくれたというのは、さすがに理解できた。口数が多くなり、ライファットのほうから話しかけるようになったのが、明確な証だった。
シリウスも、ライファットのことは既に信頼している。なのでこうして歩み寄ってくれるのは、素直に嬉しかった。
そう思えた。それゆえに、シリウスは、
「……海……」
「え?」
「海が苦手なんだ、俺。実は」
ゆったりと進む遊覧船を眺めながら、語ることにした。
シリウスは元々別の大陸で暮らしており、そこで戦争が起きて、徴兵に応じた。
やがて脱走することを決めて、父の知り合いが用意したという船に乗り、育った国を捨てた。
船は、途中までは快調に進んでいた。しかし突如として天気が一変し、嵐に見舞われ、同じく戦火から逃れようとした者たちもろとも、船は沈没した。
次に目を覚ましたとき、シリウスは一人きりだった。奇跡的に生きていて、知らない浜辺に流れ着いていた。そこが、カレスティア大陸だったのだ。
「戦場ももちろん怖かったけど、俺にとってはそれ以上に、海のほうが怖かった。地に足をつけることができない、走って逃げることができない恐怖が……。とんでもない波の力に押されて、呑まれて、無理やり呼吸を奪われるあの苦しさが、本当に忘れられない。ちょうど夜で、暗くて寒かったってのもあって、余計にな」
「……」
「あー……。あと船はさ、逃げる場所がないだろ? 海に飛び込んだからといって、必ず助かるとも限らないし。そもそも泳げないし。魚に食われる可能性だってあるしさ。……だから、俺は……。海が怖い。海に関連するもの、海と似たような場所も、俺にとってはだめなんだ」
川、湖、池、プールなど。とにかく〝溺れる可能性のある場所〟が、恐怖の対象だった。
噴水のように、水の深さが膝下までのものであれば平気だが、そうでなければ近づくことすら臆してしまう。
激しく揺れる船内。真っ暗な海に投げ出された、あの瞬間。沈んでいくごとに募る絶望、もがく無意味さ。まだ命が身体と繋がっているからこそ、意識を失うまで味わわなければならない、冷たい地獄。
それらの記憶が強烈によぎり、手足が震えてしまう。シリウスを蝕む、永遠に解けることのない、トラウマという名の猛毒。
「あ、ちなみに風呂は大丈夫だぞ。あったかくて気持ちいいし、座れるし。湯船も狭いから、溺れる心配もないしな。……ただ温泉みたいに、あんまり広いところは……できれば端っこに行きたいかな。寄りかかれる位置っつーか、何かに掴める位置がいい」
「……。そうですか」
にかっと笑い、雰囲気を明るいほうへと変えようとするシリウス。ライファットも一応は便乗したが、どことなく苦さが顔に残っていた。
「……拍子抜けしたか?」
「え?」
「【26番都市】であれだけ酔って暴れ回ってた奴が、実は海に怯えてるなんてよ。……南のほうは良い街が多いけど、やっぱりどこも海が目につくっつーか……。ま、綺麗なのはわかるんだけどなー、魚介類も普通に旨いし。ただ、できれば俺としては、海とは無関係なところがいいかなーって、思ったり思わなかったり……」
自嘲気味に話すシリウスを見て、そのうちライファットの口角が、ゆっくりと上がった。
「では、そうしましょう」
「……ん?」
「あなたが望む場所を見つけましょう。そもそもこの旅は、それが目的なのですから」
安心して暮らせる街……新しい居場所を見つける。シリウスが旅を始めた理由だ。
それは、ライファットとしても望むところではあった。かつて奴隷に身を落としていた者として。
あともう一つ、〝人間である〟シリウスには隠さなくてはならない素性を抱えている者として。
「他に、何か要望はないのですか? 小さい街がいいとか、にぎやかな街がいいとか」
「う、うーん、そうだな……。やっぱある程度、物が揃ってるところのほうがいいのかもな。でも、のほほんとした田舎も悪くない、か?【2番都市】みたいな、チンピラが多い場所は嫌だし」
「正直、この大陸にあなたがイメージするような田舎はありませんよ。緑が多くて、絵本の中に出てきそうな、平和でのどかな田舎は」
「そ、そうなのか」
「一番近いところで言えば、俺とあなたが出会ったあの【22番都市】ですかね。【2番都市】は確か……俺を買うためのお金を稼いだ場所、でしたっけ?」
「ああ。でもあそこは宿屋ですらボロくさかったし、マジで良い部分が一ミリもなかったぞ。あえて挙げるとすれば、気軽にカツアゲができることくらいかな。全員クズだから」
「そうですか……。俺の記憶の中にある【2番都市】は、もう少しまともな場所だったのですが……。知らない間に廃れたのですね」
「お前は、他にどっかおすすめはあるか?」
「寒い土地でもいいのであれば、【10番都市】とか……。あそこは医療技術が特に発展していますからね。街自体も大きいですし」
「へえ……。まあ何かあったときのことも考えれば、病院も大事だよな」
「はい」
「あとは、んー……。何か希望する条件はあるかな……」
少しずつ会話にテンポが加わり、先ほどの重い空気はどこかへ消えている。
その後も意見を重ねていき、はっとシリウスが我に返った頃には、ライファットが見つけた遊覧船も、ずっと遠くまで流れてしまっていた。
「随分と夢中になってたかもしれないな」
「えっ? ああ、すみません。色々と聞きすぎましたか?」
「いや、必要な時間だったよ」
実はシリウスには昔から、不安に陥ったり心がざわつくことがあると、無意識に刀に触れる癖があった。ゆえに海の話が始まってからずっと握りしめていたのだが、ライファットとの長い質疑応答のおかげで、いつの間にか手から離れていた。
気持ちが軽くなっていることを今になって自覚したシリウスは、肩の荷をおろすように、静かに息を吐く。
「なんか腹減ってきたなあ。飯でも食うか」
「……! そうですね、そうしましょう」
ライファットの赤い目に、喜びの光が生まれる。
腕を組みながら、きょろきょろと飲食店がないか探していたため、シリウスはそのことに気がつかなかった。
「そういや、まだ宿屋も確保してなかったな。すっかり忘れてたぜ。どうする、先に飯食いに行くか?」
「そ……。……いえ、まずは宿屋に行くべきかと。これだけ大きな都市だと、宿屋も複数あるはずなので、部屋が取れないということはないと思いますが……。きちんと予約してからのほうが、安心して観光もできるので」
「そっか。じゃあ宿屋を探すか」
「はい」
自身の食欲を優先しかけたライファットだが、なんとか理性で抑えた。シリウスが、ぐっと身体を伸ばしてリラックスをする。
空は、なおも青が色濃く広がっている。海の色をそのまま写したかのような天気の下で、二人の青年は肩を並べて歩き出した。




