月並み
本日は、奴隷屋の定休日だった。
いつもは朝食担当のライファットが早く起きるが、休日は逆になることが多い。
朝と昼の中間あたりで目が覚醒し、ベッドから離れたシリウスは、隣の部屋でたっぷりと睡眠を摂るライファットを起こさないように、そっとリビングへ向かう。
暖炉をつけて部屋全体を暖めてから顔を洗い、食材をチェックする。それからレシピ本をぱらぱらとめくり、今あるもので何か作れる料理はないかを調べ、一つのメニューに手が止まる。
「これでいいか」
決まったのであれば早速実行しようと、シリウスはキッチンに立つ。
用意したのは食パンと蜂蜜、バターなど。
包丁で食パンに格子状の切り込みを入れて、蜂蜜とバターを塗る。オーブンで焼き色がつくまでこんがり焼くと、甘く優しい匂いが周囲に溶け込んだ。
その匂いがライファットのもとまで届いたようで、簡単に意識を誘われる。目をこすって身体を起こし、まだもう少し寝ていたいという気持ちを押して部屋を出る。そしてキッチンで黙々と準備をするシリウスのところまで歩き、首のうしろを掻きながら言った。
「俺にも作ってください」
「欲しけりゃ顔洗ってこい」
はぁい、とあくび混じりの返事をして、洗面台まで移動する。
念のため二人分を作っておいてよかったと、この展開を予期したシリウスは皿をもう一枚用意した。
テーブルに置かれたのは甘いトーストと、シリウスが淹れた熱いコーヒー。それらをおいしそうに口に運ぶライファットは、とても上機嫌だ。
「こんなふうにおいしいものを食べているときが、シリウスさんの従者でよかったと感じる瞬間の一つです」
「ふーん。旨い飯が食えりゃあ誰でもいいってか?」
「違います。だってシリウスさんのおかげで、苦手だったコーヒーもこうして飲めるようになったんですよ?」
だから俺は恵まれてるんです、と断言するライファットを、シリウスがちらりと見る。
元奴隷で、しかも世間からは疎まれている人狼が言うと、嫌でも説得力がある。
いつ堕狼になってもおかしくはない立場や環境だったはずなのに、こうしてしっかりと生きていられるのは、何よりもライファット自身の心の強さがあるからだ。
「逆にシリウスさんは、俺が従者でよかったと思うときはあるんですか?」
「はあ?」
そんなことを考えていると、なんだか答えづらい質問をされてしまった。
あからさまに渋い表情を作るシリウスに、ライファットが少しだけむっとする。
「ないんですか?」
「ないわけじゃねえけど……。聞いてどうすんだよ、そんなもん」
「噛みしめます」
「めんどくせえ彼女か……」
相手の良いところを相手の目の前で発表する羞恥などごめんだと、適当に誤魔化そうとする。
しかしそれがかえってライファットの意地に触れたようで、答えてくれるまで諦めない方向に進んでしまった。
「俺の名前の意味だって教えてくれないんですから、せめてこれくらいは言ってくださいよ」
「いや、まあ……。うーん……そうだな……」
正面から送られるジトッとした視線を受けて、困ったように面倒くさそうに、シリウスは身体を横にずらす。
それから低く唸って、
「……お前に嫌気がさしてたら、とっくにどこかで切り捨ててるよ」
情けや憐れみで、そばにいることを許しているわけではない。
絞り出すようにそう伝えると、数秒間の沈黙のあとに、ライファットから妥協のため息が吐かれた。
「まあ、いいでしょう」
「いいでしょうって、どの立場でお前……」
「本当はもっと別の角度から褒めてほしかったですけど」
「ああ、悪かったな口下手で」
納得はしていないがそこそこ満足したようで、立ち上がったライファットはそのまま二人分の食器を片付け始める。
だが今度はシリウスが意地になり、じゃあお前は俺を褒めちぎってくれんのかよ、と喧嘩腰に問いかけた。
「……」
片付ける手を止めて、顎に指を添えるライファット。
先程の沈黙よりも更に長い時間を費やして、ようやく出した答えが、
「……案外浮かばないものですね」
「てめえ!」
感謝の代わりに怒声が飛んだが、従者は痛くもかゆくもなかったようだ。
食事が終わると、あとは各々が自由に過ごす時間だけが生まれる。
自分の部屋に戻ったり、ソファーでくつろいだり、軽く掃除をしたり、読書をしたり。
今日はライファットがソファーを独占し、シリウスがダイニングテーブルで本を読んでいた。用意したお茶を少しずつ啜りながらページをめくる主人を見て、ソファーから顔を覗かせたライファットが言う。
「……シリウスさんって、そこそこ読書しますよね」
「〝そこそこ〟がいらねえなぁ」
「それはなんの本ですか?」
「思考実験。哲学が絡んでるやつだな」
「哲学……ですか。それはまた意外ですね」
「なんとなく一冊読んでみたら、わりとおもしろくてな。違うやつも買ってみた」
きっかけは、地下の奴隷が本を欲したときである。
シリウスが適当に何冊か買い揃えて与えたのだが、そのうちの一冊が特におもしろかったと奴隷が報告したので、興味本位で同じものを購入して読んでみると、確かに引き込まれる何かがあった。
奴隷に哲学など滑稽な話ではあるが、地下生活の中で楽しみを見出せたのならば、十分に意味がある。そして、最底辺とされる奴隷からおすすめの本を教えてもらったことも、シリウスからすれば恥でもなんでもない。
「〝答えのない問い〟について一所懸命に考えることが哲学だって俺は思うし、自分とは違う意見を聞くのも、おもしろかったりするかもな」
「へえ……」
「例えばライファット。お前はあるとき急に、どこか遠くへ行きたくなったりするか?」
「え? 遠くにですか?」
「そうそう。行きたいっていうか、消えてしまいたいって感覚」
これは哲学ってわけじゃないんだけどな、と付け加えて、改めて尋ねる。
少し真剣に考えてみて、俺はならないです、とライファットは答えた。
「遠くへ行きたい、消えたいってことは、つまり自分の命がそこで失くなってもいいって感覚に近いですよね? 俺は嫌ですね、そんなのは」
「うん、俺も同じ。でもだからって、反対の意見を言う奴を否定するつもりもない」
「〝間違っている〟わけではないですもんね」
「そうそう。……そんで、それにまつわる話があってな」
「なんですか?」
「もう何年も前になるんだが……」
それはライファットと出会う前、シリウスがまだ一人で旅をしていたときである。道中で、二人の旅人と知り合った。
一人はシリウスと同じ若い青年で、もう一人は三十代くらいの女性。
別の大陸から来て、かつ旅自体が初めてであるシリウスに、その二人は様々な情報を分けてくれた。
そして話していく中で、女性のほうが、ある悩みを抱えていることを知る。
「ふとしたときに、死にたくなるんだとよ」
「……へえ」
「とにかく心が鬱蒼とするらしい。事故に遭いたいとか、いっそ世界が滅べばいいとか。さっき俺が聞いた、遠くに消えたくなるっていうのも、その人が言ってたことなんだ。しかも一回本当に入水しかけて、通りかかった人に助けてもらったこともあるって」
「……そんな危ない精神なのに、一人で旅なんかして大丈夫なんですかね?」
「どっちかというと、黙って家にいるほうが気が滅入るらしいぞ。いろんなことを考えすぎるから。だから身体を動かしたり、外の景色を見たほうが、まだまともでいられるって」
「なるほど」
お茶がぬるくなりそうだと察したシリウスが、一気に飲み干して続ける。
「そういう話を、俺ともう一人で聞いてたんだけどな。そしたら男のほうが急に、〝せっかく生きてるのに、自分から死にたくなるなんてあり得ない〟って言いだしたんだ」
「うーん……。その男の価値観からすると、そうなんでしょうね」
「そっから男が、とにかくその女性の考えを否定することばっか言いやがってさ。最後には二人の喧嘩になって、止めるのが大変だった」
「うわあ……。シリウスさんからすれば、迷惑でしかないですね」
同情され、シリウスは苦笑いを浮かべる。
「正直俺は、どっちの言い分もわからなくはなかったから、どっちかだけの味方をすることはなかったな。〝人それぞれ〟っていう一番普通で、一番中途半端な答えしか言えなかった」
「えっ、死にたくなる気持ちもわかるんですか?」
「元少年兵としてはな」
「……。なるほど」
目の前の全てに絶望した。自分も死にたい、殺してくれという思いがのしかかる。
そして、自分だけが生き残ったからこそ、命を捨ててたまるかという気持ちが芽生えた。
今のシリウスは新しい居場所を得ることができたので、後者に精神を支えられている。
「じゃあシリウスさん」
「ん?」
「旅で思い出したので、今度は俺が質問をしてもいいですか? これは哲学的なものです」
「おっ、いいぞ」
シリウスが楽しそうに構える。ライファットは言った。
「では、そうですね……。身近な人に例えたほうがイメージしやすいかな。……イグリが一人で、旅行に行きました。数日後に帰ってきて、俺たちにお土産を渡したり、旅先での話をしています」
「うんうん」
「俺たちは最初、そのイグリを本人だと思っていました。けれど実は、本物のイグリは旅の途中で馬車に轢かれて、帰ってきたのは最新の医療技術で作られた別人だったのです」
「……ふーん?」
「ただし作られたほうのイグリは、自分が本物だと思っています。俺たちと過ごしたこれまでの記憶が、しっかりと受け継がれているから」
「うん」
「さて、帰ってきたイグリは、俺たちの知るイグリと同一人物でしょうか? それとも、全くの別人でしょうか?」
「……なるほど?」
これは確かに〝答えのない問い〟だと、シリウスは口元を覆う。
そこから考え込むが、その最中でライファットが、先に自身の回答を告げた。
「ちなみに、俺は偽物だと思いますね。記憶を共有しただけの偽物だと」
「うーん、なるほどな」
「これはイグリじゃなくても、シリウスさんやトウコさんであっても同じです。帰ってきた偽物を、本物として受け入れるのは難しいです。というか、たぶんできない」
「……んー……」
はっきりと存在を否定するだろうと、ライファットは主張する。
それもまた、一つの選択肢だ。
「……俺は……」
考えをまとめることができたようで、小さな声で発する。
ライファットは、シリウスなりの〝答え〟を待った。
「帰ってきたイグリを本物と認めることは、俺も難しいと思う。けど、そいつを〝新しいイグリ〟として迎えるくらいはするかもな」
「ほう」
「少なくとも、蔑ろにすることはできねえな。出ていけとか、二度とツラ見せんなとか、そういう扱いはできない」
「うーん……それはそうかもしれませんが……。でも俺は、言ってしまうかもしれません。受け入れたくないから」
「受け入れたくないっていうのは、本物が死んだ事実も含めてか?」
「……そう、かも、ですね」
「おぉー」
「なんですか、その反応は」
案外ライファットは、本物の面影を求めてずるずると心を引きずってしまうのではないかと、シリウスは思った。そして自分のほうが、気持ちの整理や区切りを早くつけられるのではないかと。
「シリウスさんは、その偽物イグリと仲良くできるんですか?」
「まあ、受け入れようとする努力はできるかもな」
「でもそうなると、本物を忘れてしまうんじゃないですか?」
「さよならしたからって、忘れるとは限らないだろ」
「俺が本物の立場だったら嫌ですよ。自分の居場所を奪われたみたいで。もし俺がそうなったら、シリウスさんの前に化けて出てきて、訴えますからね。〝あいつは俺じゃない、俺はたった一人だけだ〟って」
「……」
シリウスは、静かに腕を組んだ。
そのあとに、こう反論した。
「だったら俺も訴えるぞ。〝じゃあ生きて帰ってきてくれよ〟ってな」
「……」
……本日三度目の沈黙は、妙に気まずいものとなった。
〝死んだ側〟と〝残された側〟の主張が一致するはずもなく、この件に関してこれ以上は不毛と感じたライファットが、話題を変えるために一瞬だけ目を泳がせた。
「……そういえば、旅でもう一つ、思い出したんですけどね」
「……おう」
「俺、シリウスさんともう一回旅に出たいんですよ。前みたいに、長い旅を」
「えっ?」
今の生活が嫌になってしまったのかと思ったが、どうやらそういうわけではないようだ。
「ほら、最初のときの俺って、まだシリウスさんに遠慮してましたし。今だったら同じ都市でも、また違う楽しさを味わえると思うんです」
「ああ、そういうことか。まあ確かに昔のお前は、だいぶ猫かぶってたからなぁ」
「かぶってました。本当に色々、我慢してたんですよ」
「我慢って、まさか俺に対するか?」
ライファットは、首を横に振った。
「【26番都市】は覚えてますか?」
「もちろん。花火大会があったところだよな?」
「はい。シリウスさんがべろべろに酔って喧嘩して、そのまま勢いで俺に名前を与えた都市です」
「うるせえよ馬鹿野郎」
「あそこにもう一度行きたいです。もちろん、花火大会の時期を狙って」
シリウスが、どこか意外そうな顔をした。
「そんなに花火が気に入ってたのか?」
「いや、花火は正直おまけなんですけど……」
「けど?」
軽くうつむいたライファットが、右手をぐっと握りしめる。
「お祭りの露店を、制覇したいんです……!」
「……ああ、そっちか……」
空の花より地上の食べ物を愛でたい青年は、本当はもっと色々なものを食べたかったと、当時を振り返って主張する。
「シリウスさんもあれこれ食べてはいましたけど、俺は全然それ以上の量もいけました」
「なんだよ、確か遠慮すんなって俺言ってなかったか? まあでも仕方ないのか、あのときのお前からすれば」
「旅費の問題もありますしね……。どこかの三人組から巻き上げたとはいえ」
「破綻するほど食うつもりだったのか……」
改めてライファットの胃袋の無限さを思い知ったシリウスは、また旅をするのもいいかもな、と笑いながら未来を想像した。
「今は帰る場所がしっかりとあるから、前より気楽に巡れるだろうし。いつか行くか」
「本当ですか?」
「観光っつーか、お前の食の旅になりそうだけどな。付き合ってやるよ」
「俺一人で行っても楽しくないですからね。よし、他にも行きたい都市は当然あるので、今から回るルートを考えておかないと」
「気が早すぎる」
本気なのか冗談なのかわからないライファットを前に、シリウスにある提案が浮かぶ。
「じゃあライファット、今日はせめてご馳走にするか」
「えっ、ご馳走ですか?」
嬉しい一言を前に、赤い瞳がぴかんと無邪気に輝いた。
「旅の中で食ってきたものを再現しようぜ。あえて立ち食いで。立食パーティーってやつ?」
「いいですねそれ……! 楽しそうだ」
「うっし、じゃあ早速買い出しに行くか? 準備だけで結構時間がかかりそうだしな」
「わかりました、すぐに行きましょう」
同時に立ち上がって出かける支度をした青年二人は、かつての記憶と共に外を歩いた。
ついでに少し良い酒も用意したその日の夜は、注意する者がいないせいで盛大なものとなった。思い出話に花が咲き、酒が回って歯止めがきかなくなり、ろくに片付けもできないまま、なんとかそれぞれの部屋に戻った。
しかし、次の日に目の当たりにしたリビングの惨状と、二日酔いが頭の中でガンガンと暴れ回る現状に、しばらく棒立ちしたあと、臨時休業という意見で頷き合った奴隷屋であった。




